マタイ26:69-75 『不当な裁判』 2009/03/29 松田健太郎牧師

マタイ 26:69~75
26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

ルカ23:13~24
23:13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、
23:14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
23:15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
23:16 だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。

先週、僕はAll Nations Returnees Conferenceというイベントに参加してきました。
簡単に言うと、海外でイエス様と出会ってクリスチャンとなった人たちが集まって、互いに励ましあおうという集まりです。
そこには何と、500人以上の人達が集められました。
近年、日本で行われるキリスト教関係の集まりとしては稀に見るほど、最大規模のイベントです。
それ程多くの帰国者がいるという事、そしてそれ程多くの日本人が海外で救われているのだという事を改めて見て、驚きと喜びにあふれた4日間となりました。
この教会には帰国者の方がたくさんいますね。
まぁ、カンファレンス参加者のほとんどが、学生時代を海外で過ごした人たちでしたから、この教会にいらっしゃる方と状況が違う部分もあるかもしれませんが、来年もあるそうですので来年は僕一人ではなくみんなで行く事ができたらいいなと思います。

さて、よく言われることですが、年間に日本国内でクリスチャンになる日本人の数と、海外でクリスチャンになる日本人の数は同じくらいだと言われます。
海外にいる日本人より国内にいる日本人の方が圧倒的に多いわけですから、海外に出た日本人がクリスチャンになる確率は、かなり高い事になります。
日本人にとって海外に行く事は、日本文化の呪縛から放たれて、救いを受け取りやすい土壌だということができるでしょう。

しかし一方で、海外でクリスチャンになった方の70%以上が、帰国と同時に教会から離れてしまうという厳しい状況もあります。
だから、海外でクリスチャンになった人は、その国の雰囲気や勢いに呑まれて洗礼を受けただけで、本当の意味で信仰は持っていないのだなどと言う言われ方もするくらいです。

確かに、ノリだけでクリスチャンになってしまう人もいないわけではないかもしれません。
しかし、キリスト教国と呼ばれるような国でも、クリスチャンは10%くらいしかいないですから、その様な中で雰囲気だけで流されて決心できるものではありません。
僕は、海外でクリスチャンになったほとんどの方は、ちゃんと心にイエス様を受けてクリスチャンになったと思っています。
問題なのは、多くの人達が信仰的に未熟な状態で日本に帰国しているという事です。
知識も、自分の中での信仰も確かではない中で、日本に帰ってきてから経験する社会的なプレッシャーに負けてしまうのではないかと僕は思うのです。

自分はイエス様を救い主として信じているけれど、みんなはそうじゃない。
自分はクリスチャンだと思うけど、家族はわたし達の家が仏教徒だという。
自分は信じていなくても、みんなは初詣や、お墓参りや、法事や、お葬式を自分に強いる。
そんな中で、色々な事が判らなくなってくるのです。
実は、間違っているのは自分ではないだろうか?
みんなが正しいというなら、それが正しいのではないか?
一度は十字架こそ真理だと思ったけれど、違うのではないか?
そうしてだんだん自信をなくし、信仰から遠ざかってしまう。
このようなプレッシャーは、日本にいる人たちの多くがすでに感じているものです。
海外ではこういったプレッシャーから解放されていたのが、日本に帰ってきて目の当たりにすることになるのです。
全ての帰国者がそうだとは限りませんが、僕自身も身を持って体験した事でした。

こんな実験があります。
ある部屋に、実験のために10人の人々が集められました。
「これから視力検査をします。」という事で10人が並び、長さが違う数本の棒の内、一番長いと思うものを指した時に手を上げるようにという指示をされました。
しかし、実はそこに集められた被験者の内の9人は仕掛け人なのです。
9人は、3本の内の2番目に長いものを指した時に手を上げるようにと指示されています。
他の9人が違う答えを出す時に、人はそれでも正しい答えを応える事ができるかという実験なのです。
実験の結果は、80%の人が釣られて他の9人と同じ答えの時に手を上げてしまったそうです。
わたし達が、社会的プレッシャーの中で、正しい事を正しいと信じ続け、言い続ける事は簡単なことではないのです。

仕事をしていると、自分の仕事はとっくに終わっていても、他のみんなが残業をして働いていると、自分ひとりで帰ってはいけないような気分になって、ずるずると仕事をしてしまうという事があります。

また、駐車違反とわかっていても、他の車が停めていたらついつい自分も駐車してしまう。
あるいは、ゴミがたまっている場所ならゴミ捨て場でなくても、ついつい捨てたくなってしまう事もあります。
このような集団意識が、自分を無意識の中で支配しているのに気づきます。
皆さんはいかがでしょうか?

