出エジプト19:5-8 『 旧約聖書を読もう 』2010/07/04 松田健太郎牧師

出エジプト19:5~8
19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
19:8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

IIテモテ 3:14~17
3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

皆さん、普段から聖書を開いていますか?
聖書を読むときよく開く所と、滅多に開かないところがあったりしませんか。
あるいは、線がたくさん引いてある所と、新品同然の所があったりはしませんか。
普段、よほどバランスに気をつけながら聖書を読んでいかない限り、よく開く場所と敬遠してしまう箇所に差が出てくるのが実際のところではないでしょうか。

旧約聖書をあまり読まないというクリスチャンは、かなりいるようです。
それは、旧約聖書に描かれている事が残酷だったり、厳しいメッセージだったりするからかもしれません。
ある時代には聖書学者までもが、旧約と新約では違う神が描かれているのではないかと考えたほど、旧約と新約では印象が違ったりします。

今週から、メッセージはまた旧約聖書に入ります。
本当は今日からサムエル記をやろうと思っていたのですが、その前に旧約聖書全体の読み方、考え方についてお話ししておきたいと思い立ちました。

たとえ話のシリーズでは、たとえ話の前後関係をよく読んで意味を理解することと、身近な話の中にある『ありえない』を見つける事がコツだという話をしましたね。
それと同じように、旧約聖書を読むうえでも、抑えなければならないポイントや読み方のコツというものがあるのです。
このポイントがわかって来ると、旧約聖書はたちまち面白いものとなってきます。
この事を事細かに説明していくとまた何回かのシリーズになってしまいますので、今回は一回のメッセージで大枠だけをお話しできればいいと思っています。
これを通して、皆さんが旧約聖書を読むときのヒントとなればいいなと願っています。

① 罪びとの代表、イスラエル
さて、旧約聖書は、イスラエルという国民の歴史が描かれています。
旧約聖書がおもしろくない理由のひとつがこれかもしれません。
「だって、自分には関係ないんだもの・・・。」というわけです。

聖書には、神様が神の祭司としてイスラエルを選んだという記述がありますね。

出エジプト 19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

だからわたし達もそうならなければと思ってしまうのでしょうか、私たちが聖書を読むときにしてしまいがちな間違いのひとつは、わたし達がイスラエルの民のようになろうとしてしまう事です。

でも、旧約聖書を読んでいればわかる事ですが、イスラエルの人たちは何もすぐれていたわけではありませんし、これといって素晴らしい人たちだったわけでもありません。
神様はイスラエルをお手本として選んだのではなく、わたし達の代表としてイスラエルを選んだのです。
何の代表かと言えば、それは罪びとの代表です。

旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史は、そのまま人類の罪と神への反逆の歴史と言い換えても、過言ではありません。
それは、“イスラエル人がいかに罪深いか”という話ではなくて、わたし達人類がいかに罪深いかという事を表しているのです。
神様の前に何度も失敗して、罪を犯すイスラエル人の姿は、まさにわたし達そのものです。
神様に作られたわたし達は完璧に作られていたはずなのに、罪はわたし達を穴だらけで不完全な存在にしてしまいました。

正しさの基準として律法を与えられても、イスラエルは律法を受け取ったその日の内からそれに背き、神様を怒らせました。
神様から離れてしまったわたし達は、何が正しいかという事をわきまえず、わたし達は何が正しいかという事を知っていても、決して正しい行いをする事はできないのです。

旧約聖書2000年は、人の堕落、不完全さ、無能力さ、可能性のなさの歴史なのです。
どうしてこんな絶望的な事を、ここまでしつこく描かれなければならなかったのでしょう。
それは、人には神様の助けが必要なんだという事を知るためです。
どれだけ指導され、どれだけチャンスを与えられても、人は決して神様の御心に適った善を行う事ができない。
だからわたし達には、神様の側から差し伸べられる救いが必要なのです。

神様の側から差し伸べられた救い、それこそイエス・キリストの十字架と復活です。
旧約聖書の大きな役割は、わたし達には十字架と復活による、罪の赦しと贖いが必要だという事を証明する事なのです。

ですから、旧約聖書を読むときの第一のコツは、わたし達はただイスラエルの歴史という他人ごとして読むのではなく、自分自身に似たところを探しながら読むという事です。
登場人物のどのような罪が自分に似ているかを知り、自覚し、まずその罪を悔い改めます。
そして何より、だから自分にもイエス様の十字架が必要なのだという事を理解する事が大切なのです。

② 神の義(神様の厳しさ)
旧約聖書に描かれている神様の厳しさもまた、わたし達に読む事を躊躇させる原因です。
神様は愛であり、わたし達の罪を赦して下さる方であるはずなのに、旧約聖書を読んでいると、とてもそうは思えない。
イスラエルが罪を犯したとき、彼らはその度ごとに厳しく罰せられているのですから。
新約聖書で神様は愛と赦しに満ちているのに、旧約聖書の神様はどうしてこんなに厳しいのでしょう。
その理由のひとつは、神様とイスラエルとの関係にあります。

