Iサムエル記25:1-13 『 サムエル⑪~ナバルの愚かさ、アビガイルの聡明さ 』 2010/10/03 松田健太郎牧師

Iサムエル記 25:1~13
25:1 サムエルが死んだとき、イスラエル人はみな集まって、彼のためにいたみ悲しみ、ラマにある彼の屋敷に葬った。ダビデはそこを立ってパランの荒野に下って行った。
25:2 マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。
25:3 この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。
25:4 ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。
25:5 それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、
25:6 こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。
25:7 私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。
25:8 あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」
25:9 ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。
25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。
25:11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」
25:12 それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。
25:13 ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ。」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

サムエルという預言者は、あまり目立った活躍はしませんでしたが、イスラエルの歴史の中で大きな節目に立つ存在でした。
彼は母ハンナの深い祈りの中で生まれ、育てられ、イスラエルの最後の士師として生きました。
しかし、人々は他の国々と同じように王が与えられる事を切に求めました。
サムエルは士師の座を退き、その後は祭司として、また預言者としてサウル王を導こうとしました。
サウル王が神様との関係の大切さを理解せず、神様から離れた後も、次の王となるダビデに油を注ぎ、大きな助けとなったのでした。
サムエルは自分を引き立てる事をせずに裏方に回り、この大切な時代を支えた、偉大な預言者だったのです。

そのサムエルが、この世での役目を終えて神様の元へと旅立って行きました。
イスラエルは集まって、サムエルの死を悲しんだと聖書には書かれています。
わたし達は誰かを失った時、その存在の大きさに初めて気がついたりするものです。

ダビデにとっても、サムエルは大切な存在でした。

Iサムエル 19:18 ダビデは逃げ、のがれて、ラマのサムエルのところに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そしてサムエルと、ナヨテに行って住んだ。

サウル王の手から逃れて、ダビデが身を隠したのは預言者サムエルの所だったのです。
サムエルはダビデをかくまい、彼の話に耳を傾け、慰めと励ましを与えました。

大きな心の支えだったサムエルを失った事は、ダビデにとって大きな悲しみだったのです。
しかし、わたし達は何か大きな悲しみの中に会っても、心が動揺しているような時にも、さらに重荷をかぶせるようにして問題に直面する事があります。
そのような時には、わたし達は心も動揺していて、普段ならしないような失敗をする事もあります。
そのような、不安定な状態の中で、この25章は始まっているのです。

① ダビデの失敗
マオンという地に、ナバルと呼ばれる裕福な農場主がいました。

25:3 この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

さて、このマオンという地の近くを、ダビデ達の集団が通りかかりました。
その時ダビデは、このナバルのうわさを耳にしたのです。
ダビデは、以前この地域がペリシテ人の襲撃を受けた時、ナバル達の農場を守った事がありました。
今や、600人以上の人達が彼の元に集まっていましたから、ダビデはたくさんの資金を必要としています。
そこでダビデは、縁のあるこのナバルの所に人を送って、それとなく援助を申し入れようとしました。

しかし、ダビデの部下たちがナバルの元に訪れた時、彼らを待ち受けていたのはにべもない拒絶と、ダビデに対する口汚い罵りの言葉だったのです。
その報告を聞いた時、ダビデの心にはワッと怒りの炎が燃え上がりました。
そして、その場で彼は、ナバルとその持ち物の全てを滅ぼす事を誓ったのです。

皆さん、ここで先週の話を思い出していただきたいのです。
ダビデは、これまで命を狙われてきたサウルに、手を下すチャンスが与えられました。
しかしダビデは、自らサウルの命を断とうとは、決してしなかったのです。
神様から離れてしまったサウルは、必ず自ら滅びる事になる、ダビデは確信し、自ら手を下すのは正しい事ではないと考えたからです。
しかし、今回はそれとはまったく矛盾していいます。
サウル王の時と、ナバルの時とで何が違うというのでしょうか。

サウル王は油注ぎを受けていた大物だけど、ナバルは小者だからとか、別にそういう事ではありません。
ダビデのこの時の行動は、彼の冷静な判断からきたものではなく、一時の感情の高まりから生まれたものです。
サムエルという心の支えをなくして余裕がなくなっていたダビデは、思わずカッとなってしまったのです。
わたし達は、心の支えを失った時、試練の中にあって心の余裕をなくしている時には、よほど気をつけなければなりません。
そのような時には、忍耐力が減り、いつもの判断力を失っているからです。

怒りに任せて、ナバルという小悪党を懲らしめ、滅ぼしてしまう事はダビデには簡単な事です。
しかし、ダビデがこんな愚か者に本気で相手をして倒したからと言って、誰がダビデを称えるでしょうか。
それではイスラエルの王様どころか、援助を拒む者を滅ぼす強盗団だと評価されても、文句は言えなかったでしょう。
聖書はこの様に教えています。

箴言 29:11 愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。
わたし達は神様に従うものとして、怒りに任せず、冷静に判断して行動する力を求められているのです。

② ナバルの愚かさ
名は体を表すと言いますが、聖書に登場する人物の多くは、その名前がその人物の性質をあらわしている場合が多くあります。
このナバルについても同じ事が言えるでしょう。
ナバルというのは、“愚か者”という意味の名前です。
では、彼の何がそんなに愚かだったのでしょうか?

