ローマ1:16-25 『偶像からの解放』 2010/01/17 松田健太郎牧師

ローマ1:16~25
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

わたし達は今年、福音というものに焦点を置いて様々の事を学んでいます。
福音とは何でしたか?
それは、罪人となって神様から離れ、神様の栄光を受けられなくなってしまったわたし達を、神のひとり子であるイエス様自らが十字架に架かって救って下さったということです。
そして主の十字架を信じて受け入れるものはみな、永遠の命を与えられて天の御国に行く事ができます。
しかしそれは、死んだ後に天国に行くというだけの事ではありません。
わたし達は今こうして生きている間にも、主の支配の中にあって天の御国の祝福を味わう事ができると、聖書はわたし達に教えているのです。
わたし達はどのような苦難、困難の中でも、喜び、楽しみ、希望を持って生きる事ができます。
そしてわたし達は、やがてイエス様に似たものとされていくのが、福音の信仰によって得られる祝福であり、わたし達の希望なのです。

でもですね、わたし達はそこで現実に戻るのです。
わたし達は信じているけれど、ちっともイエス様に似てきているように思えない。
自分は相変わらず怒りの中にあり、恐れの中にあり、ひどく悩み、不安を感じ、意気消沈し、自己嫌悪に襲われてしまっているのはなぜなのでしょうか?

先週のメッセージの中で、わたし達は悔い改める事について学びました。
わたし達をキリストの似姿から遠ざけているものは罪です。
わたし達はその罪から悔い改めて、神様に立ち返らなければなりません。
しかしわたし達の中には、わたし達を罪に縛り付け、神様に立ち返るのを妨げているものがあります。
わたし達が悔い改める事を妨げ、神様に立ち返らないように留めるもの、それは偶像です。
わたし達の中には、そのような偶像がたくさんあるのです。
今日はこの偶像に関して、共に考えてみましょう。

① 偶像とは何か
偶像とは何でしょうか?
十戒の最初のふたつの戒めは、この様な言葉でした。

出エジプト 20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

わたし達に最も先に思い浮かぶ偶像とは、何か異教の祭壇に置かれている作り物の神々かもしれません。
日本人であれば、神棚や仏像がもっとも身近なものですね。
でも、実はそれだけがわたし達にとっての偶像ではありません。

偶像とは、わたし達が神様以外で、自分の人生に意味を与え、幸せにしてくれると期待している全てのものの事です。
わたし達を創造し、わたし達の人生に意味を持たせてくださっているのは誰でしょうか?
それはわたし達の創造主である父なる神様ただおひとりのはずですよね?
でもわたし達は、神様にしかできないはずのものを、他のものの中から見出そうとしているのです。

もしそれを手に入れなければ、あるいは自分がそれを失ってしまったら、自分の人生には価値はなく、意味がないと思ってしまう。
神様だけが満たす事ができるはずなのに、他のものにその満たしを求める事が、わたし達の偶像崇拝なのです。

わたし達がそれを神様だとは思っていないようでも、偶像は間違いなくわたし達の価値観に影響し、わたし達の思いを縛りつけ、奴隷のようにしてしまいます。
そうしてわたし達は神様から目を逸らされ、神様から受けるはずの祝福からも、背を向けてしまうのです。

② 偶像崇拝がもたらすもの
皆さんの偶像は何でしょうか?
神学者ジャン・カルヴァンは、「人間の心は偶像製造工場だ。」と言っています。
仕事、お金、物、社会的な成功、人、美貌、行為、役割、学歴、夢、イメージ、快楽・・・。
わたし達の心を支配し、偶像となってしまうものはいくらでもあります。
驚くべき事に、わたし達は、キリスト教や奉仕さえも偶像とする事ができます。
どんなものでも偶像にしてしまうのがわたし達罪人の性質なのです。

神様以外のものを全て捨てて、一切求めてはならないと言うのではありません。
お金は必要ないとか、おしゃれをしてはいけないという話ではないんです。
それではカルト集団ですね。
生きるために必要な物を得たり、快適な暮らしをする事が悪いのではもちろんありません。
しかし、神様以外のものを必要以上に求めて執着し、被造物が神となってその奴隷となってしまうことが問題なのです。

イエス様は弟子たちにこう伝えました。

マタイ 19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

また、イエス様は、手伝ってくれないと言って苛立つマルタにこの様に言いました。

ルカ 10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

わたし達の中から沸き起こる怒りや苛立ちの正体は、自分にとって、どうしてもなくてはならないものを受け取る事が妨げられる事にあります。
わたし達が意気消沈したり、自分を嫌いになったりする背景には、自分にとって、どうしてもなくてはならないものが得られない事が原因となってします。

