Iサムエル記14:1-15 『 サムエル⑥~信仰は患難をのりこえる 』 2010/08/22 松田健太郎牧師

Iサムエル記 14:1~15
14:1 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。
14:2 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。
14:3 シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。
14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。
14:5 片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
14:6 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」
14:7 すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」
14:8 ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。
14:9 もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。
14:10 もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」
14:11 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」
14:13 ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。
14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。
14:15 こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

サムエル記から、6回目のメッセージになりました。
話がずっと続いていますから、今日も前回までの復習から入っていきましょう。

イスラエルの初めての王として選ばれたのは、サウルという人物でした。
サウルはイケメンで、背も高く、謙遜な心の持ち主で、神様からの特別な力も与えられ、神様は王として最高の人物を選びました。
しかしサウルには、神様への信仰という決定的なものに欠けていたのです。

サウルは長年の敵だったペリシテ人に戦いを挑みましたが、それは信仰によるのではなく、自分の思い付きで行った戦いでした。
鉄の武器を操り、自分達の何十倍もの数がいるペリシテ人に対して、サウルの兵は青銅の農具を持った3000人の素人集団。
しかも預言者サムエルとの約束を待ち切れず、自分でいけにえを捧げてしまったサウルは、神様からの怒りまで買ってしまいました。
何万人ものペリシテ人を前にして、神様からの祝福も失い、サウル達は絶体絶命の状態です。

イスラエルは、そのピンチを一体どのようにして切り抜けたのでしょうか?
サウルには、この状況を打開するための信仰がありません。
しかし、サウルの息子ヨナタンには、サウルに欠けていた信仰がありました。
今日はこのヨナタンとサウルの二人を比較しながら、信仰というものの大切さを改めて見直していきたいと思います。

① ヨナタン~信仰は患難を乗り越える
さて、先週の話ではサウルの兵士は3000人いました。
しかし、ペリシテ人のあまりの多さに恐れをなしたイスラエル人は、そのほとんどが逃げ出してしまったのです。
今、戦うために残ったサウルの兵士たちは、何人くらい残っていたでしょう。

14:2 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。

3000人いたって到底かなわない状態だったのに、今やわずか600人です。
そしてこんな大変な時、王であるサウルはと言えば、サムエルに叱られて落ち込んでいました。
まぁ、落ち込む気持ちはわかるんです。
約束の時になっても預言者サムエルが来ないので、良かれと思って自分でいけにえを捧げたのに、神様は他の人を王に任命すると言われたのですから。
でも、今は落ち込んでいる場合ではないですよね。
そしてサウルは、落ち込みはしても悔い改めて神様に立ち返るという事は全くなかったのです。

国のリーダーである王様がこのような状態。
もうイスラエルは絶体絶命です。
しかしそんな時、神様の導きに従って密かに行動をしていたのが、息子のヨナタンでした。

14:6 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

父親のサウルは信仰がありませんでしたが、ヨナタンには驚くほどの信仰がありました。
ヨナタンの信仰は、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」という言葉の中に集約されています。

わたし達も、ヨナタンのこの信仰に習いたいのです。
みなさん、わたし達の状況がどんなに絶望的に見えたとしても、神様がお救いになろうとしているのなら、状況なんて関係がありません。

どれだけ多額のお金が必要であろうと、どれだけ人間関係がこじれてしまっていようと、どれだけ人間的な助けを得る事ができず、解決の道を見出すことが困難な状態であろうと、神様がお救いになろうとしているのなら、それはどうあっても必ず実現するのです。
わたし達が戦おうとしているこの世の力がどれだけ強く大きいものだったとしても、わたし達を落胆させる働きがどれほど大きなものだったとしても、神様がお救いになろうしているなら、その妨げになるものは何もないのです。
皆さんはその事を信じますか?

ヨナタンは、この信仰によってペリシテ人と戦い、二人で20人ものペリシテ人を倒しました。
これは、まさに主の戦いでした。
人並ならぬ力を見たペリシテ人達は、イスラエルに対する恐怖でパニックになったのです。

Iサムエル 14:19 サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。
14:20 サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。

無謀とも思えるヨナタンの行動は、危機的状況からイスラエルを救ったのです。
それはヨナタンの力ではなく、従順なヨナタンを通して働いた神様の力でした。
信仰による戦いとはこういうものです。
信仰の戦いでは神様が戦って下さいます。
わたし達ではなく主が戦う時、絶望的な状況の中でもわたし達は必ず勝利を収める事ができるのです。

