士師記7:1-8 『ギデオンの闘い』 2009/08/02 松田健太郎牧師

士師記 7:1~8
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。

わたし達が聖書を読んでいると、そこにはたくさんの奇跡が描かれています。
イエス様の生涯は奇跡の繰り返しです。
処女降誕から始まり、病を癒し、5つのパンで5千人の人々のお腹をいっぱいにし、死人を蘇らせる。
でも、その奇跡を信じる事ができない人もいますね。
ノンクリスチャンの方だけでなく、実はクリスチャンの中にも奇跡を信じる事ができない人たちがいます。
それは多分、その方が奇跡を経験した事がないからです。

わたし達は、聖書の時代だけでなく、今も奇跡が起こり続けている事を知っています。
いろいろな人たちの証を聞いたり読んだりしていると、現代にもわたし達が驚くような奇跡を体験している人たちがたくさんいますね。
癒されるはずのない病が癒されたり、驚くべき偶然によって誰かの魂が救われたり。
しかしそんな話を聞くたびに、「神様ってすごいなぁ。」と思いながらも、「どうして自分にはそんな奇跡が起こらないのだろう。」と思う事はないでしょうか?

そんな奇跡を経験できたら、自分も神様への信仰がもっと増すだろうに。
今のように、時には信仰が薄れてしまったり、人に伝える事にも消極的になるのではなく、もっと大胆に信じ、大胆に語ることもできるのではないだろうか。

今日は、先週に引き続いてギデオンの話を見ていきたいと思っています。
先週は、臆病だったギデオンが、主に「勇士」と呼ばれ、ミデヤン人たちの侵略からイスラエルを護るために召された事を学びましたね。
そんなギデオンもまた、神様の奇跡を数多く体験したひとりです。
今日はいよいよ、そのミデヤン人との戦いで得た奇跡的な勝利を見ながら、どうしたらわたし達も奇跡を経験できるのかという事を学んでいきたいと思います。

① ギデオンの試練
さて、神様が約束してくださったように、臆病だったギデオンにも、ミデヤン人たちを打ち破るための神様の力が注がれました。

6:34 主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。
6:35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。

その時、ギデオンの元には3万2千人の仲間たちが集まりました。
ギデオンは心強かったでしょう。
危機を前にして、同じ志を持つ人々が次々と集まってきたのですから。
しかし、その時攻めてくるミデヤン人たちは13万5千人。
それでもまだ、4倍以上の兵力差がありました。
戦略の基本は、倍の兵力を持って相手と戦う事です。
どう考えても、今のままではイスラエルが不利でした。
それでもギデオンは、神様に与えられた確信を胸に、ミデヤン人たちに立ち向かう決心を固めたのです。

その時、神様がギデオンに語りました。
それは、誰もが耳を疑うような言葉だったんです。

7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

神様は、『それでは多すぎる。』と言ったのです。
しかし、13万5千人と戦うのに、3万2千人では少な過ぎるというのが実際の所でした。
ギデオンはむしろ、神様によって3万2千人が増やされる事を期待していたでしょう。
しかし神様は、3万2千人の兵力でミデヤン人を打ち破れば、自分たちの手柄として誇るようになるだろうと言われたのです。
そして神様は、その場にいる者の中から、恐れを抱いている者は帰すようにとギデオンに命じました。
すると、何と3分の1が帰ってしまい、残ったのはわずか1万人です。

しかし神様は、たたみかける様にギデオンに言いました。
『それでも、まだ多い。人々を水のみ場に連れて行き、その時の水の飲み方を見て、手で水をすくって飲む者以外は帰してしまいなさい。』
そうしてその場に残ったのは、何とたった300人です。
その300人で、13万5千人のミデヤン人と、これから戦うのです。
その差、1:450。
ひとりで450人を倒すのでない限り、相手に勝つ事はできないという事です。
これはもう、努力でどうにかできるようなものではありません。
それは、誰が見ても無謀な戦いであり、絶望的な戦いでした。
しかしだからこそ、この戦いで勝利すればそれは奇跡であり、神様がしてくださったのだという事が誰の目にも明らかになります。
勝利したイスラエルは、それによって自分たちの実力や努力を誇るのではなく、神様の愛に感謝し、神様の力を賛美し、神様が共にいてくださる事を心から喜ぶようになるのです。

私達は自分の弱さを知る時にこそ、神様に頼らなければ何もできない自分を発見します。
神様はそのことを私達に知って欲しいがために、わたし達に弱さを与えたり、わたし達を危機的状況に置くことがあります。
その経験を通して、わたし達クリスチャンは神様に信頼することを覚えていくのです。

② ギデオンの勝利
さて、いよいよ戦いの時、ギデオンは兵士を集め、300人を3つの部隊に分けました。
そしてそれぞれに、角笛と空のつぼを持たせました。
そのつぼの中には、燃えるたいまつが入れられました。
何とも不思議な武装でしたが、それによってギデオンは、450倍の敵を相手に戦い、勝利を手にしたのです。
その時の様子を見てみましょう。

7:19 ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。
7:20 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、
7:21 それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
7:22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。