例えわたし達が、自分にとってどうしてもなくてはならないものを持っていたとしても、わたし達は決してそれに満足する事ができず、もっとももっとそれを求めようとします。
あるいは、それを失うことから不安が起こり、その不安はやがて悩みや恐れへと成長していくのです。
この様にして、わたし達の中の執着は偶像となり、わたし達を支配し、罪へと導いていくのです。
偶像崇拝というものは、罪のひとつではありますが、実はすべての罪の影に、偶像があるのです。

偶像崇拝は、まさにそれが神であるかのようにわたし達を支配します。
しかしこの偶像の神は決して救いを与えません。
一瞬の満足と心地よさを与えますが、それはわたし達が勝ち取り続けなければならないものであり、それが十分になる事は絶対にないからです。
福音に生きるわたし達は、このような状況から、すぐにでも抜け出さなければなりません。

③ 偶像からの悔い改め
わたし達は、偶像崇拝を悔い改める必要があります。
わたし達は偶像に背を向け、神様に立ち返らなければならないのです。

わたし達が、神様よりも大切な偶像としてしまっているものは何でしょうか?
それはひとりひとり違うものだろうと思いますが、何が自分にとっての偶像となっているかを考えてみるのは必要なことだと思います。
そして、考えてみていただきたいのです。
それは本当に偶像として崇め、わたし達自身の支配を許す価値のあるものなのでしょうか?

お金は必要なものです。
しかし、お金もちになれば、本当にわたし達は幸せになるのでしょうか?
人間関係は大切です。
しかし、人に愛されるため生きて、わたし達は本当に幸せになれるのでしょうか?
快楽はストレスを取り除き、ひと時の開放感を味わわせてくれます。
しかし、必要とする刺激はどんどんエスカレートして留まる事はありません。
健康はすばらしいものです。
しかし、何かの理由で健康を壊してしまったとしても、人生の終わりではないのです。

イエス様はこう教えてくれたはずです。

マタイ 6:31 (そういうわけだから、)何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

私たちを幸せにし、私たちが本当に求めるべきものは、どのような被造物でもなく、すべてのものを創造した神様ご自身なのです。
そして、神様を第一とするならば、本当に必要なものは必ず備えられるという事を、わたし達は心から信じる必要があります。

偶像は、神様を深く悲しませるものです。
それは、わたし達が神様の救いや力を不十分だと決め付けて、神様の愛に対して泥をかけ、すべてを無駄なものであるかのように取り扱う事だからです。

わたし達が偶像崇拝の中に留まり続けることは、わたし達が神様に対してこの様に言っているのと同じことです。
「主よ、あなたを信じることは良いことです。素晴らしいことです。でも、私にはそれ以外のものも必要なのです。それがないと私の人生は楽しくもなく、意味のないものになってしまいます。あなただけでは不十分なのです。もしあなたが、私からこれを取り上げると言うのなら、私はあなたに背を向ける事になるでしょう。」

神様はそのひとり子を与える程に、私達を愛して下さったのではなかったでしょうか?
イエス様がわたし達のために流したその犠牲は、いったい何なのでしょうか?
わたし達は何度でも主の元に戻り、その愛の大きさを確かめる必要があるのです。

わたし達の習慣となり、価値観となり、どっぷりと浸ってきた偶像から離れることは簡単なことではないかもしれません。
しかし、わたし達が自分の中の偶像を認めて主の下に帰るなら、神様が解放の力を与えてくださいます。

ガラテヤ 4:31 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

福音に生きる喜びを味わいましょう。
キリストにある愛の中で、喜びはわたし達を真実な悔い改めに導いてくれます。
そしてその喜びが、縛り付ける偶像からわたし達を解放してくれるのです。
皆さんがあらゆる罪、偶像から解放されて、真の自由の中で、主と共に生きる事ができますように。

祈り:主よ、あなたこそ救いであり、あなたこそ私の義です。
自分で自分を救うのではなく、自分で自分を正しいとするのではなく、いつでも主に立ち返る事ができますように、お導きください。
私たちはあなたの子供として受け入れられています。
主イエスにあって、わたし達は愛され、名誉を与えられ、美しく、安全であり、豊かであり、尊厳を保ち、受け入れられ、自由であるということをいつでも覚えていられますように。
イエス様以外から心の満たしを得ようとするのでなく、他のどのような愛によってもわたし達が支配されないように、どうかあなたの愛でわたし達を満たしてください。
イエス・キリストの御名で祈ります。

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