Iサムエル記24:1-7 『 サムエル⑩~主に信頼して待ち続ける信仰 』 2010/09/26 松田健太郎牧師

Iサムエル記 24:1~7
24:1 サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。
24:2 そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。
24:3 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。
24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。
24:5 こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。
24:6 彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」
24:7 ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。

皆さんは、これが御心だと思って行動に移し、また祈り続けているのに、なかなか実現しないという経験をした事があるでしょうか?
神様が進むように示し、それに向かって歩み始めた時、道が開かれて全てが順調に進むのならわかりやすいしいいのですが、実際にはそうではありません。
神様の導きに従って進み始めたはずなのに、今度はその道が急に閉ざされたように感じられたり、状況がどんどん悪化していくように感じる事も少なくはありません。

いやむしろ、わたし達が神様を信じて信仰生活を送るなら、これは必ず経験する事なのです。
もしそのような経験はないという方がいらっしゃるなら、それはまだクリスチャンになって間もない方か、待ち続ける前にあきらめてしまっているかどちらかでしょう。
それくらい、神様はわたし達に“待つ”という事を経験させます。

ダビデは王になるという油注ぎを受けてから、実際に王になるまでに何十年という月日を待ちました。
サウル王から嫉妬されるようになったダビデは、槍を投げつけられ、命を狙われ、ヨナタン王子の手を借りて、何とかイスラエルから逃げ出すものの、ガテの王アキシュの所ではまたも身の危険を感じ、ダビデは気が狂ったふりをしてその場を切り抜けました。
王になるという約束がされたはずなのに、ダビデは出世していくどころか、次から次へと苦難が襲いかかり、王への道はどんどん遠のいて行くようにしか見えないのです。

期待して待ち続けるという事は、とても苦しい経験です。
わたし達は多くの場合、これがあまりに苦しいので、「神様の御心だと思ったのは間違いだった。」と決めつけてしまったり、あきらめて途中で手放してしまいます。
神様の導きは、本当はどこにあって、わたし達はどうしてこのような苦しい経験をしなければならないのでしょうか?

① 待つ事が生みだす希望
息子の叙那は2歳になりましたが、待つという事ができません。
「アップルジュースが欲しい」と言ったら、今すぐ飲みたいんです。
「今忙しいから待っててね。」と言っても、アップルジュースを持ってくるまで泣きながら「アップルジュース」と言い続けます。

6歳になった娘の奈緒美は、叙那よりは少し我慢ができます。
でも、朝お友達の所に遊びに行きたいと思うと、保育園に行かないで遊びに行きたい。
ダメと言うと保育園が終わってから遊びに行きたい。
遅くなるからダメと言うと、じゃあ明日保育園に行かないで遊びに行く。
と、少しでも早くという気持ちでいっぱいです。
幸いなのは、ふたりとも忘れるのも早いという事で、少し気がそれると自分がジュースを飲みたかった事も、遊びに行こうと思っていた事も忘れてしまうので助かっています。

わたし達は、精神的な成熟と、待つ事には大きな関係があります。
人間的に大人になるという事は、より多く待つ事ができると言う事でもあるんです。
でも、待つ事は簡単な事ではありません。
だから、ストレスなどで余裕がなくなってくると、わたし達は制御を失って、衝動買いをしてしまったりするんですね。
待つ事ができるためには、訓練が必要です。
“待つ”という事は覚えなければなりません。
実は教育というものが、大きな力を発揮する部分なのです。

例えば、子供たちがうるさいからと言って欲しいものをすぐに与えていると、「欲しい」と言えばもらえるという事が当たり前になってきてしまいます。
そして、ジュースがもらえた事が嬉しいとか、感謝するという事がなくなっていきます。
さらに、ジュースがなくなってしまったりして与えられなくなると、「欲しい」と言ってもくれないお父さんが悪いという事になってくるのです。

わたし達がいかに待てないのかという事は、神様との関係の中に大きく表れます。
わたし達は、何とすぐに感謝の気持ちを失い、欲しいものが与えられないと言って神様に文句ばかりを言う事でしょう。
こんなわたし達を成長させ、自分の願いがかなえられる事に慣れて当たり前になってしまわないように、神様はわたし達に待たせるのです。

神様から与えられた将来のための素晴らしいビジョンは、簡単には実現しないかもしれません。
わたし達が祈り続けている家族や友人達は、すぐにはクリスチャンにならないかもしれません。
しかしわたし達は、決してあきらめることなく待ち続け、祈り続けるべきです。
神様は待つ事を通して、わたし達を成長させて下さろうとしているのですから。

② 神様に信頼して待つ
さて、待つという事に関して気をつけなければならない事がふたつあります。
ひとつには、待つという事と、何もしないという事は同じ事ではないという事です。

王になるまでの期間、ダビデはサウル王からただ逃げ回っていたわけではありません。
ダビデは、サウル王に追いつめられて、アドラムの洞窟という所で過ごすことになります。
その間にも、彼の周りにはたくさんの人達が集まっていました。

