I列王記17:1-10 『エリヤ~主の器となるために』 2009/10/18 松田健太郎牧師

Ⅰ列王記17:1~10
17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
17:2 それから、彼に次のような主のことばがあった。
17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。
17:7 しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。
17:8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
17:9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
17:10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
17:11 彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
17:13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
17:14 イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
17:16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

聖書を読んでいると、登場人物の英雄的な行動や、驚くべき信仰に衝撃を受ける事があります。
数々の奇跡が起こり、勝ち目のない戦いに勝利していくのを見ていると、そんな事はありえないとか、少なくとも自分にはそんな事が起こるはずがないと感じてしまう事もあるのではないでしょうか。
しかし間違えてはならないのは、聖書に出てくる人々は決して神話的な、人間を超越したような存在ではなかったという事です。
イエス様一人を除いて、後はみんなわたし達と同じような普通の人たちでした。

今日から3週間に渡って、エリヤという預言者を見て行きます。
このエリヤという人は、数々の奇跡を起こし、聖書全体を見ていても、イエス様と同じくらいの奇跡を起こせたのではないかと思えるほど、すごい事が起こるんです。
実際にイエス様が奇跡を起こしたのを見て、人々は「エリヤが蘇った。」と噂をしたほどでした。
イエス様が白く輝いた時、弟子たちはその隣にエリヤとモーセが立っているのを見ました。
聖書の中で彼の生涯について触れている箇所はほんの数章しかないのに、彼の名前は聖書のいたるところに出てきます。
誰もが、エリヤほど偉大な預言者はいないと思っていました。

しかし、そんなエリヤもまた、わたし達と同じような人だったのです。
ヤコブの手紙にはこう書かれています。

ヤコブ 5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

皆さんは、会社や、学校や、家庭の中で、神様を知るのは自分ひとりだけだと感じる経験をした事はあるでしょうか。
クリスチャンが1%しかいない日本に住んでいる限り、おそらくほとんどの人がそのように感じた経験があるでしょう。
エリヤもまた、最悪の王と称されるアハブ王が治めるイスラエルの中で、それと同じ孤独を味わいました。
エリヤは確かに多くの奇跡を起こしましたが、それと同時にわたし達と同じように悩み、同じように落ち込み、同じように失敗し、同じようにうつにもなったのです。
だからこそ、わたし達が学べる事も多いのではないかと思います。
主はエリヤを通して何を教えてくださるのでしょうか。

① 砕かれるプライド
皆さんは人生の中で、状況が突然悪くなったように思えるような経験はないでしょうか。
何もかもうまく行っていたはずなのに、何かがきっかけとなって何をやってもうまくいかなくなってしまう。
わたし達がその様な状況に陥るのには、大きく分けてふたつの原因があると思います。

ひとつは、罪そのものが問題の原因となる場合。
罪というのは、わたし達にとって心地よかったり魅力的に思えても、最終的には必ず痛みが伴うものです。
罪そのものの中に毒があり、わたし達を傷つけ、弱らせ、苦しめるのです。

もうひとつは、わたし達が成熟するために神様が与える試練です。
筋肉を鍛えるのには、大変なトレーニングが伴います。
重いバーベルをリフティングしながら、これ以上ムリというところからさらに動かす事によって、初めて筋肉は鍛えられます。
ランニングで持久力をあげるのも、自分の限界ギリギリの所を何度も経験しながら、少しずつ持久力があがっていくわけです。
僕はいまベース・ギターを練習しているのですが、楽器を習得するのにもたくさんの練習が必要です。
わたし達の成長には、必ず痛みや苦しみ、困難が伴うのです。
わたし達が主に似た者として成長するためには、霊的に鍛錬されたり、人格的に成熟しなければなりません。
わたし達が神様に用いられるためにも、やはりそのような鍛錬の時が必要なのです。
神様から与えられる試練によって成長しなけれなければならない時が、わたし達にはあるのです。

さて、聖書にはこのように書いてあります。
列王記 17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
この大干ばつを通して、神様に背き続けるアハブとイスラエル王国には試練が与えられました。
アハブとイスラエルにとっては、彼らを悔い改めへとうながす試練でした。
しかしそれは、エリヤ自身への試練の始まりでもありました。
彼自身も、その干ばつの真っ只中にいたわけですから。

17:2 それから、彼に次のような主のことばがあった。
17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

預言者とは神様の言葉を人々に伝えるのがその役目です。
その彼がケリテ川のほとりに身を隠さなければならない。
まるで自分の存在意義を疑わせるかのような出来事だったでしょう。

さらに神様は、カラスによってエリヤを養わせると彼に伝えたのです。
あの、ゴミ捨て場を荒らす汚いカラス。
カラスが人の食べ物を奪っていったという話は聞いても、人に食べさせるなんて話は聞いたことがありません。
そんなカラスが毎日パンを運んでくれるのを待たなければならない状況、みなさんには想像できますか?
数日もすれば、みじめと言うか屈辱的と言うか、何だか情けない気持ちになってくるだろうと思います。

