ヨシュア記6:1-11 『エリコ陥落』2009/07/12 松田健太郎牧師

ヨシュア記 6:1~11
6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
6:2 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
6:4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
6:5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
6:6 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」
6:7 ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」
6:8 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。
6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。
6:10 ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」
6:11 こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。

私たちは、人生の歩みの中で、大きな壁を感じることがあります。
これまで何事もなく、順風満帆に進んでいるかと思っていたら、突然目の前に大きな壁が立ちはだかって、前に進む事ができなくなってしまう。
数年に一回しか壁を感じない人もいれば、いつも壁ばかり感じている人もいるでしょう。
どこを向いても壁ばかりで、八方塞りという人もいるかもしれません。

対処の仕方も様々です。
乗り越えようとする努力をする方もいれば、回避する道を選ぶ人もいます。
回避する事も決して悪い事ではありません。
「俺の道を阻むものは、何であろうと乗り越えて打ち砕く!」と言うのは、男らしいかもしれませんが、必ずしも賢い方法とは言えないのではないでしょうか。
神様が壁を作って進む道を閉ざす事だってあるわけですから、時には素直に退く事も必要だと思います。

しかし、それが神様によって与えられた試練としての壁だとすれば、わたし達は逃げるのではなく、やはり何らかの方法で対処する事が求められているのです。
ヨシュアたちの前に現れたエリコの城塞も、彼らが乗り越えなければならない、文字通りひとつの大きな壁でした。
それは40年前、ヨシュアやカレブを初めとする偵察隊がこの地を訪れた時、目にして、多くの人々が恐れをなした壁だったのです。
ヨシュアたちは、どうやってその壁を乗り越えたのでしょうか?

① 戦いの備え
エリコという町は、カナンの中部に入っていくためにはどうしても通らなければならない重要な地でした。
しかし、そこを護る城壁は難攻不落です。
地形的にも、激しい傾斜面の上に位置していて、ただでさえ攻めにくい場所にあります。
そこに4~8メートルの城壁が2重に張り巡らされており、それぞれの壁の厚さは2メートルから5メートルに及びました。

そこを攻めようとするイスラエルはというと、彼らはつい最近まで荒野をさ迷っていた、流浪の人々でした。
しかも、さ迷っていた40年間、彼らはカナンに攻め込むためにトレーニングをしていたというわけでもなく、武器の持ち合わせがない事も、40年前と何の変わりもありませんでした。
いくら、彼らが大勢いたと言っても、普通に考えれば、この城塞を攻め落とす事は不可能な事です。
現実的に考えれば、攻略の方法など浮かんでは来なかった事でしょう。
神様の約束を信じながらも、エリコが近づくにつれ、緊張が高まっていきました。

そんな人々に、神様は戦いに向けての準備を命じました。
戦いの前の準備と言うと、普通は武装を整える事だと思うかもしれません。
しかし主は、彼らに武器を与える代わりに、このように命じたのです。

ヨシュア 5:2 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」

荒野をさ迷っている間、イスラエルの人々は割礼を行っていませんでした。
戦いを前にして、彼らはアブラハムの子孫であり、イスラエルの民であるという証の割礼を施して、彼らが神様に属しているのだという事をより自覚できるようにしたのです。
彼らはその傷が癒えるまでの間、休まなければなりませんでしたが、それでも戦いの前に割礼をしておかなければならなかったのです。

更に、イスラエルの人々は過ぎ越しのいけにえを捧げました。

ヨシュア 5:10 イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。

過ぎ越しの祭りをする事によって、彼らはイスラエルの脱出のだめに、エジプトで主が何をしてくださったかという事を思い起こしました。
現代を生きるわたし達クリスチャンは、聖餐式を行ってイエス様の十字架の贖いを思い出しますね。
その事を通して、わたし達が自分の中の救いをさらに確かなものとするのと同じように、イスラエルの人々は過ぎ越しを通して、自らの信仰を確かなものとしたのです。

割礼と過ぎ越しのいけにえを捧げるという事が、彼らに必要な戦いの準備でした。
わたし達もまた、大きな壁を攻略する戦いの前に、洗礼を受け、聖餐に預かって主を礼拝する事が必要です。
その二つのことを通して、わたし達は主がともにいて下さる事を知る事ができます。
ひとりでは勝ち目のない戦いも、主が共にいてくださるのなら、何を恐れる必要があるでしょうか。
わたし達が救いの確信を得て十字架を思うとき、どんな困難をも恐れる必要のない力が与えられるのです。

