マタイ18:23-35 『 たとえ話4~赦しの宝を天に積む 』2010/06/06 松田健太郎牧師

マタイ18:23~35
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

イエス様のたとえ話って、すごくおもしろいんです。
たとえ話の題材となっているのは、その当時のイスラエル人達にはなじみのある話です。
畑が出てきたり、羊飼いの話だったり、水の話をしたり、パンの話をしたり。
聴いていた人たちは、興味をもって耳をすませました。

イエス様が、現代の日本に生きていたとしたら、当時とは違うたとえ話をしたでしょう。
「わたしは生ける、いのちのごはんです。」
聖餐式も、パンを割くのではなく、おにぎりを分けたかもしれません。
それくらい、イエス様の話は身近な話だったのです。

ところが、馴染みのある、身近なその話の中に、突然あり得ない事が出てくるんです。
「イエス様、それは“ナイ”でしょう。」
「イエス様、それはあまりにも話を盛り過ぎです。」
そんな大げさな表現の中で、聴いていた人たちはとっても表現豊かに反応しました。

日常的なたとえ話の中に突然現れる非日常。
実は、そこにこそイエス様の話のポイントがあります。
神様の世界は、天の御国の在り方は、地上に生きるわたし達が思いもよらない、ありえない、比較にならない世界なのだ。
今日のたとえ話も、みんなが「エー!?」とか「ウソでしょー!」とか「ありえないー!」と騒ぎ始めるような話なのです。

① ありえない借金の話し
年度予算の決算があって、借金清算のために、ひとりのしもべが王様の元に連れてこられました。
このしもべは、1万タラントの借金があったのです。
ここでもう、話を聞いていた人たちは騒ぎ出しました。
わたし達は、すぐにはピンときませんね。

皆さん、1万タラントって、どれくらいの額でしょうか?
1タラントは、6000デナリです。
先々週のたとえ話で、デナリという単位が出てきましたね。
1デナリは、労働者の1日の給料の相場。
今の日本でいえば1万円くらいだろうという話をしました。
すると、1タラントは6千万円です。
すると1万タラントは、6千億円です。

6千億円と言えば、国家予算の規模の金額です。
6千億円の借金って、このしもべは一体何をやってそんな借金を作ったんだろう。
そもそも、それだけの借金なんて、貸す方も貸す方だという、ありえないような金額が、ここで述べられているのです。

王様はしもべに、借金を全額返すように命じました。
しかしそんな額、すぐにどうにかなるものではありません。

18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。

そんなもん、返せるわけがないじゃないですか。
たとえ自分自身を身売りしても、さらに家族が奴隷になったとしても、6千億円という金額にはとてもならなかったでしょう。
1日の労働が1デナリであれば、返済するのに16万年働かなければならないような金額です。
彼らは、一生涯奴隷として働いても、その借金を返す事はできない。

主人はどうしたでしょう。
この額なら、有無を言わさずこのしもべを死刑にしたとしても、誰も文句は言わないでしょう。しかし・・・

18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

聴いている人々は、ますます沸き立った事でしょう。
ありえない。
何と寛大な主人なんだろう。
俺も、こんな主人の元に仕えたい。
みんな口々にそんな事を言ったに違いありません。

ところが、この話には続きがあるのです。

18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

6千億円と言う途方もない借金を免除してもらった帰り道、このしもべは100万円を貸している仲間のしもべに会いました。
そして、彼はその人をつかまえ、首を絞め、「借金を返せ」と迫ったのです。

そんなひどい話がありますか?
自分は大変な借金を赦してもらったのに、自分が貸している金に関しては鬼のように返済を迫り、悪魔のような仕打ちをする。
それを見かねた仲間達は主人にこの事を告げ、この男は牢屋に入れられた。
みんな口をそろえて「ざまぁみろ!」という話です。

100万円は確かに惜しい金額です。
普通に考えたら、厳しく返済を迫るのも仕方のない事でしょう。
でも、この人はその直前に、60万倍の借金を免除してもらったところなのです。
「自分も借金を免除してもらったから、お前も返さなくてもいいよ。」と言いたくなるのが普通じゃないですか?
それがまるでなかったかのように、血も涙もない仕打ちを、仲間に対してしたのです。

