エペソ1:3-6 『子供とされる祝福』 2009/11/15 松田健太郎牧師

エペソ 1:3~6
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

ガラテヤ 4:3~7
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

かつて僕は、みなし児でした。
生きていくためには、騙す事も、盗む事も、人を押しのけたり、傷つけることも惜しみませんでした。
生きていくためには、仕方がない事だと思っていたからです。
いいえ、それだけではありません。
正直に言いますが、僕はそれを楽しいと思ったこともありました。
そこにはスリルがあったし、達成感もあったからです。
うまく行った時には、自分はなんて才能があるのだろうと思ったものです。

その一方で、僕はいつでも警察が捕まえにくるのではないかという恐れの中にありました。
これまで自分がしてきた事を考えると、どんな刑罰を与えられてもおかしくはありません。
仲間といる時は強気だったし、普段はそれ程気にならないこともありました。
しかし、独りでいる時、突然不安が僕を襲うこともありました。
時には何時間も眠る事ができなかったり、仲間が突然裏切るのではないかと考えた事もあります。
その頃の僕は、貧しい生活をしていたわけではないけれど、決して安らぎを感じる事もなかったのです。

ある日、僕は突然の孤独感と恐れのために、ひとりでうずくまって泣いていました。
そこに、ひとりの人がやってきたのです。
そしてその人は、うずくまる僕に手を差し伸べました。

初め、僕はその男が僕の縄張りにずけずけと入ってきた事が気に食わなかったのを覚えています。
もっともらしい事を言うそのひと言ひと言も腹が立ったし、うさんくさいやつだと思っていました。
しかし、僕の元に何度もやって来る彼に、僕は少しずつですが心を許していきました。
彼の人柄に触れ、その誠実さとやさしさが本物である事がわかってきたからです。

それでも、僕の中には恐れが残っていました。
これまで何度も騙され、裏切られてきたように、そして僕自身も騙し裏切ってきたように、この人も最後には自分を裏切るのではないか。
「もし全てが嘘だったら・・・?」
そんな僕の心配を知ってか知らずか、彼はいつものように僕に手を差し伸べ、信じられないことを口にしたのです。
「私の息子にならないか?」

僕は、差し伸べられたその手を取っていました。
それは、僕が彼の息子となるという約束の印でした。
全てが嘘だったとしたら、彼がもし僕を裏切ったら、僕は2度と立ち直る事ができないでしょう。
しかしそれでも、僕は彼を信頼したいと思ったのです。

彼は僕を養子として迎え、本当の子供のようにあつかってくれました。
そしてお父さんは、僕がこれまで知らなかった方法で僕を迎えてくれたのです。

僕はもう、孤独を感じる必要がない。
例えお父さんの姿が見えなくなっても、お父さんと僕の関係に変わりはないからです。

自分の明日を心配する必要がない。
お父さんが必ず助けてくれると、信じることができるからです。

自分の成功や失敗が、僕の人生や僕という人間の価値を左右しない。
虚勢を張って、必要以上に自分を大きく見せる必要がない。
愛を受けるために、ムリをして人にへつらう必要がない。
僕は自分が孤児であるという事に引け目を感じた事はありませんでしたが、お父さんを得た喜びがこれ程大きいものだということに、初めて気づきました。
お父さんの僕に対する愛が、僕という人間を変えたのです。

時々失敗する事もあるけれど、僕はこれまで生きてきたようには生きたくありません。
僕はもう、罪を重ねたくない。
それは、罰が怖いからでも、お父さんに見捨てられてしまうからでもありません。
僕は、僕を愛してくれているお父さんが大好きだからです。
お父さんの悲しむ顔を、僕は見たくない。
お父さんの嬉しそうな顔だけを、いつでも見ていたいのです。

驚いた方もいるかもしれませんが、これは僕の生い立ちについての話ではありません。
僕にはちゃんと両親がいますし、孤児になった事はありません。
しかし、これは別に嘘をついていたわけではなく、僕の霊的な経験を表したものです。
霊的に孤児であり、罪の奴隷だった僕が、お父さんに出会い、その愛の中で生き始めたという事。

聖書には、わたし達は神様の子供とされたと書かれています。
クリスチャンになるという事は、キリスト教という宗教に属する事ではなく、神様の子供とされるという事なのです。
その事を理解しない限り、わたし達はクリスチャンになっても、自分を束縛する新たな枷をはめられるだけで、決して自由にはならないでしょう。
しかし、クリスチャンになる事は、自由になり、喜びを得る生き方であるはずなのです。

これまで罪の奴隷だった僕は、自由になって今は神の子です。
僕は罪の罰に対する恐れによって罪から離れるのではなく、神様の愛に満足し、神様を悲しませたくないために罪から離れたいと願います。
そして、罪から離れる事は、自分自身にとっても苦しみから離れる事でもあるのです。
そして、神様の愛を受けているから、人からの愛を追い求める必要もなく、全てにおいて自由となるのです。

「私の子供にならないか?」という声は、皆さんの上にも響いています。
今日はこの教会の子供祝福式でもありますが、体がこどもである人たちだけでなく、すべての神の子たちに祝福が注がれますように。

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