士師記6:7-14 『ギデオンの召命』 2009/07/26 松田健太郎牧師

士師記 6:7~14
6:7 イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、
6:8 主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。
6:9 わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。
6:10 それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」
6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
6:14 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

皆さん、習い事はした事があるでしょうか?
子供の内は親にやらされているという事の方が多いので、やめたくなっても簡単にはやめさせてもらえないという事がありました。
でも、大人になってから何かを習い始めても、自分が好きで習い始めたはずなのに、あるいはこのスキルを身につけようと意気込んで習い始めたのに、いつの間にか飽きてきてやめてしまうのはなぜなのでしょう?

あるいは、ダイエットしようと思い立って、食事に気をつけたり、運動をしてみるのですが、やっぱり長続きしないで、結果的にリバウンドして体重が増えてばかりになってしまうのはなぜなのでしょう?

悲しい事ですが、信仰に関しても同じ事が言えます。
イエス様に出会った時はあんなに喜びで満ちていたのに、聖書も毎日読み、いつでも祈っていたのに、気がついたら聖書がほこりをかぶってしまって、日曜日に教会に行く事だけが信仰になってしまうなんて事があるのではないでしょうか?

この中にも、その様に感じている方がいらっしゃるかもしれません。
でも、安心してください。
それは皆さんだけの事ではないからです。
多くの方が、少なからず信仰のアップダウンを経験した事があるのではないでしょうか?
特に、信仰を持ち始めて数年の間は、何かがある度に信仰が上がったり下がったりする事もあります。
それが極端になると、ジェットコースターの様に上り下りしてしまいます。
でもそんな信仰生活では終いには疲れ果ててしまいますよね。

モーセの後継者だったヨシュアが死んだ後、明確な指導者を失うと、イスラエルの人々は堕落しては危機的状況に陥り、主の助けによって信仰を回復するというジェットコースターのような信仰を続けました。
今日は、そのようなアップダウンの繰り返しの中で、イスラエルの人々が学んでいった事をわたし達も自分のことを省みながら、共に学んでいきましょう。

① イスラエルの試練
ヨシュアという優れた指導者を失うと、イスラエルの人々は信仰的に堕落し始め、それと同時にモラルも低下していきました。
そんな折、周辺の民族が侵略し、イスラエルを危機に陥れます。
その時になってようやく悔い改めた人々に、神様は“士師”とか“裁き司”と呼ばれる指導者を立て、彼らの活躍によってイスラエルは危機を乗り越える事ができたのです。

しかし、それは一回だけのことではありませんでした。
平和になると堕落し、堕落すると危機が迫り、悔い改めて神様に助けを求め、神様がそれに答えて士師を送り、それによって平和が訪れるという事の繰り返しを、実に12回も繰り返すのです。
それはまさに、信仰のジェットコースターでした。
そういう意味では、わたし達人間は、昔から本質的にはあまり変わっていないのかもしれませんね。

さて、ここにひとつの法則があります。
それは、イスラエルが堕落した時、イスラエルは危機に陥るという法則です。
特に、堕落する度に敵の侵略に悩まされるというのが、士師の時代の典型的なパターンでした。
そして聖書には、それがなぜ起こるのかという事についても書かれています。

士師記 6:1 イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。

神様がそれを起こしていたのです。
もちろん、神様がミデヤン人をけし掛けた、というわけではありません。
しかし神様は、この時イスラエルから護りの手を離し、侵略されるままに任せたのです。
それは多くの場合、わたし達が危機的状況に陥らない限り、神様を見上げようとしないからです。
神様は、堕落したわたし達が再び神様に立ち返る事ができるように、この様な苦難を与える事があるのです。

できることであれば、わたし達はこの様な大変な目に合うのではなく、平穏無事にいたいと言うのが実際のところだと思います。
しかし残念な事ですが、このような苦難を経験するのでなければ、わたし達の信仰は堕落し続けてしまうものなのかもしれません。
苦しい時でも、うれしい時でも、いつでも主を仰ぎ見て主により頼んでいれば、わたし達は今ほどたくさんの苦難は経験しないで済むかも知れませんね。

② ギデオンの召し
さて、今日の中心人物であるギデオンは、イスラエルに与えられた5人目の士師です。
士師というのは、政治的、宗教的指導者なのですが、人によって選ばれるのではなく、神様によって選ばれました。
そしてその選びは、時としてわたし達の予想を遥かに上回るような、驚くべき人に下るのです。

