ヨハネ9:1-7 『光を見た盲人』 2009/09/20 松田健太郎牧師

ヨハネ 9:1~7
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

ずいぶん前の話ですが、ある歌手のコンサートのチケットを申し込んだ事がありました。
会場の関係で希望者の数と合わず、そのチケットは抽選で当たらなければ手に入れる事ができないようなチケットでした。
その時僕は、抽選に外れてしまい、そのチケットを手に入れる事はできなかったんです。
しかし、僕の友人は見事当選して、チケットを手に入れました。
その時、友人は僕にこんな事を言ったんです。
「俺は日ごろの行いが良いからな。」
もしそれが本当だとしたら、日ごろの行いが悪かったから、僕には当たらなかったという事ですよね。
確かに当時、僕の日ごろの行いが良かったかと聞かれれば、それほど自信はないですが、日ごろの行いとチケットを取れるかどうかは関係があるのでしょうか?

街中でされる何気ない会話に耳を澄ませていると、実はわたし達の日ごろの行いは色んなところに影響を与えているのに気づかされます。(笑)
試験勉強の山が当たるかどうか、ふとした所で蹴つまづくかどうか、果ては今日の天気までが日ごろの行いによって左右されているようです。
疑問に思ったのは、農家の人は雨を降らせるために、良い行いをしたらいいのでしょうか、それとも悪い事をするべきなのでしょうか?

① 行い主義からの脱却
人がそのような考え方をするのは、少なくとも2000年以上前から同じでした。
生まれつき目が見えない人と出会った時、弟子たちはイエス様にこの様に訊ねたのです。

9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

良い事をすれば報われる。
悪い事をすれば裁きがある。
わたし達はその法則を全ての事に当てはめようとしているのかもしれません。
聖書には、蒔いた種を刈り取るという言い方もありますし、自分の行いが影響する事は確かにあります。
しかし一方で、ヨブのような正しい人が苦難にあったり、詩篇の中で嘆いているように、悪が栄えるのを見ることもあるのが現実です。
神様のなさる事は、限界があるわたし達の思考に収まりきるものではないのです。

日ごろの行いで晴れか雨かと言っているくらいならいいのですが、この考え方がエスカレートしていくと、わたし達は犯人探しや、行い主義に明け暮れてしまう事になります。
更に、このような価値観が信仰と結びつくと、ますますやっかいなものになるのです。
何かが起こるたびに、「祈りが足りなかったんだろうか?」とか、「ここしばらく聖書を読んでいないからじゃないかな?」なんて考えてしまったり、酷い時には献金額が少なかったからという事になってきてしまう。
祈ったり聖書を読むのは良いですが、このような考え方に平安はありません。
調子の良い時は自分の行いが良いからだと高ぶり、調子の悪い時には自分を責めて落ち込む事にしかならないのです。

キリスト教の信仰は、わたし達がクリスチャンになったらいい事しか起こらないラッキーでハッピーな人生を送れますよというご利益信仰ではありません。
自分の中に罪がある事を認めるのですから、むしろその報いを受けるのは当然でしょう。
しかし、その罪を神様は赦してくださったという事に喜びがあり、どんな苦難がある時でも、主が共にいてくださるから大丈夫だという揺るがない平安があるのです。

② 心にも光
さて、この出来事にはもうひとつ問題があります。
それは、弟子たちがこの盲人の目の前で、「この人の目が見えないのはこの人自身の罪ですか、それとも親の罪のためですか。」と話しているという事です。
どんなに真理をついた論議でも、どんなに正しい言葉でも、それを言うべき時と場所というものがあります。
無神経で心ないこの弟子たちの言葉に、この人はどれだけ傷ついた事でしょう。

例えもし、それが親の罪のためだとわかったとしても、どうしようもありません。
自分をこの様な目に合わせた親を一生憎んで生きるだけです。
そんな生き方には何の希望もないではありませんか。

そもそもこの価値観は、これまでもずっとこの人を苦しめてきたのではないでしょうか。
彼はいつでも自分を責め、親を恨み、このような目に合わせた神を憎んで、視力だけではなく心の闇の中を、いつも生きてきたのです。

しかしそんな時、弟子たちに答えるイエス様の声が聞こえてきたのです。
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

この言葉には、弟子たちだけでなく、この盲人もハッとしたのではないでしょうか。
これまで、それが誰のせいなのかという事ばかり考えてきた。
しかしそれは誰のせいでもなく、神様のわざが現れるためだと言うのです。
この時彼の心には、恨みや憎しみの闇の中に指す、希望という光を見たのです。

やがてこの人の目には泥が塗られ、シロアムの池で洗いなさいという言葉に従って目を洗うと、生まれてから光を見たことがなかったその目は初めて開かれ、文字通り見えるようになりました。

たとえこの盲人が見えるようになっても、心が闇に包まれたままだった、この人は決して、幸せな人生を送る事ができなかったでしょう。
しかし、これまで考えた事もなかった、それは誰のせいでもなく、神様の業が現れるためだったのだという希望が、この人に本当の光を見せたのではないでしょうか。

9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

ここには、“帰って行った”と書かれています。
彼には帰る場所があったのに、それまで道端で物乞いとして生きていました。
それは彼が、帰るべき場所がありながらそこにいる家族たちを赦せなかったという事実があったのではないかと思うのです。
しかし、目が開かれ、心の闇をも取り払われて、彼は帰るべき場所へ帰ることができました。

③ 世の光として
さて、神様は素晴らしい方ですね。
イエス様は優しいお方ですね。
しかし、それだけで終わってはいけないなと思います。
それはイエス様がこの様に言っているからです。

9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

イエス様は、十字架に掛けられて人としての命を終わられるまでに、遣わした方のわざを行わなければなりませんでした。
死んだ後は、そのみわざを行う事ができなくなるからです。

イエス様が死に、蘇られてから40日経ったペンテコステの日に、そのバトンは聖霊を通して、イエス様の弟子であるわたし達に与えられました。
だから今度はわたし達が、世の光として、地の塩として、この世界で主のわざを行わなければなりません。

皆さんは気づいていないかもしれませんが、そのために必要な力はすでに、わたし達と共にあります。
主が共にいてくださるのだから、大丈夫なのです。

この世界では、多くの人たちが苦難を背負い、時にはこの世の価値観の中で苦しめられて生きています。
苦しむ人に寄り添い、その人の話を聞くこと、その苦しみのために祈る事、必要であれば福音を伝えて、その人を救いに導く事がわたし達にはできます。
その人たちを癒し、希望を与えるのはわたし達ではありません。
わたし達と共にいてくださる主が、それをなして下さるのです。

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

わたし達の行いが、わたし達の運命のためではなく、主の栄光のために行われますように。

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