マタイ9:14-17 『たとえ話1~新しい皮袋』 2010/05/16 松田健太郎牧師

マタイ9:14~17
9:14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

人類最後の男が、絶望に暮れて遺書を書いていました。
すると、後ろのドアを軽くノックする音が聞こえました。
それは何だったのでしょう?
男が恐る恐るドアを開けると、そこにいたのは何と、人類最後の女でした。

「あぁ、これでもうお終いか 」と思っていたら、そこからが始まりだった。
絶望的な、厳しい状況の中ですべてが逆転して、新たなスタートとなることがあります。
福音というのものは、そのような希望を与えてくれるものです。

わたし達は罪びとだ。神の愛も、救いも受ける価値のないような存在だ。
そのような絶望を認識した時、イエス様の十字架という希望の道が開けてくるのです。

実は、前回の祈りのシリーズの次は、何をしようかという事をずいぶん悩みました。
来週はペンテコステですから、使徒の働きをやっていこうかとも思いましたが、何となくまだその時ではないような気がして、それは来年に回すことにしました。

わたし達の教会の今年の目標は、福音中心の教会となることですから、福音に目を向け続ける必要があると思いました。
そこでしばらくの間、イエス様がしたたとえ話を通して、福音の理解を深めていきたいと思います。

① 花婿が来た
ある時、バプテスマのヨハネの弟子たちがイエス様のところに来て言いました。

9:14b「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

当時のユダヤ教では、信仰を持つ人が律法に従って断食をするのは当然の事でした。
断食だけに関わらず、他にもさまざまな戒律があって、それを守ることが信仰を持つものの常識だったわけです。
しかし、イエス様も、弟子たちも、断食をしているようには全く見えません。
それはイエス様たちを敵対視していたパリサイ派のユダヤ人だけでなく、味方であるはずのヨハネの弟子たちをさえ当惑させたのです。
「もっと敬虔なユダヤ人として生きていれば、パリサイ人たちもそれほど敵に回すこともないだろうに、どうして断食をしないのですか。
それではあなた達の信仰を疑われたり、危険な連中だと思われても仕方のないことです。」
そのヨハネの弟子たちも、イエス様達に食ってかかるような言い方をしています。

彼らは、必死になってこの規律を守っていたのです。
自分だって本当は、断食なんてしたくない。
それでも頑張って信仰を持っているのに、何であなたたちはしないのだという批判です。

わたし達も、同じような気持ちを経験したことがあるかもしれません。
一生懸命クリスチャンをやろうとしていると、わたし達はこのような批判的な気持ちが高まって来るものです。
自分は信仰深く、こんな事もあんな事もしているのに、どうしてこの人たちはそうしないのだろう。
そして出来ていないクリスチャンは偽善者のように見えてくる。
これは、自分を基準にして他の人を裁こうとしているのです。
あるいは、自分よりも楽をしている人たちに対するねたみの心が起ってきているのかもしれません。

彼らのそのような思いも理解しつつ、イエス様は答えられました。
「花婿が一緒にいるとき、花婿の友達というものは、感動と感激で喜んでいるのが当たり前だと思いませんか。花婿であるわたしが、取り去られる時が近づいています。その時がきたら、心配しなくてもわたし達の弟子たちも悲しみの中で断食する事でしょう。
でも、今はそうではありません。
今は身を悩ませる、悲しみにくれる形をとる時ではありません。
花婿が共にいるのだから、喜びの時です。賛美の時です。礼拝の時なのです。」

わたし達は、救い主と共にいて喜びの中にある時、喜びを動機として様々な事ができます。
嬉しいから聖書を読み、楽しいから祈り、喜びをもって自らを捧げて奉仕をする。
こうして、喜びや感謝からする事は、他の人が同じようにしないからと言って批判するような事には繋がりません。
今も生きておられるイエス様とともに歩むわたし達は、義務的にあるいは律法的に神様に仕え、奉仕するのではなく、喜びを持ってすべてを捧げることができるのです。

