マタイ20:1-16 『たとえ話2~1デナリの報酬』 2010/05/23 松田健太郎牧師

マタイ20:1~16
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

神の御子イエス・キリストが地上に来られたのは、何のためだったでしょうか?
それはもちろん、わたし達の罪のために十字架にかかって、赦しと贖いを与えるためです。
しかしイエス様は、キリストとしての人生を歩み始めてから、すぐに十字架にかかったわけではありません。
イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受けてから、十字架にかかるまでにおよそ3年の月日がありました。
その3年は、何のためにあったのでしょうか?

聖書の中でイエス様の言葉を見ていると、まるで口癖のように何度も言っている言葉がある事に気がつくはずです。
それは、“神の国”あるいは“天の御国”という言葉です。
イエス様が宣教を始めて、最初の言葉はこれでした。

マルコ 1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

イエス様が教えを通し、たとえ話を通し、またあらゆる奇跡を通して人々に伝えたかった事、それは“神の国”の福音です。
今日もイエス様のたとえ話を通して、神の国とはいったいどんなものなのかを、一緒に考えていきたいと思います。

① 福音は不公平?
みなさんは、今日の聖書箇所を読んでどのように感じたでしょうか?
聖書を読んでいると、多くの人が今日の御言葉のところで躓きます。
それは、あまりに不公平な話だからです。

日雇いの労働者達が、今日の仕事を求めて広場に集まっていました。
おそらく、朝の6時とか7時ころでしょうか、そこにぶどう園の主人がやってきて、その中から元気のありそうな人たちを選んで声をかけました。
「1日1デナリの仕事だけど、ぶどうの収穫を手伝ってくれないか?」

ぶどうの収穫というのは、大変な重労働の仕事です。
イスラエルでぶどうの収穫は、真夏に行われました。
日本では、ぶどうは棚になるので、日陰にもなり、腰もまっすぐのまま仕事ができますが、イスラエルのぶどうは地面にそのままなります。
夏の暑い盛り、砂漠地帯の大変な日差しの中を、かがみながら収穫するのは、大変な仕事なのです。

仕事の報酬は、1日1デナリ。
日雇いの仕事の相場ですから、1デナリは1万円くらいと考えたらいいでしょうか。
体力に自信のあるものは、家族を養うため、生活のために仕事を引き受けました。

普通は、朝一番に人を雇ったらそれで終わりです。
彼らが一日働いて報酬を得るのです。
ところが、イエス様のたとえ話はここでは終わりません。
ぶどう園の主人はその後9時、12時、3時、5時と何度も広場に訪れて、その度ごとに残っている労働者に声をかけて、ぶどう園に連れて行きました。

朝一番から働いていた人達は、たっぷり10時間、激しいぶどう摘みの重労働をしました。
でも夕方の5時くらいに来た人は、せいぜいみんなの後片付けを手伝ったくらいのものだったでしょう。仕事量は全然違います。
最初から働いていた人たちは、こいつら今頃何しにきたのだろうと思った事でしょう。

やがて主人は、仕事の報酬を渡すために人々を寄せ集めます。
まずは、夕方の5時に来た人たちが呼ばれ、報酬が渡されました。
普通なら、初めから働いている人たちに先に報酬を渡し、すぐに解放してあげたいと思うものだと思いますが、ここではそうではないのです。
しかも、彼らに手渡されたのは、1デナリ。一日分の報酬でした。
それを見ていた他の人たちは、「あれ?」と思いますよね。
そして考えるわけです。
「夕方5時から来た人たちが1デナリももらえるのか? ならば俺たちはもっともらえるだろう。1時間働いた連中が1デナリもらえるなら、10時間働いた俺たちは10デナリ位もらえるんじゃないか。」
ところが、手渡された報酬の額を確かめてみると、それはやはり1デナリなのです。

彼らはもちろん怒り出しますよね。
「後から来て、ちょっと手伝っただけの人と、重労働でたっぷり働いた自分の報酬が同じではあまりにおかしいじゃありませんか。」
すると、ぶどう園の主人はこのように言ったのです。

20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

神の国の福音とは、このようなものです。
何と不公平な世界だろう、と思う方も少なくはないと思います。

② 福音の原理
わたし達の価値観には、たくさん働いた人、いい人間ほど報われるべきだという思いがあると思います。
ビリー・グラハムが天国に行くのはいいんです。
マザー・テレサが天国に行くというのは、納得がいくんです。
でも、あの人が同じクリスチャンとして見られる事は納得がいかない。
あるいは、自分のような人間が救われたとは、とてもではないが信じられない。
そう考えてしまうものなんですね。

