詩篇51:1-19 『神様の前に悔い改める』 2010/01/10 松田健太郎牧師

詩篇51:1~19
51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。
51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげましょう。

シャーロック・ホームズの著者コナン・ドイルはいたずら好きで知られた人でした。
ある日ドイルは、イギリスの著名人に向けてこのような手紙を出しました。
「すべてばれた。 すぐ逃げろ!」
次の日、どういう訳かイギリス中の著名人がイギリスから退去したそうです。

わたし達の中にはたくさんの罪があります。
そしてこの罪のために、イエス様が十字架にかかり、命を投げ出してわたし達を救ってくださったのです。

ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

神様からの救いは一方的に与えられた恵みです。
わたし達はそれを勝ち取る事ができず、ただ受け取ることしかできません。
そしてイエス様を主として信じるわたし達は、すでに神様の救いの中にあります。

しかし、神様によって正しい者とされたと言っても、わたし達がすぐに罪を犯さなくなり、名実共に義人となるわけではありません。
洗礼を受けたクリスチャンも、やはり罪を犯してしまう事があります。
その罪は、確かに赦されているものではあるのですが、だからと言って好きなだけ罪を犯したらいいということにはなりません。
それは、罪そのものが、毒のようなものだからです。

恐らくどんな罪でもそうだと思いますが、罪は一見、わたし達にとって心地よいものです。
しかしそれは必ず自分を傷つけ、自分の大切な人たちを傷つけ、時には自分の周りにいる関係のない人たちをも巻き込んで、毒を振りまきます。
罪とは、道徳的に良いか悪いかと言うだけの話ではなく、わたし達を傷つけ、混乱させるものなのです。

わたし達は、そんな罪からどうやったら離れる事ができるのでしょうか?
今日は共に、悔い改めについて考えていきましょう。

① 悪い行いを悔い改める
自分の中に罪がある事がわかった時、皆さんはどうするでしょうか?
ある人は、罪がもたらす悪い結果を恐れて、表面的にそれを取り繕おうとするかもしれません。
ある人は自分の罪深さを思って、「私は何てダメなんだ」と言って自分の情けなさを責めるかもしれません。
ある人は、自分の犯した罪を反省して、2度としない様に決心するかもしれません。
しかし、少しの間はごまかしたり、罪から離れているように振舞う事ができたとしても、またすぐに戻ってしまうのではないでしょうか。
わたし達がどれだけ自分の力で罪に立ち向かい、克服しようと思っても、それは必ず失敗に終わるからです。
クリスチャンでない人が罪から離れようとするなら、これしか方法がないかもしれません。
しかし、わたし達が福音に生きようとするなら、新しいいのちが与えられているわたし達だけにできる、別の方法があるのです。

イエス様は、キリストとしての宣教を始めたとき、この様に言いました。

マタイ 4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

いきなり「悔い改めなさい!」と言われたら、誰でもびっくりするし、ムッとするかもしれません。
「悔い改める」という言葉自体、わたし達が普段は使わないような言葉ですから、何のことか分からないかもしれませんね。
悔い改めとは何でしょうか?

悔い改めというのは第一に、神様の前に罪を認め、それを告白し、背を向けて離れることです。
自分の罪を認めることには勇気が必要です。
しかし、わたし達が心の闇の中にある罪を明らかにして、それをイエス様という光にさらす時、わたし達の心のうちには罪によって受けた傷からの回復が始まるのです。

“悔い改め”という言葉のイメージもあるのかもしれませんが、多くの人が悔い改めるときに自分を責め、辛い気持ちになるようです。
反省という意味では、そのような感情が伴うことも当然のことだとは思いますが、悔い改めるときにわたし達が焦点をあてるべきなのは、神様から赦されているという喜びです。

Iヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
わたし達はこの御言葉を心から信じるとき、赦された喜びに満たされて、その罪から離れる事ができるのです。

② 神様に立ち返る
それでも、罪からはなれることに難しいという人がいると思います。
それはもしかしたら、わたし達が古い自分に捕らわれてしまっているからかもしれません。
わたし達は、自分が思い描いている自分として行動をしてしまうものです。
「あなたは暗い人ですね。」と誰かに言われれば、自分は暗い人間だと思い込んでもっとその様に行動してしまうのではないでしょうか。