② エリコ攻略作戦
いよいよエリコの城壁を前にした時、割礼と過ぎ越しを通して得られた信仰が現実のものとなるような出来事が起こりました。

ヨシュア 5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
5:15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

抜き身の剣をもってヨシュアの前に現れた主の軍の将、これは見えない神様の形であるイエス様、その人です。
わたし達の戦いを、主が将となって戦ってくださるのです。
これは、ここで戦われる戦いが血肉を賭けた争いである以上に、霊的な戦いである事を意味しています。
わたし達が目にする事の多くは、霊的な世界で起こっている事の影でしかありません。
わたし達は主を将として霊的な戦いに勝つ時、この世での勝利をも手にする事ができるのです。
ではその霊的な勝利は、どのようにしてもたらされるのでしょうか?

勝利の原理の第一は、御言葉を中心にならなければならないという事です。
彼らは主の軍の将の言葉に従い、最初の6日間、城壁の周りを一周ずつ行進し、7日目には7回周りました。
その時、その行進の中心にあったのは、契約の箱です。
契約の箱の中にあったのは十戒を刻んだ石の板。
つまり、主の御言葉を中心として、彼らは進んだという事なのです。

わたし達の戦いは血肉の戦いではありませんから、御言葉の剣を手にとって戦うのです。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

わたし達は御言葉の剣を武器にして、霊的な戦いに勝利をする事ができるのです。

勝利の原則の第二は、力強い賛美です。

ヨシュア 6:8 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。
6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。

賛美は、ただの歌ではありません。
主は賛美の中に住むと書かれているように、わたし達が心を込めて賛美するところに、主の力は溢れるのです。
賛美は私たちに喜びを与え、励ましを与え、癒し、清め、力を与えてくれます。
それは、賛美が悪魔を退け、そこに主の力が満ちるからです。
心を込めて、主を賛美しましょう。

第三に、わたし達が忍耐強く、信仰を持って待たなければならないと言う事です。
主は、一瞬で壁を打ち壊してしまうのではなく、イスラエルの人々に7日間かけるように命じました。
一日目は静かに壁の周りを一周するだけ。
二日目も同じ、三日目も同じ。
最初の6日間は全く同じ事をしました。
彼らが途中で、こんな事を繰り返していても何の意味もないと思って止めてしまったら、彼らはエリコの陥落を目にする事はできなかったでしょう。

わたし達も神様の導きに従う中で、こんな事に何の意味があるのだろうと思うような繰り返しの日々があるかもしれません。
また、わたし達が祈る時、多くの場合主は「待ちなさい。」と言います。
それは、主がわたし達の忍耐を練り、それを通してわたし達の信仰を成長させようとしているからなのです。

ヘブル 10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

③ エリコ陥落
エリコの周りを回り始めてから7日目。
これまでは一日一回ずつしか周りませんでしたが、その日はそれで終わりませんでした。
一回、二回、三回・・・、そして彼らは七回エリコの周りを回ったのです。
回り終えると、今度は祭司たちが、角笛を大きく吹き鳴らしました。
そして次には、そこに集まったすべての人々が「おおおぉ!!」というときの声をあげました。
その声は大地を震わせ、それだけでなく、何とエリコの壁が崩壊したのです。
そうしてイスラエルの人々はエリコの城塞を突破し、町を攻め取る事ができたのでした。

確かに、大勢の人々が一斉に放つ声は凄いものです。
地面が振るえ、天井が割れんばかりの力があります。
でも、割れるわけではありません。
人の声で城壁の壁は崩すことなんてできないのです。
城壁を崩したのは、人々の声ではなく、神様でした。
人々のときの声と共に主が戦い、城壁はもろく崩れ去り、何百年もの間再建されることはありませんでした。

わたし達の人生には、わたし達が自分の力で乗り越えなければならない壁もたくさんあります。
しかし、わたし達の手にはとても負えないような壁であったとしても、主が戦ってくださるなら、わたし達は必ずそこに勝利する事ができるはずです。

わたし達が直面し、乗り越えなければならないのは、どのような壁でしょうか?
仕事の問題でしょうか、人間関係のことでしょうか、人の心にかけられた壁でしょうか、あるいは自分自身が作ってしまった思い込みの壁でしょうか?
それがどんな壁であったとしても、わたし達は恐れる必要がありません。
必要であれば、主が必ずそれを打ち砕き、乗り越えさせてくださるはずです。

先週も少しお話したように、僕自身いま大きな壁に直面していますが、メッセージの準備の中で主が直接励まし、力を与えてくださっていることを感謝します。
主は、わたし達にこの様に言われているのです。

ヨシュア 1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

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