I列王記18:16-39 『エリヤ~主の民としての戦い』 2009/10/25 松田健太郎牧師

Ⅰ列王記18:16~39
18:16 そこで、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。
18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」
18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。
18:19 さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
18:22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。
18:23 彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
18:24 あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
18:25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」
18:26 そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。
18:27 真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
18:28 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
18:29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
18:30 エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。
18:31 エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
18:32 その石で彼は主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
18:33 ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
18:34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
18:35 水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
18:36 ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
18:38 すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
18:39 民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

先週から、エリヤという預言者についてお話しています。
エリヤは、もっとも偉大な預言者として知られる人でしたが、そんなエリヤもわたし達と同じ普通の人なんですよね。

ヤコブ5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
と、書かれていました。

しかし、普通の人だったエリヤが、神様に用いられる器へと変えられるまでに、彼は大変な試練をいくつも乗り越えなければなりませんでした。
カラスに養われ、貧しいやもめと子供に助けられ、彼は自分の無力さを知り、神様に委ねる事を学び、忍耐を体得する事によって、少しずつ神様の器へと整えられていったのです。
今日の聖書箇所では、そんなエリヤがいよいよ、最悪の王と呼ばれたアハブ王たちと対決する事になります。

① 主の民の孤独
アハブは当時、イスラエルの王としては史上最悪の王と呼ばれてしまいした。
彼はイスラエルに異教の神を崇めさせ、モラルも最悪の状態に陥ってしまったのです。
そんなアハブ王と、イスラエルが主に立ち返るために、エリヤは神様の命によって、3年間雨が降らないとが宣言しました。
そんな出来事があってからまさに3年が経ち、彼らは再会の時を迎えたのです。
開口一番、アハブはエリヤにこの様に言い放ちました。

18:17 アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」

普通に考えれば、アハブ王がイスラエルを惑わし、煩わせているのです。
しかし、自分の思いをもってイスラエルを導こうとしているアハブにとっては、悪者はエリヤであり、彼こそがイスラエルの平和を乱すものでした。
何しろエリヤの宣言によって、3年間の大干ばつが始まったのですから。

人々はバアルとアシェラを信仰し、自分に従っている。
そのお陰で周りの諸国とも関係がよくなってきて、これから繁栄していこうとしているところなのに、このエリヤが余計な手を出して、イスラエルの秩序を乱そうとしている。
それがアハブの言い分だったかもしれません。

罪が当たり前となってしまった世界の中でその罪を暴こうとするなら、わたし達はこの時のエリヤと同じ状況に直面する事になります。
ある会社員は、会社の不正を明らかにしようとした時に、「こんな事はどこでもやっている。会社で働く数百人の社員たちを路頭に迷わせる気か。」と言われました。
また学校で、いじめを止めようとしたばかりに、今度は自分がいじめられるようになるという事もよく聞く話です。
あるいは、こんな風に言われた経験はないでしょうか。
「あなたは日本人なんだから、日本の神様を崇めていればいいのだ。」
「どうしてそんな異教の宗教を持ち込んで、家の平和を乱そうとするんだ。」
1%しかクリスチャンがいない日本の国では、わたし達がクリスチャンとして生きるというだけで平和を乱す者とされてしまう事もあるのです。

わたし達が生きる社会は、それが本当に正しい事かどうかよりも、どちらが多数派であるかという事を基準にして善悪を図る傾向があるようです。
冷静になれば明白な罪であっても、多数派となってしまうと罪に立ち向かう側が悪者とされるようになるのです。
そのためか、多くの人は正しい道を選ぶのではなく、多くの人が進む道を選びます。
しかし、いのちにいたる道は狭いのです。

マタイ 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

わたし達の進んでいる道はどちらでしょうか?
わたし達が正しい選択をする事ができるためにも、わたし達は孤独に打ち勝つ勇気が与えられますように。

② 主の民としての選択
アハブとエリヤのやり取りを、傍らで見守る人たちの姿がそこにはありました。
おびただしい数のイスラエル人たちがそこに集まり、事の成り行きを見守っていたのです。
彼らは悩んでいました。
昔から従ってきた真の神様に従うべきか、それとも王に従い、新しい秩序と正義を信じるべきか。
迷ってはいましたが、圧倒的に多数はである、アハブの方に傾いているのが実際のところでした。
それでも、信仰を貫きアハブに戦いを挑むエリヤの姿には、心打たれるものがあったのです。

