詩篇3:1-8 『恐れの時、盾となる主』 2010/04/25 松田健太郎牧師

詩篇3:1~8
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。
「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、
私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。
すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。
あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

わたし達は、恐れを持ちやすい存在です。
有名な話ですが、聖書には「恐れるな。」という言葉が365回出てくるそうです。
それは、一年間毎日「恐れるな。」といわれ続けなければならないほど、わたし達が恐れを持ちやすいのだという事を表しています。
そんなわたし達に対して、神様は「恐れなくてもいいんだよ。」と何度でも語りかけてくださるのです。

ダビデは、大きな恐れを経験しました。
ダビデの息子のひとりアブシャロムが謀反を起こし、わが子に自分の国を追われたのです。
詩篇の中で彼は、アブシャロムの軍隊に囲まれて、追い詰められている状況での感情を書き記しています。

皆さんは、わが子に命を狙われて追詰められるという状況に陥った事があるでしょうか?
考えうる限り、最悪な状況のひとつなのではないかとさえ思えます。
しかし命を狙われ、取り囲まれ、死が迫っているというこの場面でダビデは言うのです。

3:5 私は身を横たえて、眠る。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

わたし達には、ダビデほどでないにしてもたくさんの危機を経験します。
その中で、恐れにとらわれてしまう事も少なくはありません。
今日はダビデの詩篇を通して、わたし達が恐れに対してどのように取り組んでいくべきかという事をともに学んで行きたいと思います。

① 『しかし』
この時ダビデは、ふたつの危機の中にありました。
ひとつは、敵に囲まれて命の危険にさらされる、物理的な危機。
もうひとつは、「彼に神の救いはない。」という敵の言葉が引き起こす、信仰とアイデンティティの危機です。

わたし達はこのような危機を経験する時、どのように対応できるでしょうか?
パニックに陥ってしまったり、絶望的な気持ちになってしまったり、逆切れして冷静さを失ってしまったり、色々な反応があるのではないかと思います。
ひとつの危機なら何とか乗り越えられるかもしれません。
でも、物理的な危機と、内面的な危機の両方が同時に襲い掛かってきた時、わたし達は希望を失い、どん底に突き落とされたような気持ちになるのではないでしょうか。

このようなどん底で、ダビデは何と言ったでしょうか?
ここに、ダビデが得意とした魔法の言葉があります。
3節を見ていきましょう。

3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、
私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。

冒頭の『しかし』という言葉、これこそダビデが得意とした魔法の言葉です。
実は、ダビデの詩篇の多くが、ネガティブな言葉や思考からスタートします。
でもその詩の中で、突如この『しかし』という言葉が告げられ、ダビデのネガティブな視点はいつでもひっくり返されるのです。

わたし達にも、この『しかし』が必要です。
わたし達の祈りの多くも、神様に助けを求めたり、絶望を嘆く祈りが多いかもしれません。
でも今直面している状況は、困難だけで終わらない。
わたし達が神様への信仰と御霊に満ちる時、そこには希望の『しかし』が与えられ、すべての苦難を覆していくのだという事を、わたし達は信じる事ができるのです。

② 主こそ我が盾
さて、わたし達が恐れの中で祈る時、神様はわたし達の盾となって守ってくれます。
しかし、それはただの盾ではありません。
ダビデはそれをどのように描写していたでしょうか?

3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、

私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
ダビデは神様を、“わたしの回りを囲む盾”と表現しています。
そしてそれには、わたし達にとって特別な意味がある事なのです。

盾には大きく分けて2種類の盾があります。
ひとつは、剣で戦う時に着ける、剣撃を受けるための盾です。
これは、激しい打ち合いに対応するため、小さくて振り回しやすい造りになっています。
でもこのような盾は小ぶりで、回りを囲む盾にはなりえません。
回りを囲む盾というのは、体を隠す事ができるくらい大きくて、頑丈な盾です。
ダビデは、神様が大盾となってわたし達を護ってくださるのだと言っているのです。

ただひとつ、わたし達が考える必要のある事があります。
それは、どのような目的の時にこの大盾が使われるのかという事です。
大盾は、普通の戦いの時に使われる盾ではありません。
大将の命令に従い、城砦を攻め落とす時に使われるのが大盾なのです。

城砦を攻める時、兵士たちは激しい抵抗と攻撃にあいます。
大きな岩が降ってきたり、熱く煮立った油が降ってきたりするのを、この大盾で防ぐわけです。
大切なのは、この盾が逃げたり、攻撃を回避するためのものではなく、危険の只中に突入するためにあるものだという事なのです。