Iサムエル 22:2 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。

その後もダビデは、サウル王に追われてきた人を助けたり、ケイラの人々を救うために、ペリシテ人たちと戦ったりしました。
ダビデはただ口をあけて待っていたのではなく、神様に従ってなすべき事をしていたのです。

神様の約束が成就するまでの期間、わたし達は、たくさんの試練や患難を経験する事になります。
しかしそれは、意味もなくわたし達に与えられた苦痛ではありません。
神様は、そのような試練や患難を通して、わたし達に教えようとしている事があるのです。
よく引用する個所ですが、パウロはこのように言っていますね。

ローマ 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
そうしてわたし達の忍耐力が増していった時、わたし達は人間的にも、霊的にも成熟した者として成長していく事ができるのです。

気をつけなければならないもうひとつの事は、わたし達はただ時間の経過を待つのではなく、信仰を持って待たなければならないという事です。
同じ時間を待つにしても、いろんな待ち方があるでしょう。
ある人は、思い通りにいかない事を神様に訴え、抗議し、駄々をこねながらその時間を過ごすかもしれません。
あるいは、全てをあきらめてしまったり、その約束を忘れた状態で時間の経過を待つかもしれません。
しかしそれでは、どれだけ時間を経過しても、あまり意味がありません。
本当の意味で待つという事にはなっていないのです。

必要なのは、絶望的に見える状況の中で、それでも神様を信じて待ち続ける信仰です。
信仰こそがわたし達に命を与え、絶望をぬぐい去り、わたし達をキリストに近づけるものだからです。
先が見えない状況で、神様に信頼して、期待して待ち続ける事は苦しい事です。
しかしそれは、決して苦しいだけの体験ではなく、わたし達に新たな力を与えてくれるのです。
預言者イザヤが言っています。

イザヤ 40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

神様は、待つ事を通して、この新しい力をわたし達に与えようとしているのです。

③ 復讐は主のもの
さて、もうひとつの事を皆さんと分かち合いたいと思います。
神様の御心というものを考えた時、僕には以前からずっと疑問に思っていた事がありました。
それは、今日の聖書箇所の部分に描かれている事です。

追いつめられたダビデが洞窟に隠れていた時、そこにサウル王が入ってきました。
しかしサウル王はダビデに気が付いておらず、なんとそこで用を足し始めたのです。
自分の命を狙っている恐るべきサウル王は、すぐ届くような場所に、無防備な状態でいます。
臭かっただろうとかそういう話ではなく、ダビデにとっては危機を取り除く絶好のチャンスだったと思うのです。
この後、26章でも彼は同じような場面に遭遇していますが、やはりサウルを見逃しています。

僕がダビデの立場なら、自分の身が守られ、危機が取り除かれるようにと祈ってきたはずです。
皆さんも、そうではないでしょうか? それは、ダビデだって、同じはずです。
そんな時、自分の命を狙っているサウルが目の前に無防備な状態で現れたら、これはもう、神様が祈りに応えて下さったに違いないと思うのではないでしょうか?
サウルの息の根を止めて、危機の源を取り除くための道が開かれたと、僕なら思ったでしょう。
しかし、ダビデは自ら手を下す事はしなかったのです。
皆さん、開かれた道が全て神様の御心とは限らないんですねぇ。

ダビデは、サウル王に自ら手を下してはならないと、強く感じていました。
26章にその思いが描かれています。

Iサムエル26:9 しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」

第一に、それはサウル王が神様によって選ばれ、油注ぎを受けた人だったからです。
聖書にはこの様に書かれています。

ローマ 13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

何でも権力者の言いなりになりなさい、という事ではありません。
事実、ダビデもサウル王のするままに殺されたりはしませんでした。
しかし、神様が王として選び、油を注がれたサウルを自分が手にかけるという事は、絶対にしてはならない事だとダビデは感じていたのです。

さらに、ダビデはこの様に続けています。

Iサムエル 26:10 ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。

ダビデは、神様がサウルをこのまま放っては置かないという事を知っていました。
神様に逆らったサウル王は、やがて主によって滅ぼされる時が来るだろう。
しかし、今サウル王が生きているのは、まだその時ではないからです。
ダビデは、詩編でこのような詩を残しています。

詩編 37:1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
37:3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
37:4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

ダビデが予告していたように、サウルは後の戦いの中で死にました。

皆さんの人生には、「あの野郎!」とか、「あいつさえいなければ。」と思うような人がいるかもしれません。
わたし達を迫害し、危害を与えようとする人がいるかもしれません。
わたし達がまじめにやっている時、ずるい事をしたり、割り込んできたり、この世に悪をもたらす人もいるかもしれません。

でもダビデの生涯を通して、神様はわたし達に教えています。
自分の手で裁きを下してはならない。
正義は神様と共にあり、裁きは主のものなのです。

どんな時にでも、主に信頼して待つときがわたし達には与えられます。
そして、神様の時を待つなら、わたし達には必ず祝福が待っているのです。
皆さんは、神様を信じていますか?
神様が大好きですか?
神様を信頼していますか?
そうえあれば、待つ事ができるはずです。
わたし達の信仰がさらに成熟し、キリストに似た者により近づく事ができますように。

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