イエスを主とする人は誰でも、永遠の命を得て救いを受けるというのが、福音の世界です。
イエス様の福音を伝えて迫害を受けた使徒たちも、イエス様と共に十字架にかけられた盗賊のひとりも、同じように天の御国へと行きました。

何をやったか、どんなにいい人だったかという事を基準として比較するなら、これほど不公平な話はありません。
しかし、どんなに良い事をしても、どんなに素晴らしい人間になったとしても、救いを勝ち取ることはできない。それが、神の国の福音の世界なのです。

このたとえ話の中で、9時や、12時や、3時や、5時に雇われた人たちはどんな人たちだったでしょうか?
雇い主は、労働力のある人、つまり元気で体力のある労働者を雇いたいと思うものです。
そうすると、力のない人、元気のない人ほど仕事にはありつけない事になります。
病気だったり、お年寄りであれば絶望的です。
このような弱い立場の人たちほど、実はお金も必要だったりするのですが、稼ぐ手段も与えられません。

普通に考えれば、朝一番に日雇いの仕事の募集があって、その時仕事にありつく事ができなければ、仕事はなしです。
しかしこのぶどう園の雇い主は、何度も広場に足を運び、その度にそこにいた人をぶどう園へと連れて行きました。
最後の5時まで仕事にありつく事ができず、それでも広場に残り続けていた人たちは、どんな人だったでしょう?
運のない、誰からも声をかけてもらえないような人たち。
神様の愛は、そのような人たちにも等しく注がれて、元気な人たちと同じ報酬、1デナリを受ける事ができる。
こんな事は、現実には絶対にありません。
わたし達は、地上で経験してきたこれまでの価値観によって、神の国の原理を理解する事はできないのです。

若いころから信仰を持ち、たくさんの人たちをイエス様のもとに導き、寝る間も惜しんで奉仕をしてきた人も、死ぬ間際になってようやくクリスチャンになった人も、天国に行って受ける報いは同じです。
マザー・テレサやビリー・グラハムばかりでなく、使徒パウロやペテロと比べても、神様はわたし達を同じように愛し、同じ価値をもって見てくださる。
神様とはそのような方であり、これが福音なのです。

③ 1デナリの重さ
もし皆さんが、報酬を目当てにしてクリスチャンになったのであれば、このように感じるかもしれません。
「何だ、どれだけ働いても報酬が一緒なのか、だったら奉仕なんてしないで、楽をした方がいいじゃないですか?」
また、他の人に比べて、自分がたくさん奉仕をしている事が損だと感じる人もいるかもしれません。
でもわたし達は考える必要があります。
そもそも、神様が与えてくださる1デナリは、一生懸命に働いてきたわたし達には相応しい報酬なのだろうかという事を。

1デナリとは、救いであり、永遠の命であり、罪の赦しです。
これは、わたし達が当然受けるべき報酬ですか?
いいえ。
自己中心的で、愛がなく、けがれた存在であるわたし達には過ぎた報酬です。

ぶどうの収穫であれば、ぶどうを売ることによって収益を得るわけですから、労働が支払うべき賃金に繋がります。
でも、わたし達の働きは、救いや永遠の命を作ることができるでしょうか?
できるはずがありません。
では、それはどこから来たのですか?

達の報酬のために、本当に働いて全ての事をしてくださった方がいるのです。
それが、イエス様ですよね。
イエス様が、自らの命を支払う事によって、わたし達に与える報酬を勝ち取って下さったのです。
本当は、わたし達はみんな、5時から来た労働者なのです。

だからみなさん、大丈夫ですよ。
ムリをして、奉仕をする必要はありません。
そんなに頑張らなくても、1デナリは与えられます。

でも、そんな雇い主だから・・・
わたし達の神様は、そんな愛に満ちたお方だから、わたし達は神様のためにもっと何かをしたいと思いませんか?
そして多くの人を、この雇い主のもとに紹介したいと思いませんか?
約束されている報酬の大きさと、神様の愛の大きさを知った時、使徒たちは自分のいのちを掛けて福音を述べ伝えました。
マザー・テレサは生涯をかけて神の愛を人々に伝えました。
ビリー・グラハムは、人生をかけて人々の魂を主に向かわせました。
その人たちはみんな、この1デナリの重さを知っていた人たちです。

神の国の原理は、恐怖による支配ではありません。
報酬による、労働でもありません。
神の国を動かす動機は、愛です。
その愛が、皆さんの心にも浸み渡っていきますように。

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