このしもべは、わかっていないのです。
自分がどんな借金を王様から受けていて、赦しを受けたという事がどれだけ素晴らしい事なのかを、このしもべは理解していないのです。
もし、6千億円のという借金の大きさがわかっていたら・・・。
もし、それが免除されるためにどんな犠牲を王様が払ったかをしもべが理解していたら、こんな事は起るはずがないのです。

② 赦しの宝を天に積む
このたとえ話を聴いていたのは誰でしょうか?
それは、このたとえ話の直前の個所を見てみればわかります。

マタイ 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

「この事から…」と言って今日のたとえ話は始まっています。
弟子たちと共に“赦す“という事に関して話していたところなんですね。
7度を70倍するまで赦すという事は、491回目からは赦さなくてもいいという事でしょうか?
そういう話ではないですね。
ここでイエス様が言いたかったのは、その人が悔い改めるなら、何度同じ罪を犯しても、どれだけでも赦しなさいという事です。
それを聞いた弟子たちは、「そんなことは不可能だ。」と言って困惑しました。
その困惑する弟子たちに向けて話されたのが、このたとえ話なのです。

途中までは、このしもべの非道さに怒り、王様に罰せられた結末を聞いて拍手喝采して喜んでいた弟子たちは、イエス様の最後の言葉でハッとなります。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
これはそのまま、聖書を読んでいるわたし達の心にも突き刺さって来る言葉ではないでしょうか?

わたし達は赦しているだろうか?
いつまでも恨みを心にしばりつけて、憎しみをもって生きてはいないだろうか?
「あの野郎…」とか、「あの時母親が…」とか、「あいつが裏切らなければ…」と人を赦す事をしないなら、天のわたし達の父も、あなたがたにこのようになさるのです。
わたし達の心にも、ピリッと緊張が走りますね。

ここでの会話が、「赦しなさい。」という話だけであれば、この命令はただ重荷として、わたし達の上に圧し掛かって来ます。
でも、それがこのたとえ話のポイントではないんです。
自分が赦すより何より、あなた達自身がどれだけの赦しを受けているのか考えてみなさい、というのがこのたとえ話の一番重要なポイントです。
あなた達がどれだけ赦されているかを理解しているなら、あなた達は兄弟を何度でも赦す事ができるはずだ、とイエス様は言っているのです。

このしもべは、国家予算に等しいような、返済不可能な額の借金を赦されました。
わたし達の神様に対する罪は、これと比較しても足りないくらい大きいものなのです。
わたし達は、赦されている自分の罪の大きさを本当に理解しない限りは、このしもべと同じように、人を赦す事ができません。

神様は、わたし達にとんでもない事を命じます。

ルカ 12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。マタイ 5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

わたし達はこれを聞いても、「冗談じゃない。どうしてそんなことしなければならないんだ。」と思うかもしれません。
でもその時、わたし達は気が付いていないのです。
わたし達は神様に、どれほど大きな赦しを受けたのかという事を。

わたし達は、「自分は赦されて当たり前だ。」と思っていたら、他の人を赦す気になんてなれません。
あるいは、「自分は自分の力である程度返済した。」と思っていれば、相手にもそれと同じ事を求めるでしょう。
また、自分が赦されたという確信が薄ければ、赦そうと思う事もできないのです。

イエス様は、何でも許してドアマットのように踏みつけられなさいと言っているのではないですよ。
何でも相手の望むようにする事が、本当の愛ではないでしょう。
しかしわたし達は、恨みつらみを握りしめるのではなく、その憎しみから手を話して、わたし達の敵を赦し、愛して、憎しみの呪いから解放される事ができます。

そのためには、わたし達がどれだけ多く赦されているのかという事を理解する必要があります。
“赦し“という宝を、天に蓄えるとき、今度はわたし達自身が、“赦す”という行いに転じる事ができるのです。

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