② つぎはぎでなく
イエス様は続いて、このような話をしました。

9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。

服がほころび破れて、表や裏から当て布をしている服を着ている人は、ファッションでもない限りほとんど見ることはありません。
だから、この話がわかりにくい人がほとんどかもしれません。
継ぎ当てをしなければならない程ボロボロになった着物に、新しい布で継ぎ当てをすると、新しい布の部分が縮んで着物はますます破れがひどくなるんです。

旧約聖書の律法の時代には、律法を正確に守り、執り行う事が重要でした。
それは、律法に定められた行いの中に福音が隠されていたからです。
過ぎ越しの祭りを守ってきた人たちは、イエス様の十字架を通して、過ぎ越しの本当の意味を知ることができました。
生贄を捧げてきた人々は、本当に罪を贖う犠牲の小羊とは、イエス様の事であるという事を理解することができました。
しかし、本物であるイエス様が来たいま、律法を守っていく時代は終わったのです。

旧約時代の律法的で宗教的な価値観に、福音という新たな価値観を継ぎ接ぎすることはできません。
それでは、どちらもダメになってしまう。
「古い価値観は、大胆に、思い切って捨ててしまいなさい。 」とイエス様は言うのです。
断食を始め、律法そのものを否定したのではもちろんありません。
しかしそれを、規律として、宗教的に、義務的に行おうとする価値観を捨てなさいと言ったのです。

③ 新しい皮袋に
イエス様は、次にこう言いました。

9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

これも分かりにくいですが、継ぎ当てのたとえと同じ事を意味しています。
新しいぶどう酒は、発酵する時にガスが発生します。
それを古い皮袋に入れると、古い皮は乾燥して硬くなってしまっているので、ガスの膨張に耐えられず破裂してしまいます。
古い皮袋に新しいワインを入れると、全てが台無しになってしまう。
新しい皮には柔軟性があるので、新しいぶどう酒をいれてもガスの膨張と一緒に伸びます。
新しいぶどう酒は必ず新しい皮袋に入れるものなのです。

福音は、新しい布であり、新しいぶどう酒です。
古い着物がどれだけ立派であっても、またどんなにすばらしいぶどう酒が入っていた皮袋であっても、福音を受け止める事はできません。
古いものは捨てて、すべて新しくする必要があるのです。

日本で福音を伝えていると、「日本人には、キリスト教の価値観は受け入れにくい。」という声をよく耳にします。
でも、聖書の価値観、福音の価値観がそのままに受け入れる事が出来る人なんて、実はどの国の人にもいません。
地上のどの文化や価値観も、福音の価値観とはまったく違うものなのです。
だから私たちは、みんな古いものは捨てて、すべてを新しくしなければなりません。

例えば、わたし達がしてしまいがちな失敗のひとつに、教会を会社と同じように運営してしまう事があります。
教会員は義務で縛られ、伝道にはノルマが与えられます。
そうすると教会は、組織としては大きくなるかもしれませんが、福音とはかけ離れたものが中心となってしまいます。

あるいは、キリスト教を宗教のひとつとして取り扱うという失敗もあります。
礼拝は儀式的になり、神様との関係は二の次となり、人々から平安はなくなります。
これらは全て、新しい布で古い着物に継ぎ接ぎをしたり、古い皮袋に新しいワインを入れるのと同じです。
それは福音を台無しにしてしまいます。

新しいワインは、新しい皮袋に入れる必要があります。
わたし達は古い価値観を横に置いて、新しい価値観で全てのものを見る必要があるのです。
わたし達が古い自分に死に、イエス様に与えられた新しい命によってすべてを真っさらにするのでなければ、これはできるようなことではありません。
パウロは手紙の中で書いています。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

花婿が来ました。
福音が、実現したのです。
もはや、断食の時代ではありません。
当て布をする、継ぎ接ぎではなりません。
律法と福音は継ぎ接ぎできないのです。新調が必要です。
福音を、喜びに溢れた、まったく新しい福音的皮袋に入れましょう。

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