しかし状況は、さらに悪くなります。
しばらくすると、ケリテ川も涸れてしまったのです。
次にエリヤを養うために遣わされたのは、わずかな小麦と油しか持っていない、やもめとその息子でした。
彼らはわずかに残った小麦と油でパンを焼き、それを食べたら死んでしまおうと思っていたのです。
そんな彼らに、エリヤは自分のためにパンを焼いてくれと頼まなければなりませんでした。
本当なら、自分が助けて養ってやらなければと思わされるような貧しいやもめに、自分が養われなければならないという状況、それもまた、何と情けない状況でしょうか。

預言者としてのエリヤの戦いは、これから始まろうとしていました。
しかしその前に、彼は訓練を受けなければならなかったのです。
彼に必要だったのは、まずそのプライドが粉々に砕かれなければならないという事。
自分の無力さを知り、主の助けが必要だという事を心の底から理解する事です。
それは、彼が自分の力に頼るのではなく、すべて主の力によって働きをなすためでした。
イエス様の言葉を思い出しましょう。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

わたし達もまた、神様のための働きをするために自分の貧しさを知らなければなりません。
その時わたし達は、天の御国が力強くこの世界に臨むのを、目にする事になるのです。

② 心から信じ、委ねる事を学ぶ
もし僕がエリヤの立場だったら、色んな事を考えてしまった事だと思います。
カラスはこのパンをどこから持ってきたのだろうとか、明日も明後日も、本当にこのカラスは食べ物をもって戻ってくるのだろうかという不安・・・。
食べ物がなくて死ぬしかないと思っているやもめと子供から、小麦と油をもらわなければならない心配。
これでふたりが死んでしまったら、自分がした事は詐欺であり、略奪であり、人殺しです。
神様は本当にいるのかどうか、自分は本当に神様の導きに従って行動しているのかどうかと言う核心的な部分が問われます。
しかしこの時、エリヤは全てを信じたのです。
やもめもまた、この時エリヤを通して語られる神様の言葉を信じました。
だからこそ、彼らに残された最後の食料を、エリヤに捧げたのです。

神様に用いられるために必要な第2のことは、神様への信頼と信仰を確かなものにするという事です。
イエス様に触れられて目が見えるようになり、歩けるようになり、病が癒された人々がなんと言われたかを覚えていますか?
イエス様は、「あなたの信仰が癒したのです。」と言いました。
神様の奇跡は、わたし達が起こすのではなく、わたし達の信仰によって神様が起こすものなのです。

神様は決して約束を破らないという事、神の国とその義とをまず第一に求めるなら、他のすべてのものも与えられるのだという事を、わたし達は本当に信じているでしょうか。
これまでわたし達を生かして下さった神様は、これからも必ずわたし達を支え、生かしてくださるはずです。

③ じっくりと時間をかけて
わたし達が練られなければならない第3のことは、辛抱強く待つ力、忍耐力です。
わたし達は“今”だけを見てすべてを決め付けてしまったり、自分の行動の結果を早く見たくて焦り過ぎる傾向があります。
確かに神様は、奇跡的に問題を一瞬にして解決してしまう事もできますが、ほとんどの場面では、じっくりと時間をかけて解決に向かわせることを好むように思います。
それは、それによってわたし達の忍耐力が養われるからです。

17:15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

と、聖書には書かれています。
母と子が食べたらもう終わってしまうはずの小麦と油が尽きることなく、3人が長い間食べる事ができたというのは大変な奇跡です。
5つのパンと2匹の魚の話を思い出しますね。
それは確かに素晴らしい神の御業なのですが、しかし彼らは長い間、パンと水だけしか食べられなかったという事でもあります。
それは彼らにとってとても辛い体験だったでしょうが、エリヤの忍耐力はかなり鍛えられた事でしょう。

わたし達が苦難を経験する時、それだけを見てこれが現実だと決め付けてしまったら、わたし達はそこで足を止め、前に進む事はできなくなるのではないでしょうか。
しかし、わたし達が今経験しているのは、どこかへ向かうまでの途中なのだとわかれば、その状況だけを見て愕然としたり、絶望してしまう事はありません。
待つ力がなければ、わたし達は物事の途中だけを見て、それが現実だと思い込んでしまうのです。

皆さんは、神様の御業を経験したいと思いますか?
皆さんは、神様のための働き(ミニストリー)に参加したいと思いますか?
しかし、その思いはあっても、自分にはムリだ。
自分の人生に奇跡的なことなど起こるはずがない。
自分が力強く福音を伝え、主の御業をなす事ができるなんてできるはずがない。
今でもその様に思っていますか?

忘れないで下さい。
エリヤもまた、普通の人でした。
聖書に出てくる英雄たちは、イエス様を除いて全員が普通の人でした。
しかし普通の人が主を心から信じるとき、そこに神の御業は起こるのです。
わたし達がそれをするのではなく、わたし達を通して、主がしてくださるのです。

しかしこの事も忘れないで下さい。
わたし達が整えられ、主に用いられる器となるためには、時間がかかるのだという事を。
わたし達の上に置かれている試練を通して、わたし達がより主に似たものへと近づき、その信仰と、忍耐と、人格とが、主の栄光のために用いられますように。

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