ある日ギデオンの前に御使いが現れ、ミデヤンを打ち破れと命じました。

6:12 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

主の使いはギデオンに向かって、「勇士よ。」と呼びかけました。
ミデヤン人の襲撃を受けて苦しむイスラエルを救う指導者は、ミデヤン人を打ち破って追い返すことができるような強い勇士だと誰もが思うでしょう。
しかし、ギデオンという人は、勇士と呼ぶには程遠い、とても臆病な男でした。
御使いがギデオンにそれを告げた時、ギデオンは戦うどころか敵を恐れて、酒ぶねの中に密かに隠れていたのです。

ギデオンは、「勇士よ」と呼ばれながらも、自分の臆病さを隠そうともせずに答えます。

6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

しかし主はこの様に言われます。

6:12 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

6:16 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

ギデオンは確かに弱いかもしれません。
性格的にも決して指導者には向かず、自分には無理だと言うのも当然だったかもしれません。
しかし主は、「私があなたと共にいるから大丈夫だ。」と、言われるのです。

わたし達も、信仰に臆病になってしまうことはないでしょうか?
福音を大胆に語るようにと命じられているのに、恐れを抱いてしまってはいないでしょうか?
「自分にはこの程度の力しかないから、他の人を教えたり、誰かのために祈ったりする事もできない。」と思ってはいないでしょうか?

実を言えば、主のための働きに相応しい人なんてどこにもいないのです。
僕自身、いつでも感じていますが、力不足は当たり前の事です。
神様はむしろ、有能な人よりも力の劣った人を用いる事が多いのです。

Iコリント :26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

しかし、そんな力不足のわたし達でも、神様が共にいてくださり、力を与えてくださるのだから大丈夫です。
ギデオンは、ミデヤンからイスラエルを開放するために召されました。
皆さんが、神様から召されている事は何でしょうか?

③ 自分の召命を知る
ギデオンには御使いが現れて、直接その使命を伝えられましたが、わたし達がその様な形で召しを受ける事はそうはないでしょう。
ではどうやって、自分に与えられている召しを知る事ができるのでしょうか?

第一に、神様はわたし達がその働きをしたいという情熱を与える事によって、その使命を明らかにする事があります。
ハドソン・テーラーは、全てを捨ててでも中国に宣教に行きたいという情熱を与えられました。
リビングストンもまた、地位や名誉よりも尊いものをアフリカの地に感じ、自分の命をアフリカ宣教のために捧げました。

神様のための働きとして、皆さんが情熱を感じる事があるなら、それが皆さんのための召しかもしれません。
ある方は伝道、ある方は祈り、ある方はたくさんの捧げものによって教会を維持する事が召しかもしれません。
特にそれが、誰にでもできるような事ではないなら、神様が皆さんのために特別に与えられた力がそこに注がれているのではないでしょうか。

第二に、皆さんの中に沸き起こる怒りが、その召しを明らかにしているかもしれません。
ウィリアム・ウィルバーフォースは、黒人奴隷が当たり前だった時代に、同じ人間が奴隷にされる事への怒りに燃えて、奴隷解放運動を始めました。
皆さんが社会的に怒りを感じる事、教会の中で「どうして誰もこれをしないのだろう。」と思うような特別な怒りを通して、神様は皆さんをその働きに促そうとしているのではないでしょうか。

第三に、聖書の御言葉を通して導きが与えられます。
神様は聖書を通して語られるのですから、わたし達に与えられている召命も、御言葉を通して与えられると言う事も当たり前のことかもしれません。

牧師になった人たちの多くが、

ローマ 10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

という御言葉や、

ヨハネ 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

という御言葉が迫ってくるように感じて、牧師になる決心をしたと言います。
聖書を読んでいて、どうも気になる言葉、あるいはこれまで何度も目にしながら気にならなかったのに、今はなぜかその言葉が迫ってくるように感じる時、神様はその言葉を通してわたし達を何かに召そうとなさっているのかもしれません。

全てのクリスチャンが、何かのために召されていると僕は信じます。
それがどのような方法であったとしても、神様は何らかの方法でその召しを私たちに教えてくれるはずです。
自分に与えられている使命が何なのか、わたし達はいつでも祈りながら、求め続けていく必要があるのではないでしょうか。

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