わたし達が生きるこの国は民主主義国家です。
多数決が多くの事を決める社会です。
しかし、みんなが言う事がいつでも正しいとは限りません。
それどころか、“みんな”という意識が、時にはわたし達を間違った方向に導く事もあるのです。

さて、聖書の話を振り返って見ましょう。
イエス様の弟子のひとり、ペテロという人は、自分の信仰に絶対的な自信をもっていました。
自分はどんな事があってもイエス様について行く。
自分こそはイエス様の一番の弟子であり、イエス様をもっとも愛している弟子だ。
しかし、イエス様がローマ兵たちに捕えられてしまった時、ペテロは3度もそして呪いをかけて「イエスなど知らない」と言いました。

ローマ帝国のイスラエル総督だったピラトは、ユダヤ人たちがつれて来たナザレのイエスという人物と出会って、「この人には罪がない。」と感じました。
しかし人々のプレッシャーに押されて、イエス様を無罪にする事はできませんでした。
そして十字架による死刑を宣告して、「でも、この判決にわたしは責任をもたない。」と宣言するのが精一杯だったのです。

ペテロも、ピラトも、本当はどうするべきかという答えを知っていました。
しかし、他の人たちのプレッシャーに流されて、思いとは違うことをしてしまったのです。
他の人たちもそうです。
この時多くの人たちが、裁判の場で真実を語るのではなく、嘘をつき、偽証をしてイエス様に有罪判決を下しました。
彼らの中には、ほんの数日前に、イエス様を「王様万歳」と言って迎えた人もいました。
しかし風向きが変わると、途端にイエス様を迫害し始めたのです。

みんなが言うのだから、このイエスと言う人物は悪人に違いない!
あるいは自分の意見が違っても、何となく多数の意見に逆らえなくなってしまう・・・。
そうして、イエス様は十字架にかけられました。

でも、僕は思うんです。
どうして僕が、彼らの事を責める事ができるだろう。
僕自身もまた、真理を語るべき時に語る事が出来ず、その場の雰囲気に流されて口を閉ざしてきた人間のひとりだったのではなかっただろうか?
ある時は僕だって、自身の中で疑いが首をもたげ、真実を見失いかけた事もあったのではなかったか?
僕はこの人たちと、何の変わりもない。
そんな僕もまた、イエス様を十字架につける側にいた人間のひとりだったのです。
僕がこの時代に住んでいたなら、きっとこの人たちと一緒に、「十字架につけろ、十字架につけろ。」と叫んでいたのではないでしょうか・・・。

このような不当な裁判にかけられながら、イエス様は決して自己弁護することもなく、また神としての権威を持って人々を直ちに裁くという事もしませんでした。
イザヤ書の中で預言されているように、ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開きませんでした。
イエス様の目は、いつでも十字架に据えられていたからです。
全てはわたし達を救うため。
こんなに罪深い、わたし達の罪を贖うため・・・。
イエス様を苦しめて殺したわたし達を救うために、イエス様は自らの命を投げ出してくださったのです。

今でも、信仰と社会的なプレッシャーとの間で苦しんでいる方はいらっしゃるでしょう。
それは、僕も同じです。
これほどの恵みを受けたと知りながらも、それでもまだ、時には恐れを抱いて福音を告げることができない自分自身がここにいます。
しかしそれでもなお、イエス様は決してわたし達にあきらめてしまうことなく、わたし達が主に立ち返るのを待っていてくれます。
そして、3度イエス様を知らないと言ったペテロに対して、「私を愛するか。」と3度問いかけたように、何度でも私たちに問いかけてくださるのです。

「あなたは、私を愛するか?」

「主よ、愛します。あなたがその事をご存知です。」
その信仰をもう一度確かめて、“他のみんな”をではなく、イエス様に信頼していこうではありませんか。

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