ダビデの家来たちの申し出を聞いた時、ナバルはこんな風に答えました。

25:10 ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。
25:11 私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」

評判通り頑迷で、粗暴な言いぶりです。
何の得にもならないような奴に、自分が稼いだものを分けてやるのが惜しいという強欲な根性もこの言葉の中にはあります。
しかし、それは愚かさとは違うものです。

ナバルがイスラエルの現王であるサウルの側に立つものであったと考えれば、彼のダビデに対する評価はむしろ当然のものと言えるでしょう。
サウル王の側からしてみれば、ダビデは主人から逃げ出して人を集める反逆者なのですから。
そんな輩を援助するなんて、とんでもない。
少なくとも、今権力を持っているのはサウル王なのですから、どちらに味方するべきかという答えは明確だと言えるかもしれません。
600人しか味方のいないダビデのために力を貸すことこそ、愚かと言えば愚かな選択だったでしょう。

ナバルの愚かさとは、知能面での愚かさとは全く違うものでした。
ナバルの愚かさとは、ダビデを表面的な部分でしか見る事の出来なかった、霊的盲目の中に現れているのです。
ナバルにとって、ダビデは今の権力者であるサウル王に反抗する小勢力でしかありません。
だから、ナバルがダビデを甘く見ていたのです。

このダビデが、神様に選ばれた特別な器であり、これからイスラエル最大の王となっていくのだという事など、ナバルには及びもつきませんでした。
だから、かつて助けてもらった恩を軽く考え、どうせ大したことはできないだろうと高を括っていたのです。

知能指数をIQ(Intelligence quotient)と言いますが、ナバルの愚かさは、IQの低さではなく、霊的知能指数SQ?(Spiritual intelligence Quotient)が低いという事だと言えるかもしれません。
このような愚かさをわたし達が持つ時(つまりわたし達のSQが低いと)、わたし達は神様に対しても、ナバルがダビデに下したのと同じ判断をしてしまうのです。

霊的な愚かさは、イエス様の十字架を理解しません。
だから、イエス様がわたし達のために十字架にかかって下さったという事を軽く見、神様はわたし達をいつでも滅ぼす力を持っているという事を考えようともせず、甘く見てしまいます。
そんなおとぎ話よりも、今目の前に見えている事の方が深刻で、現実的な問題だと判断してしまうのです。
皆さんのSQはどうでしょうか?
IQテストのように、簡単なテストがあるといいかもしれませんね・・・。

③ アビガイルの聡明さ
そのようなナバルの愚かさと対比して、妻アビガイルの聡明さがこの個所には描かれています。
ダビデの部下たちを悪しざまに追い返してしまったナバルに代わって、アビガイルは機転を利かせ、たくさんの贈り物を用意してダビデの元に行きました。
そして、ダビデに赦しを乞い、夫の愚かさを補ったのです。
確かに、それも聡明さのひとつではあるでしょう。

また、このようなアビガイルの機転は、ダビデが怒りに任せてナバルを殺すという罪を回避させました。
それもまた、アビガイルの賢さを証明するものです。
しかし、ここで描こうとされているアビガイルの聡明さとは、それだけの事でありません。
ナバルの愚かさが、霊的盲目から来る霊的な愚かさであるのと同じように、アビガイルの賢さとは、預言者のような霊的理解から来る聡明さなのです。

アビガイルのSQの高さは、この言葉の中に現れています。

Iサムエル 25:28 どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。
25:29 たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。
25:30 主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、
25:31 むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」

アビガイルにとってダビデは、現在見えている盗賊の頭みたいな人物ではなく、イスラエルの王となる未来の主人でした。
アビガイルは、そんな未来のダビデを見定めながら、それを台無しにするような事をしてはいけないと申し立てたのです。
夫や自分たちの命を救っただけでなく、アビガイルのこの言葉は、試練の中で冷静さを失いかけていたダビデの目を覚まさせ、本来の目的を思い出させました。
SQが高い人は、神様が見る視点で見ようとしますから、その言葉は知恵に富んでいて、わたし達を神様の道へと進ませます。
人間的な知恵は、わたし達を高ぶらせ、傲慢にさせますが、神様から得た霊的な知恵は、それを聞く人々に徳を与えるものなのです。

どうしたら、そのような霊的聡明さを得る事ができるのでしょうか?
聖書の中には、そのためのヒントが書かれています。

箴言 9:10 主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

霊的な知恵は、神様から来るのですから、わたし達は何よりも神様を知り、神様からたくさんの事を得る必要があります
わたし達の神様との関係が深まれば深まるほど、わたし達のSQも上がっていきます。
そのためには、わたし達が日々の生活の中で主の声に耳を傾け、そのひとつひとつに従っていく必要があるのです。

霊的な知恵は、誰にでも増やす事ができるものです。
皆さんの心が主に向けてもっと開かれ、霊的な聡明さを得る事ができますように。

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