神様がわたし達に命じるのは、ただ安全なところにいて、幸せな一生を過ごしなさいということではありませんね。
「真心をもって神を愛しなさい。」
「自分を愛し、それと同じように隣人を愛しなさい。」
「貧しい人、弱い人を助けなさい。」
「世界に出て行って、福音を述べ伝え、彼らを弟子としなさい。」
その全てが、必ずしもいのちの危機と直接は結びついていないかもしれません。
あいかし何事もない平穏無事な生涯を生きるのではなく、苦難や試練のために飛び込んでいくようにと神様は命じている事がわかります。

わたし達が試練に背を向けて逃げる時に、神様は護ってくださるのではありません。
わたし達が、神様に与えられた使命に従って、困難の中に飛び込んでいく時にこそ、神様はわたし達の回りを囲む大盾となってわたし達を護り、わたしの栄光、わたしのかしらを高く上げて下さるのだと、聖書はわたし達に教えているのです。

③ クロスロード・インターナショナル東雲教会計画
先日行われた信徒総会の中で正式に発表した事ではありますが、わたし達の教会は今、東雲や豊洲の方で新たな教会を開拓する計画を祈っているところです。
僕自身の思いとしては、正直なところ、躊躇している部分もあります。
しかし、その事を祈り、少しずつ歩みを進める中で、神様はどんどんその方向に道を開いて下さっています。
だから、教会開拓が御心だろうというのは、僕の中ではかなりはっきりとしてきました。

僕はまだ経験した事がないので、実感をするのはこれからでしょうが、教会開拓は大変な事だと思います。
神様の御心だからと言って必ずしもスムーズに行くのではなく、実際には苦労も試練も多いのが今進もうとしている道でしょう。
それでも、それが神様の命じる事なら、僕は信仰をもって進みたいと思っています。
そして信じて進む時、主は大盾となってわたし達を守ってくださるのです。

大変になってくるのは、僕だけではありません。
これから少しずつですが、これまで以上に皆さんに奉仕をお願いする事が増えてくるだろうと思います。
この葛西の教会も、これからますますみんなで作り上げる教会になっていかない限り、成長する事ができないと思うからです。

僕がこの教会で何かを企画して皆さんにして頂くのではなく、皆さんが始めるミニストリーが、これから増えていくでしょう。
感謝な事ですが、すでにいくつかの事が起こり始めています。
そしてどうか皆さん、お互いに協力し合いながら、その働きを進めて行っていただきたいと思うのです。
ミニストリーに積極的に加わり、またそのためにお祈りください。
わたし達が主の言葉に信仰をもって従う時、神様は守ってくださるというだけでなく、たくさんの御業も見せてくださるはずだからです。

④ 恐れを超えるもの
ダビデは、最後の一節をこのように書いて閉じています。

3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

ダビデにとって、彼自身の守り、彼自身の平和では十分ではありませんでした。
彼の心にあったのは、イスラエルの全国民の平和と救いです。

神様が示す道が困難である事もわかっていながら、わたし達はどうして恐れに従うのではなく、神様の道を選び取るのでしょう。
それは、神様への愛とともに、人々への愛のためです。

ひとりでも多くの人が救いを手にする事ができるように。
ひとりでも多くの人たちに、神様の正義が注がれるように。
ひとりでも多くの人たちが、愛を経験する事ができるように。
わたし達は、愛のために恐れを乗り越える事ができるのです。

Iヨハネ 4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

イエス様は、ゲツセマネの園で血の汗を流しながら神様に祈っていました。
恐れていたからです。
イエス様は、できる事ならこのような苦難を経験しなくても済むようにと祈りました。
しかし祈りの最後には、イエス様は神様の御心だけがなるようにと閉じる事ができました。
肉と霊における死という恐れを、イエス様はどうして乗り越えたのでしょうか。
それは、わたし達への愛のためです。

血の汗を流すほどの恐れを感じながらも、イエス様はわたし達を愛し、わたし達を救うために、十字架の道を選んでくださったのです。
それは、そのままでは終わりませんでした。
わたし達はそこで、何が起こったか知っています。
イエス様は死から、3日後に蘇られたのです。

神様の道を進む事は恐ろしい事です。
しかし、神様に信頼し、愛のためにその道を進むなら、わたし達はただ自分自身に死ぬではなく、神様はわたし達に命を与え蘇らせても下さるのです。

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