確かに、かつてのわたし達は罪を愛する悪い人間だったかもしれません。
しかし、聖書はこう教えているのです。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス様を主として生きる人生を始めたわたし達は、もう罪の奴隷ではありません。
父なる神に愛され、イエス様を愛する新しい自分を自覚するとき、罪の束縛からも解放されるのではないでしょうか。

あるいは、わたし達は罪というものに目を向けすぎるかもしれません。
「この罪はダメだ。止めなくちゃ。」と思えば思うほど、罪にばかり目がいって、罪のことばかり考えてしまいます。
罪の事を考えれば考えるほど、罪に力を与えてしまう事になってしまうのです。
“わたし達は罪を止めるために努力する”のではなく、意識をイエス様の事に向けるべきです。

罪の本質は、神様から離れて自分が神になろうとすることです。
わたし達の意識が“罪を止めること”に集中するなら、その時実は更なる罪を重ねる事になっているのです。

悔い改めとは、第一に罪から離れることだとお話しました。
しかし本質的には、罪から離れるだけでなく、わたし達が神様に立ち返る事が悔い改めなのです。

放蕩息子のたとえ話を思い出してみてください。
放蕩息子が財産を失って自分の間違いに気づいたとき、『彼はそれでも必死に頑張って何とか成功し、お父さんにお金を返しました。』という話の方が良い話のような気がするじゃないですか?
現代のテレビだったら、そういう話を放送するのではないでしょうか。
でも、イエス様はそういう話をしなかったのです。
その代わりに放蕩息子は、父の元に帰って赦しを請うたのです。
同じように、わたし達が自分の罪に気がついたとき、まず第一にするべき事は主の元に帰るということです。
わたし達に罪を克服させる力を与えてくれるのは神様であり、神様抜きに罪から離れようとする事は、それそのものが新たな罪となるだけなのですから。

③ 良い行いの悔い改め
さてわたし達は、さらにもう一歩進んで考えて見たいと思います。
わたし達が悔い改める罪とは何かという事を、もう少し考えて見ていただきたいのです。

わたし達は“罪を悔い改める”と言ったとき、自動的に“悪い行いを悔い改める”事だと考えてはいないでしょうか?
しかし、神様から離れている事が罪の本質なのであれば、わたし達は良い行いをする事も罪の中で行っている事があるのです。
わたし達は、神様抜きに人助けをする事ができます。
わたし達は、神様抜きに聖書を読む事ができます。
わたし達は、神様抜きに祈る事ができます。
わたし達は、神様抜きに献金する事ができます。
わたし達は、神様抜きに礼拝に参加する事ができます。

わたし達の行いが、どれだけ霊的で正しいことのように見えても、神様抜きにそれをしようとするのであれば、それは全て自己中心から出てきたものであり、罪なのです。
わたし達は良い行いをしながら、神様なんていなくても正しい事ができると信じて、神様を心の王座から退けているのです。

パリサイ派の人たちは、宗教的にはとても厳しい人たちでした。
パリサイ派の人たちも悔い改めたのです。
しかし、彼らは悔い改めた結果、パリサイ派ではなくなったでしょうか?
いいえ、彼らは悔い改めてもパリサイ派のままでした。
なぜなら、彼らはパリサイ派のユダヤ人として生きることは正しいことだと信じていたからです。
そして正しい人間になる事に一生懸命になり過ぎて神様から離れていることにも気がつかないまま、自分の道だけを進み続けたのです。

福音に生きようとするのであれば、わたし達は悪い行いだけでなく、(言葉としてはおかしいかもしれませんが)良い行いを悔い改める事も知らなければなりません。
良い行いなのだから悔い改める必要なんてないと思っていると、わたし達はどんどん神様から離れていってしまう事になるからです。
天のお父様は、わたし達に正しい人間になることを求めているのではありません。
そんなことは、最初から無理ですから。
しかし天のお父様は、わたし達がいつでも主と共にある事を求めているのです。

家に帰りましょう。
お父さんが待っているところへ。
お父さんは、首を長くしてわたし達の帰りを待っています。

ルカ 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

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