Iコリント13:1-8 『キリストの弟子として生きる⑤』 2009/05/31 松田健太郎牧師

Iコリント 13:1~8
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

皆さんは、植物を種から育てた事があるでしょうか?
夏休みになると、小学生がアサガオやひまわりを育てて、毎日絵日記を書かなければならなかったりしますね。
僕は植物を育てるのが苦手で、水をやりすぎて腐らせてしまう事が多いんですが、それでもアサガオやひまわりはちゃんと育てる事ができました。
子供でも育てる事ができるくらい、アサガオやひまわりは育てるのが簡単なのでしょうね。

ところが、僕の友人でアサガオを育てる事ができなかった人がいたんです。
新学期が始まって、みんなアサガオの植木をもってくるのですが、その子の植木鉢だけ、アサガオは芽を出してもいない。
クラスのみんなが出来た中で、その子のアサガオだけが育たなかったんです。
「種をまくのを忘れたんじゃないの?」とか、「水をやらなくて枯れてしまったんじゃないの?」なんてみんなは言うのですが、彼は「そんな事はない。ちゃんと種は蒔いたし、毎日水もやった。それでも芽が出なかったんだ。」と言うんですね。
「じゃあ、どうして彼のだけが芽を出さなかったんだ。」という事で話を聞いてみると、その原因がわかってきたんです。

彼が、ちゃんと種を蒔いて水をやっていたのは本当のようでした。
忘れてしまうどころか、彼はアサガオが育つのをとても楽しみにしていたんです。
でも彼は、楽しみにし過ぎるあまり、「まだ芽は出てこないのかなぁ。」と言って毎日種を掘り出して、芽が出ていないか、根っこは出てきていないかと確認していたのだそうです。
あまりにも頻繁に、埋めたり掘り出したりを繰り返すものですから、種はとうとうちゃんと育つ事もできずに死んでしまったんですね。
彼はクラスの誰よりも、アサガオのことを気にして、愛情を注いでいましたが、それは結果としてアサガオを殺してしまったのです。

① 愛は耐え忍ぶ
これはアサガオの話ですが、人間にも同じ事が言えるのではないでしょうか。
植物も人間も、成長するものです。
わたし達はたくさんの問題を抱えながらも、成長してちゃんとそれを乗り越えていくこともできます。
しかし、植物が成長するのにも、人が成長するのにもある程度の時間が必要です。
何度か注意したり指導をしただけで解決する事もありますが、私たちは大概、何度も同じ失敗を繰り返したりしながら、少しずつ成長していくものなのではないでしょうか。

そして人が成長する時には、他人がいじり過ぎてはいけません。
私たちが成長を焦り過ぎて、何かあるごとに掘り出して「成長しているかな」なんて確認をしていると、育つべきものが育たなくなってしまうのです。

私たちはついつい、成果を出す事を急ぎすぎてしまいます。
でも、早く成り過ぎた実はおいしくないでしょうし、木が大きくならないうちに実がなれば、実の重さで木が折れてしまう事にもなるでしょう。
またこれもよく言うことですが、見えないところである根が育たなければ、十分な栄養を吸収する事もできないし、自分自身を支える事もできなくなってしまうのです。

聖書にはこのように書かれています。

13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

これが、愛のリストの9番目の言葉です。
愛する事には我慢も必要です。
そして相手を信じ、期待し、耐え忍ぶ事が必要なのです。

私たちは、子供が生まれてくるなり、歩かせようとしたり、しゃべらせたりはしませんね。
歩き始めたら今度は逆上がりをさせようとしたり、しゃべり始めたら九九を覚えさせたりしてもすぐにできるものではありません。
赤ちゃんの頃なら当たり前の事でも、私たちはいつの間にか待てないようになってしまう。
しかし私たちは、時としてお母さんが赤ちゃんを見守るように、励まし、助け、相手の成長をゆっくり待つ事も必要なのではないでしょうか。

② 感情ではなく、考え方と行動を変える
さて、私たちは愛する事の大切さと、さらに3週間にもわたって、愛するとはどういうことなのか問う事を、聖書を通して学んできました。
しかし知れば知る程、愛する事の難しさを実感するという方もいるのではないでしょうか。
メッセージを聞いて「愛さなければ。」と思ってはみるけれど、いざあの人と顔を合わせると、どうしてこんなに赦せなかったり、待つ事ができなかったり、憎まれ口を叩いてしまったりするのでしょうか。
あるいは、メッセージを聞いてから数日くらいは愛のある人として振舞う事ができるのだけれど、3日もするとすっかり元に戻ってしまうという事もあるかもしれません。
私たちは、主の御霊を受けて新しくなったはずなのに、どれだけがんばってみても、何も変わらないように思えるのはなぜなのでしょうか。
それは、私たちの中にある、古い罪の性質が、私たちの無意識の中にまで浸透してしまっているからです。