実際のところ、戦って勝利したのはギデオンたちではありません。
彼らはただ主に従って行動をしただけで、そこで戦い、本当に勝利をしたのは神様でした。
最初に3万2千人が集められた時、そのまま13万5千人のミデヤン人とぶつかっていたら、彼らは間違いなく敗北し、たくさんの人々が命を落とす事となったでしょう。
しかし、神様は彼らの戦力をもっと減らして弱くし、そこに主が戦ってくださる事によって勝利をもたらしたのです。

そこで、最初の疑問に戻りましょう。
わたし達は、どうして神様の力や臨在、奇跡を経験できないのでしょうか?
それは、わたし達がそれを経験する人たちより劣っているからでも、重要でないからでもありません。
多くの場合、それはわたし達が、弱さを避けて通ったり、危機的状況を回避してしまったりするからなのです。

わたし達は、450倍の敵を相手にしなければならないような戦いに面したら、闘うまでもなく、あっさりとあきらめて降参してしまうのではないでしょうか?
あるいは、3万2千人集まった段階で知力を尽くし、何とかして自分の力や努力で切り抜けようとしてしまうのではないでしょうか。
しかし、最後まであきらめる事なく、神様に従い続けるのでなければ、わたし達は主の力を経験する事もないのです。
それは、わたし達が絶望的なくらい弱い状況になければ、神様のより頼んで、神様の力を求めないからです。
また、神様の力によって得た勝利を勘違いして、自分の力だと思い込んでしまうからです。

パウロはコリントに宛てた手紙の中で、この様に語っています。

IIコリント12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

もちろん、全ての危機的状況が神様から与えられたものと言うわけではありません。
しかし、弱さに中にこそ現れる主の力は、わたし達が主に従い続けるときに経験する事ができるものなのです。

③ 弱さを強さに
先日、テレビを観ていると、アンビリバボーという番組で、韓国のテノール歌手ベー・チェチョルという方の事が話されていました。
べー・チェチョルさんは幼い頃から教会で賛美歌を歌っていましたが、その中で歌を通して人を幸せにする喜びを知り、オペラ歌手を目指してヨーロッパに留学しました。
やがて彼は、100年にひとりの歌声を持つと称され、アジアの宝とまで言われました。
しかし、彼は2005年に甲状腺のガンの手術をきっかけに、声を失ってしまったのです。
「歌手として生きていく事ができないなら、自分は何のために生まれてきたのだ。」
「もう少しで世界的な名誉を受ける歌手になれたのに、神はどうして自分をこの様な目に合わせるのか。」と、彼は一時神様を恨みました。

日本人の音楽プロデューサーの紹介によって、日本で声帯回復の手術をしましたが、成功したものの日常レベルで声を出すのが精一杯で、歌うには程遠い声でした。
その上、最初の手術の後遺症によって、右肺もほとんど機能していない事がわかりました。
肺活量が足りないため、音を長く伸ばす事ができないのです。
彼は再び絶望しました。

そんな折、教会で自分のことを祈ってくれている人たちがいる事を知り、彼はその人たちのために歌を披露することにしました。
自分がろくに歌えなくなっている事はわかっていましたが、自分にはやはりそれしかないと彼は思ったのです。

しかし案の定、彼は途中で歌えなくなってしまいました。
苦しくなって歌えないでいるとその時、教会の人たちが、歌えない彼に代わって歌い始めたのです。
彼は人々の優しさに、心動かされました。

その後も、彼はリハビリを続けながら、教会に行って歌う事を続けました。
ある時、チェチョルさんは奥さんにこの様に話しています。
「僕は、この病気になってよかった。今までの僕は、自分の名誉のために歌い、人を押しのけて一番になる事しか考えていなかったけれど、今僕は、もう一度歌う喜びを感じている。」
2008年の7月、彼は横浜のラブソナタでも、その歌声を披露してくれました。
その時の彼は、途切れ途切れではありながらも、魂のこもった賛美を聴かせてくれたのを覚えています。
ところが、その続きがありました。

彼の肺には、奇跡が起こっていたのです。
ほとんど機能しなくなっていた右肺が、昨年末の段階で、7割まで回復していたそうです。
2008年のクリスマス前、べー・チェチョルさんの復活コンサートが行われました。
その時の様子が映像で映されていましたが、彼は長く声を出すところでも詰まってしまうことなく、素晴らしい歌声を披露していたのです。
彼は今も、完全復活に向けてリハビリを続けていますが、完全に復活した彼は、これまでの美声やテクニックに奢った歌ではなく、魂から喜びをもって叫ぶ歌声へと変わっていく事でしょう。
彼はまさに、弱さを通して強くされたのです。

今、弱さを経験し、苦難を通らされている方はいるでしょうか?
そのような経験をしているときには、わたし達は本当に辛くて、時には「神様どうして?」と聞きたくもなりますが、それはわたし達にとって必要な試練なのかもしれません。

わたし達は、今この試練を通して自分の弱さや無力を教えられ、だからこそ主に全てを委ね、主の力を経験する機会が与えられようとしているのです。
この様な時だからこそ、主を信頼してください。
苦しいからこそ、主に全てを委ねて、どこまでも従っていくことです。
神様は、わたし達の弱さの内に働かれ、わたし達は弱い時にこそ、強いのだからです。

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