そんな人々を前にして、エリヤは今こそ決着をつけるときだと判断しました。
アハブ王に、バアルとアシェラの預言者をいるだけ呼び出すように告げたのです。
そこには、450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者が集まりました。
850対1、その様子だけを見れば、勝敗は決まったように人々には思えたでしょう。
しかし、ここでエリヤは立ち上がり、イスラエルの人々に呼びかけたのです。

18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

「あなたは誰を神とし、誰に従うのか?」これは、いつでも誰に対しても向けられた神様からの問いかけです。
現代人の多くが、「自分は神を信じない。どの宗教にも属さない。」と考えていますが、意識をしていなくても皆、何かを神として、何かを信じ、何かに従う人生を送っています。
時として神がお金だったり、権力だったり、自分の欲望であったり、人から愛される事であったり、テレビやメディアであったり、その時々によって信じる対照は変わるかもしれませんが、わたし達は必ず何かから支配されている状態にあります。

わたし達が、イエス様を通して真の神様を信じるという事は、他のすべてのものを神としないで、真の神様にだけ従うという事です。
だから聖書には、真理はわたし達を自由にする(ヨハネ8:32)と書かれているのです。
わたし達が神様だけに従うのではなく、他のものにも目を向け始めた時、わたし達は自由を失って、歩むべき方向も見失います。
わたし達はふたつの神に仕える事はできないからです。
イエス様も、この様に言っています。

マタイ 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

10月は運動会のシーズンですが、運動会で赤組にも、白組ににも属する事はできません。
子供のころ赤白帽を真ん中でかぶって遊びましたが、わたし達はどちらかに属さなければなりませんよね。
真の神様に従いながら、富にも従おうとするのは、ひとりで綱引きをしているようなものです。
もう、どうしたらいいのかわからなくなってしまいますよね。

この世の教えは、人間は進化によって偶然生まれてきただけだと教え、自分の価値は自分の行いと人の評価が決めると教えます。
この世の教えは、人を騙してでもお金持ちになったものが勝ちだと教えるかもしれません。
この世の教えは、ひとりの神を信じるのではなく、たくさんの神を受け入れた方が平和的だと教えます。
また、わたし達の心は、罪から離れなさいという神様の言葉に逆らい、自分の思いと欲望を満たすようにわたし達を導こうとするでしょう。

もしわたし達が、自分自身を見失う事があるとすれば、“誰を神とし、誰に従うのか”という根本的な部分を見失ってしまっているかもしれません。
皆さんにとって、それを見直し、もし見失っていた自分を見つけたなら、この時が主を神として従う道を進むきっかけとなる事を心から願います。
何を信じるかという事が、すべての人にとっての土台であり、中心だからです。

③ 主の勝利
教会から家に帰れば、また信仰をもつのは自分ひとりという生活が始まります。
仕事場で、あるいは学校で、わたし達はまた少数派としての環境に戻る事になります。
でも、わたし達には離れていても信仰を共にする仲間がいるのだという事を忘れないで下さい。
そして離れてしまうからこそ、わたし達はお互いのために祈る事が大切です。
お互いに励ましあい、お互いの事をとりなして祈りましょうね。
何か心配な事があったり、戦いの中にあるときはいつでも「祈ってください」とわたし達を頼ってください。
イエス様の使徒や、パウロたちもそのようにしたのですから。

そして何より、戦いの中で孤独を感じる時、誰よりも主が共にいて下さるのだということを思い出してください。
エリヤが祈りによって850人の異教の預言者たちと対決した時、勝利したのはエリヤでした。
それは、異教の預言者の元に神はおらず、エリヤと共には主がいて下さったからです。
わたし達の目の前に立ちはだかる敵の数が、どれだけ多くても、またどれだけ手強そうに思えても、主の勝利を信じて戦い続けることができますように。

イザヤ 43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。

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