ヨハネ1:1-14 『ことば、いのち、ひかり』 2009/12/20 松田健太郎牧師

ヨハネ1:1~14
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

僕の周りには、「神様の存在を信じる事ができない。」「神様に愛されている事がわからない。」と言う人がたくさんいます。
皆さんの周りにいる、クリスチャンではない人たちは大体そうではないでしょうか?
しかし、実はクリスチャンであっても、その事を悩んでいる人は少なくないのです。

生まれながらのわたし達は、神様の声を聞くことができません。
神様の姿を見る事もできず、神様がなされる奇跡を実感するという事も、ほとんどないかもしれません。
罪によって神様との関係が断たれてしまったので、わたし達は神様を認識する事ができないからです。

わたし達と神様との間に横たわる大きな裂け目を乗り越えて、どうしたらわたし達は、神様の事を知る事ができるのでしょうか?
今日はクリスマスの週です。
神様の事を考えるには良い機会ですから、クリスチャンの皆さんも、まだ信じる事ができない皆さんも、共にこの事を考えてみてはいかがでしょうか?

① 初めにことばがあった
“ことば”は、わたし達が自分の思いを相手に伝えるために必要なものです。
誰か好きな人ができた時、心の中でどれだけ一生懸命に念じていても、その人はふりむいてくれないでしょう。
誰かに嫌な事をされた時、「嫌だなぁ」と思っているだけでは、相手にはそれが嫌な事だと気がつかないかもしれません。
どんなに恥ずかしいと思っていても、口に出して自分の想いを伝えなければならない時があります。
それを口にするのでなくても、態度で表すなど、何とかその思いを表に出さなければ、わたし達の思いは決して相手には伝わりません。
ことばとは、意思を表すために存在しているのです。

ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

神様が、「光よ、あれ」と仰せられたときから、世界は始まりました。
この世界は、神様のことばによって創造されたと聖書には書かれています。
だから、神様のことばによって作られたこの世界は、神様からのメッセージで満ち溢れています。

人間が作ったものであふれている都会にいると、なかなかそれを実感しませんが、たまに大自然の中に身をおいて見ると、壮大な山々や、鬱蒼と生い茂る森、見渡す限りの海の中で、わたし達は神様の存在を感じる事があるのではないでしょうか。
そして神様の偉大さ、厳しさ、そして包み込むような神様の愛を、そこに感じる事ができるのではないかと思います。

しかし、自然の中に感じる神様の姿は、時に近づき難いほど厳かで、神聖で、その中にあって思わされるのは、自分という存在の小ささや、汚れにまみれた醜さだったりするかもしれません。
神様の前で、わたし達はそのような存在だからです。

② ことばに命が宿るとき
しかし、神様のことばはそれだけに留まりません。

ヨハネ 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ことばに、いのちがあったとヨハネは語っているのです。

いのちある神様のことば、それこそ神様が、ご自分の意思を伝えるため、わたし達に送ってくださった、御子イエス・キリストなのです。
神様の意思は、いのちを持ってわたし達の元に来てくださったのです。
神様とわたし達との間にあった溝は、わたし達が超えなければならないものではなく、神様の側が超えて、わたし達の側に来てくださったのです。
それは、あまりに大きく、厳かで、聖なる存在である神様が、わたし達と同じ目線に立って下さったという事でもあります。

クリスマスとして、わたし達クリスチャンが、イエス様の誕生を喜び祝う理由がそこにあります。
わたし達は、イエス様がした事を通して神様の思いを知り、神様がどのようにわたし達を愛してくださっているかを知る事ができるのです。

思い出してみて下さい。
イエス様の生涯で出会った人々と、どのように接していたかを。
イエス様は、貧しさのために汚らわしい仕事を強いられていた人々、病のために苦しんでいる人々、家族を失った人々、社会的な弱者や虐げられていた人たちと共に時間を過ごしました。そして、彼らを癒し、慰め、救いを与えたのです。

思い出してみて下さい。
イエス様が人々に、どんな話をしていたかを。
イエス様は救いの恵みを説き、地上においても神の国に生きる幸いを教えてくれたのです。

思い出してみて下さい。
イエス様が誰のため、何のためにムチ打たれ、十字架に掛けられたのか?
パウロはこのように言っています。

ローマ 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

神様がわたし達を愛していると、どうして言えるのでしょうか?
それは、神様がイエス・キリストを通して、わたし達を愛しているという意思を、わたし達の目線に立って表してくださったからです。
クリスマスを祝う時、わたし達は神様の愛と思いやりを思い出し、感謝と喜びに満たされるのです。

③ いのちのことば、この世のひかり
神様のことばがいのちを宿した時、そこには希望のひかりが生まれました。
そしてこのひかりは闇の中に輝き、闇はひかりに打ち勝つ事がないと、ヨハネは書いています。
もしキリスト教の信仰が、単なる道徳的なルールや、この世を正しく生きるための思想や、人の理解を超えたものを表現する宗教でしかないなら、それが消える事のない希望のひかりだというのはあまりに大げさな話でしょう。
しかし、いのちを持った神のことばであるイエス様がもたらした福音は、決して消える事のない希望のひかりなのです。

その希望のひかりの源を、ヨハネはこのように表現しています。

ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

神様によって作られた、被造物でしかないわたし達、しかも神様を忘れ、むしろ神様に敵対するものとなり、汚れた罪深いわたし達を、神様は子供として迎え入れて下さったのです。
それは、わたし達の行いや、内面的な聖さによってではなく、神様から一方的に与えられた恵みです。

わたし達は、聖書を勉強して、熱心に祈り、禁欲的で清貧な生き方をする事によって神様に受け入れられるのではありません。
道徳的、宗教的に正しい事を行う事によって、また神様の命令に従う事によって、神様に愛されるのではありません。
神様の子供として受け入れられ、愛されているから、神様との関係をさらに深めたいと願い、聖書を読み、祈ることによって神様との時間を過ごさないではいられなくなるのです。
いのちをかけてわたし達を愛してくれている神様がわたし達に命じる事は、わたし達を幸せにするものに違いないと信じているから、わたし達は神様の命令に従いたいと思うのです。

わたし達に希望を与え、ひかりで満たす福音の原動力は、神様への感謝と喜びです。
御子イエス・キリストがこの地上に来られ、わたし達の罪の贖いとなって十字架にかかり、そして蘇られたという事を信じるのなら、神様への感謝と喜びは当然のように、心の内から湧き起こってくるものなのではないでしょうか。

皆さんは、神様のことばを受け取っていますか?
皆さんの心は、希望のひかりにあふれているでしょうか?
今日も神様は、あなたに語りかけています。
「いのちをかけて、わたしはあなたを愛する。」と・・・。
どうかその事を心から信じて、救いを受け取ってください。
このクリスマスが、皆さんにとって決断の時となりますように。

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