先ほども言ったように、イスラエルは真の神様に仕える司祭として選ばれた民でした。
それはイスラエルの民だけが選ばれて救われたという事ではなく、イスラエルの民を通して、全世界の人々が救われるためです。
わたし達異邦人もまた、イスラエルと神様との関係を知る事によって、神様を知ることができるのです。

さて、旧約聖書の中で全面的に表現されている神様の厳しさ、それは“神様の義”というものを表しています。
もう少し簡単な言葉を使えば、“神様は正しい方なので、罪や悪を見逃すことができない。”という事です。

わたし達は時として、この神様の正しさと厳しさの部分を通り越して愛と赦しだけを見ようとしてしまいます。
ところがそうすると、神様の赦しや祝福は当たり前の事になってしまうのです。
更に言えば、神様の事をなめるようになって来るのです。

そういう方達は、何か辛いことや苦しい事が起った時、「どうしてこんな目に遭わせるのですか!?」といって神様に対して怒ります。
そしてその人たちは、神様の愛を感じる事ができないと口をそろえて言うのです。

なぜ、愛が感じられないのでしょうか?
それは、すでに注がれている愛が当たり前のものになってしまっているからです。
神様がもし、わたし達の罪の大きさに従って罰を与えたとしたら、わたし達は今こうして生きている事もままならないのが実際のところなのですが・・・。

先日、22回の転職を繰り返し、3回の自殺未遂をしたビジネスマンの方のお話を聞く機会がありました。
その方は一時、自分が立ちあげたビジネスで大きな成功をしました。
しかしバブルがはじけて会社は倒産し、一瞬の内に何千万円という借金を抱える事になりました。
お金を少しでも返さなければならないのに、自分を雇ってくれる人がどこにもいない。
妻は家で生まれて間もない子供を育てている。
自分はすぐにでも仕事をしなければならないのに、なす術もない。
そうして苦しんでいた時、彼に仕事を紹介してくれたのはホームレスのおじさんでした。
そこで彼は、一日8000円で草刈りの仕事にありつけました。
その時、彼は仕事ができる事の嬉しさで泣きながら仕事をしたそうです。
その帰り道、おごってもらったアイスクリームのおいしさに、また涙があふれてきたそうです。
成功している時にはわからなかった、生きているという事の素晴らしさと喜びを、彼は絶望の時に知ることができたのです。

僕の友人がその方と同じ教会に行っているのですが、その方の奥さんは、教会でトイレ掃除をしながら「神様、トイレ掃除をさせていただける事に感謝します。」と言って泣いていたそうです。
それだけ目撃してしまったら、「なんだこの狂信的な人は。」って思うじゃないですか。
でも、彼らはトイレ掃除ができるという今の状況がある事が、どれだけ奇跡であり、神様にどれほど大きな祝福を与えられたかを知っているのです。

わたし達にも同じ事が言えます。
祝福や、神様の優しさが当たり前の事ではない事を本当に理解した時に、自分がどれほど多くのものをすでに与えられ、どれほど大きな愛を注がれているのか、理解することができるのです。

箴言 1:7 主を恐れることは知識の初めである。

と、聖書にはあります。
どうか神様を甘く見るのではなく、本来はどうなのかを理解するために、旧約聖書にたくさん触れて下さい。
そうでなければ、わたし達は福音の素晴らしさを本当に理解する事ができません。
しかし福音の素晴らしさを心から理解する時、わたし達の宝は天に積まれてゆき、その豊かさによってわたし達は変えられてゆくのです。

③ 結論:福音の宝探し
何度か話した事があるかもしれませんが、実を言うと僕は旧約聖書が大好きなんです。
新約聖書は、確かに読んでそのまま祝福があります。
でも、旧約聖書はなかなか喜びをもって読んでいくことができなかったりします。
儀式とか道具の大きさだとかつまらない事ばかり話していたり、先ほどの話のように厳しくて耳の痛い話ばかりだったり。

でも、旧約聖書はそれだけのものではありません。
イエス様が話した事のほとんどは、すでに旧約聖書の中に書かれていた事でした。
イエス様は、新しい話をしたのではなく、旧約聖書を読み解いていただけなのです。

わたし達もイエス様と同じ読み方をした時、旧約聖書は実は神様の愛と福音にあふれた本だという事がわかってくるのです。
普段、その喜びの部分は隠されています。
でも、何度も読んでいる中で突然、福音の言葉が旧約聖書の中から飛び出てくるのです。
旧約聖書の楽しさは、宝探しの楽しさです。

慣れるまではなかなか難しいですが、コツがつかめてくるとだんだんその楽しさが理解できてくるはずです。
皆さんも、福音の宝探しをしてみませんか?

今日は、旧約聖書についての問う区別講義みたいなお話でしたが、来週からいよいよ実際に旧約聖書を読みながら、この宝探しを一緒にしていきたいと思います。
メッセージの中で、この楽しさが少しでも皆さんに伝わって、皆さんも旧約聖書が好きになってくれるといいなぁと思います。

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