私たちは、人生の多くを、神様を知らず、愛がわからない状態で生きてきました。
私たちは元の習慣のままに行動する方がずっと楽ですし、何かがあれば感情は条件反射的に反応して、愛とはかけ離れた元の状態に戻ってしまうのです。
パウロは、私たちにこの様に指導しています。

ローマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

私たちは、これまでの自分の価値基準を放棄して、神様の価値観を基準にして物事を考えるべきです。
感情の部分は無意識の中から生まれてくるものですから、そう簡単に変わらないでしょう。
ですから私たちはまず、私たちの中で無意識になっているものを意識する事です。
そして、私たちの感情を動かしている、考え方を変えていけばよいのです。
感情を変える事は難しいですが、考え方は変える事ができるのではないでしょうか。
感情を変えようとするのではなく、その元となる考え方や価値観を変えていく事。
心の一新とはその事を言うのです。

ヨナという預言者は、神様からの「ニネベの人々に福音を伝えなさい。」という命令に背いて逃げ出した預言者として知られています。
彼が逃げ出したのは、彼がニネベの人々を恐れたからではありません。
ニネベは、イスラエルにとっては敵であり、アッシリア帝国の大都市でした。
敵であるニネベに救いのメッセージを届けたくない。
むしろ滅ぼされるのが当然ではないかと思えたのです。
そんなニネベであっても、神様はそこに住む人々を惜しみ、救いたいと願っていました。

ザアカイという人は、善良な人々からお金を巻き上げてお金持ちになった小悪人でした。
誰もが彼を嫌い、お金だけが友達だったザアカイに、しかしイエス様は声をかけました。

ルカ 19:5b ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

嫌われ者のザアカイの家にイエス様が行くというので、彼を知っている人々はみんな驚きを隠す事ができませんでした。

収税人、娼婦、らい病患者、当時人々から疎まれていた人たちの元に、イエス様は好んで現れました。
神様がそのような人々も愛していたからです。

私たちの感情は、ある人たちを受け入れられないかもしれない。
そこにはそれだけの理由もあるでしょうし、自分は被害者だという方もいるでしょう。
しかし、相手がどうだからと言うのではなく、また勝手に反応してしまう自分の感情を基準とするのではなく、“愛しなさい”という御言葉を基準とし、それに従って愛するとき、私たちは神様からたくさんの祝福を受け取る事ができるのです。
それは、この様に書かれているとおりです。
ヨハネ 13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。

③ 神様の愛を知る
私たちが愛する事ができるために、もうひとつ知っておかなければならない事があります。
それは、愛とは何かを知らない私たちが愛する人となるためには、私たちがまず愛されているのだと知るという事です。
聖書の中にこう書かれています。

Iヨハネ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

愛とは私たちの内側から出てくるものではありません。
だからこそ、私たちがまず神様に愛されているという事が、私たちの力となります。
そうは言っても、なかなかその様に思えないという方もたくさんいるものです。
皆さんはどうか分かりませんが、僕は今まで「愛がわからない。」という人と何人も話してきました。
でも、最初は愛されている事を実感できなくても仕方がありません。
それは、わたし達に愛する事ができないのと同じように、私たちの思考が歪んでいるので、愛されている事を認識する事ができないからなのです。
だから私たちはまず、愛されているように感じるかどうかではなく、考え方を修正していく必要があります。

神様は寛容です。
神様は親切です。
神様はねたむことをせず、自慢したり高慢になりません。
神様は礼儀に反する事をせず、私たちの人格を尊重してくださいます。
神様は私たちから見返りを求めません。
神様は怒るのに遅く、私たちの悪をほじくり返すようなこともありません。
神様は私たちの不正を悲しみ、真理を喜びます。
神様は私たちのために、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

わたし達はこの様な神様の愛を理解し、しっかりと信じる必要があります。
わたし達に愛がわからなくても、神様が愛であることを知ることによって、わたし達はこの愛に生きる事ができるようになっていくのです。
それは、わたし達が主に似たものとなって行くということであり、わたし達が主の弟子である事の証です。

エペソ 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

皆さんが、主の愛を理解し、信じ、心から受け取る事ができるようになりますように。
皆さんが主の愛に生き、キリストの弟子としての自覚をもって生きる事ができますように。
皆さんがキリストに似る者となり、やがて神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされていきますように。

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