② サウル~肉的な熱心は身を滅ぼす
さて、ヨナタンの活躍によって、いや神様の大活躍によって、イスラエルは危機的状況を乗り越える事ができました。
敵は今や大混乱を起こし、形勢は大逆転。
後は攻め込んでとどめを刺すだけという状況になったはずのイスラエルでしたが、サウルはここで奇妙な命令をイスラエルの兵たちに言い渡します。

Iサムエル 14:24 その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。

「食べている暇があったら戦え!」という根性論。
あるいは、「断食をもってこの戦いのために祈れ!」という宗教的な熱心。
どのような思いだったのかはわかりませんが、これはサウルの熱心さから来た言葉だっただろうと思います。
しかし、やはりこれは神様からの言葉ではないのです。

奇妙に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、わたし達は宗教的に熱心であっても、信仰を持っていないという事がありえます。
違う言い方をすれば、わたし達は神様を無視して、宗教的に熱心である事ができるのです。
しかし、それは決して正しい結果を生みださず、神様を喜ばせることもありません。
それどころか、肉的な熱心や宗教的な熱心は、むしろ自分や周りの人を苦しめるのです。

14:27 ヨナタンは、父が民に誓わせていることを聞いていなかった。それで手にあった杖の先を伸ばして、それを蜜蜂の巣に浸し、それを手につけて口に入れた。すると彼の目が輝いた。
14:28 そのとき、民のひとりが告げて言った。「あなたの父上は、民に堅く誓わせて、きょう、食物を食べる者はのろわれる、とおっしゃいました 。それで民は疲れているのです。」

サウルが良かれと思ってした決断は、息子ヨナタンを罰して殺さなければならないという、最悪の結末を生みだしてしまいました。
神様の御心から離れた情熱の生みだすものは、時としてこの様なものなのではないでしょうか。

この先もそうなのですが、サウル王のする事はやることなす事全て神様の祝福を台無しにして、どんどん悪い方向に進んでしまいます。
あんまりにも酷いので、サウル王がかわいそうになって来るくらいなのですが、旧約聖書ではこんなサウルの人生を通して、明らかにされなければならない目的がありました。
それは、信仰のない、肉的なリーダーシップは悲劇を生みだすという事をわたし達に教えるという目的です。

わたし達も、このような間違いをして、状況を悪くしてしまう可能性があります。
自分は別に、社会的にリーダシップを取る立場にいないからと言って安心してはなりません。
わたし達はみんな、家族に対して、あるいは周りの人々に対して必ず何らかの影響を与えるリーダーシップをもっているからです。
そしてわたし達が、神様の御心に離れた間違ったリーダーシップを発揮してしまうなら、間違った影響を子供や周りの人々に与えてしまうのです。

熱心である事は、もちろん悪い事ではありません。
しかし、その熱心さは神様への信仰に根付いたものでしょうか?
わたし達は神様の御心を第一としているでしょうか?
また、自己中心的な肉的熱心を振りかざしてはいないでしょうか?
神様の御心から離れたリーダーシップは、必ず悲劇を生みだしてしまう事を、どうか忘れないで頂きたいのです。

③ 事の顛末
さて、この話の結末を話しておかなければなりません。
ヨナタンは、どうなったと思いますか?
サウルの約束通り殺されることになったのでしょうか?
それとも、サウルに逆らって逃げ出したでしょうか?
皆さんはどう思いますか?
聖書にはこのように書かれているのです。

Iサムエル 14:43 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に告げなさい。」そこでヨナタンは彼に告げて言った。「私は手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を、確かに味見しましたが。ああ、私は死ななければなりません。」
14:44 サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」

ヨナタンは、父親に対して逆らうことなく、言いわけもせず、死を覚悟しました。
「死ななければならないというなら、わたしはここで死にます。」
主にゆだねる信仰を、ヨナタンは確かにもっていました。
主にゆだねる事を知っている人は、死を恐れないのです。

サウル王の口からは、ヨナタンに不当な裁きが下されました。
「ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」
またも絶体絶命の時。
しかしその時、サウル王を恐れて黙っていた民が口を開き、サウルに申し立てをしたのです。

14:45 すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。

イスラエルの人々が一斉に動いた事によって、ヨナタンは命を救われました。
神様がこの民の心を動かしたのです。
ヨナタンの人生には、神様が計画していた使命がまだありました。
無二の親友ダビデと出会い、彼を助けるという使命です。
だから神様はヨナタンを護り、サウルの失敗によって生じた患難を乗り越えさせてくれました。

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」
問題がどれほど大きくても、小さくても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何ありません。

自分が信じた道を歩むサウルと、神様の導きに従う道を歩むヨナタン。
みなさんはどちらの道を歩みますか?

皆さんが、いつでも信仰をもって、主の道を歩まれますように。

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