詩篇126-1-6 『祈る事を教えてください⑤~嘆きのときに祈る』 2010/04/18 松田健太郎牧師

詩篇126:1~6
126:1 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
126:2 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
「主は彼らのために大いなることをなされた。」
126:3 主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。
126:4 主よ。ネゲブの流れのように、
私たちの捕われ人を帰らせてください。
126:5 涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

飛び飛びではありますが、祈りのシリーズはあともう少し続けたいと思います。
今日は、聖書にあるたくさんの祈りの中からダビデの祈りを見て行きたいんです。
ダビデがつづった詩篇は、ただ詩であるというだけでなく、その多くが祈りです。
そしてわたし達は、ダビデの祈りから多くのことを学ぶ事ができるのです。

詩篇の祈りに記されているもっとも顕著なものは、祈りの感情的な部分です。
ダビデはすごく感情的な祈りをするんですね。
わたし達は時として、感情を人間的であまりよくないものとしてみる傾向があります。
特にネガティブな感情というものは、否定されるべきだと多くの人が考えやすいのではないでしょうか?
確かに聖書には「いつも喜んでいなさい。」と書かれています。
それを、まるで悲しんではいけないとか、悲しみそのものを否定しているかのように受け取ってしまう方もいるのだと思いますが、そうでありません。
聖書は、わたし達の感情を否定する事を教えてはいないのです。

聖書は、わたし達が感情を否定するのではなく、祈りなさいと教えてくれています。
ダビデの祈りの多くは、まさにそのような感情の祈りです。
今日は特に、その感情の中から嘆きを祈るという事を、共に学んでいきたいと思うのです。

① 嘆きは起こる
わたし達クリスチャンの多くが誤解してしまいがちな事がいくつかあります。
そのひとつは、「わたし達は良いクリスチャンであれば、ハッピーでいる事ができるはずだ。」という誤解ではないでしょうか。
何度かお話してきた事ですが、クリスチャンになるという事は、何も問題のないハッピーな人生を送る事ができるという事ではまったくありません。
その事は判っているはずなのですが、それでもわたし達は何か辛い事があったり、何か問題があった時に、「自分はどんな罪を犯してしまったのだろう。」とか、「神様から離れてしまったからじゃないか。」と考えてしまう事があります。
皆さんには、そのような経験はないでしょうか?

どんな正しい人にも、悲しい出来事は起こります。
旧約聖書のヨブ記は、まさにその謎をテーマとした話です。
ヨブは神様の御心に適った正しい人であったにも関わらず、ある日サタンの試みを受けて全てを失い、みじめな生活へと真っ逆さまに突き落とされました。
ヨブが間違った事をしたから試練にあったのではなく、正しい人であっても試練を受けたのです。

イエス様を考えてみてください。
僕の知る限り、イエス様ほど神様に従い、神様と共に人生を歩んだ人を他には知りません。
ではイエス様は、何の痛みも苦しみもないハッピーな人生を送ったでしょうか?
僕の知る限り、イエス様ほどに、痛みと苦しみを知る人もまた、僕は他に知りません。
少なくとも、何の問題もなく生涯を送ったとは言いがたいでしょう。
そして全ての経験は、神様と共にあり、神様に従ったからこそ起こったのです。
わたし達はクリスチャンだからといって、またどれだけよいクリスチャンだったとしても、痛みや苦しみ、悲しみの涙、嘆きというものを避ける事はできないという事です。

そのような試練は起こるんだという事が判っていれば、わたし達は多少なりとも心の準備ができるのではないでしょうか。
わたし達の身に突然何かが起こったとき、「神様どうしてですか? わたしが何をやってしまったのですか!?」とわめいたり、落ち込んだりする必要はないはずです。
クリスチャンであっても、正しく信仰の道を歩んでいても、試練は起こります。
それどころか、聖書はわたし達にこのように教えているのです。

ヤコブ 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります

試練を通して、むしろわたし達の信仰は整えられ、成長させられるのです。
どうせ試練を経験しなければならないなら、むしろそれを楽しまなければ損です。
喜ぶとまではなかなかいかなくても、わたし達が経験する苦難が神様の計画の中にあるのだと知る時、わたし達は安心してその試練に立ち向かう事もできるのではないでしょうか?

② 嘆きを無駄にしない
さて、大きな苦難を経験した人たちの中で、わたし達は2種類の人を見る事ができます。
ある人は、苦難を通して成長します。
一方で、苦難によって卑屈なり、心が歪められ、成長とは逆の方向に進んでしまう人も少なくないのが実際のところです。
僕自身も、苦難に負け、卑屈になったりトラウマを抱えた経験があります。
同じような経験をしても、ふたりが得る結果はまるで逆のものです。
何がこのふたりを分けるのでしょうか?

大きな違いは、苦難を試練として受け止める事ができるかどうかという所にあります。
今日、わたし達はダビデという人の祈りにフォーカスを当てていますよね。
ダビデという人は、子供のころには親にも見捨てられ、大人になっても国王から命を狙われ、何度も惨めな生活を送り、時には気が狂ったふりをし、王になってもたくさんの罪を犯し、誰よりもたくさんの苦難を経験した人でした。
しかしダビデは、それによって卑屈になったり歪んでしまうことなく、むしろ神様に最も愛される王となったのです。

ダビデの祈りの中から、その秘訣を学ぶ事ができます。
ダビデはこのように祈っているのです。

126:5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
126:6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

ダビデは教えてくれています。
わたし達は、わたし達は涙と共にわたし達の思いを種として蒔くなら、やがてそこから刈り取る事ができる。多くのものを得る事ができるのだ、と。

わたし達は多くの場合、嘆きへの準備ができていないので、ただ涙に振り回されてしまうだけです。
もし準備できていたとしても、わたし達は嘆きをただ内に秘め、我慢する事によって乗り越えようとしてしまいます。信仰を持つ人の多くがそうではないでしょうか。
あるいは、嘆きを愚痴に変えて、ぶちまけることによって乗り越えるかもしれません。
しかしそれでは、涙を乗り越える事はできるかもしれませんが、それだけで終わりです。
わたし達は種を内に秘めたままでは、あるいはどこかにぶちまけてしまっても、そこから刈り取る事はできません。
わたし達は涙を、畑に蒔かなければならないのです。
わたし達が涙を畑に蒔くなら、やがてそれを、喜びながら刈り取る事になるのです。

涙と喜びは正反対のところにあるというのが、普通の考え方ではないでしょうか?
涙は、喜びを取り去ってしまうと普通は考えるのです。
それは、もちろん間違いではありません。
確かに悲しみは喜びを奪い去ってしまうものでもあります。

しかし、聖書がわたし達に教えてくれているのは、それよりもっと深い事なのです。
涙こそ、嘆きこそ、喜びの種なのです。
そう考えた時、わたし達はこれまで、何と多くの涙を無駄にしてきた事でしょうか。
また、わたし達はこれまで何と多くの涙を避けて通ってきてしまった事でしょうか?
しかし、涙の種をまかない限り、刈り取る事のできない喜びがあるのです。
皆さんは、いま悲しい経験をしていますか?
今はそうでなくても、その内悲しい経験をする事もあるでしょう。
皆さんはその時、どうするでしょうか?
悲しみを我慢しますか、誰かにぶちまけますか、避けようと努力しますか、それとも涙の種を蒔くでしょうか?

③ 涙の種を蒔くとは?
そこで当然、疑問が起こってきますよね。
じゃあ、どうやって涙の種を蒔いたらいいのか?
それこそが今日のメッセージのテーマです。
涙とともに蒔くというのは、“嘆きのときに祈る”という事です。
わたし達は、涙を、嘆きを、神様の元に持っていく必要があるのです。

全知全能の神様は、わたし達の天のお父さんでもあります。
神様はわたし達を愛し、わたし達の上に恵みを豊かに注いでくださいます。
詩篇には、嘆きの祈りがたくさん残されています。
しかし、その祈りは必ず喜びへと変えられているのです。

詩篇 55:16 私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。
55:17 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。

詩篇 30:10 聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。
30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

わたし達が嘆きを祈る時に必要なのは、第一に神様がわたし達の嘆きを理解してくださるという事を信じることです。
全知全能の神様が、どうしてわたし達の嘆きなんていう感情を理解できるのでしょうか。
それは、神様ご自身が、イエス様の十字架を通して嘆きを経験してくださったからです。
ひとり子を失う父の涙。
十字架の上で、痛めつけられ、苦しめられ、裏切られ、辱めを受け、全てに見捨てられて死に行く苦しみ。
その全てを、神様は知っておられるのです。
他の誰も理解してくれなかったとしても、主はわたしの痛み、苦しみ、悲しみ、嘆きを理解してくれる。
誰かがその嘆きを知ってくれているという事は、わたし達にとって大きな励みとなります。

そして、わたし達が嘆きを祈る時に大切な第二の事は、その痛みの大半を、主がすでに引き受けて下さったのだということを知るという事です。

わたし達の肉的な思いは、苦難を経験する時に神様が罰を与えているのではないか、自分は神様から離れてしまっているのではないかと不安になり、罪の意識に押しつぶされそうになるわけですよね?
しかし、その罪のために、神のひとり子イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださったのです。
わたし達の罪は、すでにそこで贖われたのではありませんか。
イエス様が、すでにその重荷の大半を背負ってくれたのです。

イエス様は言います。

マタイ 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い

だから、聖書にはこうも言われているのです。

Iコリント 10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

苦難の中で、信仰を失う人もいます。
「神様が全知全能で、わたし達を愛しているなら、どうしてこんな悲劇が起こることを神様は許すのだ。」
嘆きの中で、絶望する人もいます。
「この状況は、永遠に変わらないのではないか?」
しかし、わたし達が嘆きの涙を祈りとして神様の前に捧げる時、嘆きは必ず喜びへと変えられます。
それは、神様の約束であり、歴史の中で実際に起こってきたことだからです。
祈りは、わたし達を再び立ち上がらせる希望です。
状況がなかなか変わらなくても、祈った後も物事が悪化していくように感じられても、決して諦めないで下さい。
諦めてしまったら、そこで終わりです。

しかし、わたし達が希望を持って信仰とともに涙の種を神様の御前に蒔く時、わたし達の涙は新たな喜びとなって、必ずわたし達の人生を豊かに満たし、心を潤してくれるはずです。

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