IIサムエル記6:-1-19 『 サムエル⑬~喜びの踊り 』 2010/10/17 松田健太郎牧師

IIサムエル記 6:1~19
6:1 ダビデは再びイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。
6:2 ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民とともに出かけた。神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている。
6:3 彼らは、神の箱を、新しい車に載せて、丘の上にあるアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していた。
6:4 丘の上にあるアビナダブの家からそれを神の箱とともに運び出したとき、アフヨは箱の前を歩いていた。
6:5 ダビデとイスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊った。
6:6 こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
6:7 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。
6:8 ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。
6:9 その日ダビデは主を恐れて言った。「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」
6:10 ダビデは主の箱を彼のところ、ダビデの町に移したくなかったので、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。
6:11 こうして、主の箱はガテ人オベデ・エドムの家に三か月とどまった。主はオベデ・エドムと彼の全家を祝福された。
6:12 主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。
6:13 主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。
6:14 ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。
6:16 主の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
6:17 こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。
6:18 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名によって民を祝福した。
6:19 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

今日から、やっとダビデが王となって登場します。
ダビデはもうずっと前に、サムエルによって王様となる油注ぎを受けていたのですが、実際に王様になるまでには二十年あまりもの時間を費やしました。
前回のメッセージでサウル王が死にましたが、その後もすんなりイスラエルの王になれたわけではありません。
ダビデはまずユダ族の王となり、紆余曲折を経てようやくイスラエルの王となったのです。

ダビデが王になって、真っ先にしたい事がふたつありました。
そのひとつは、ペリシテ人をやっつけるという事です。
ペリシテ人はサウル王、そして親友ヨナタン王子のかたきでもあります。
イスラエルはこれまで何度もペリシテ人に苦しめられてきましたが、ペリシテ人が猛威をふるっている限り、イスラエルに平和が来ない事をダビデは知っていたのです。

サウルも同じように考え、王になってからすぐにペリシテ人に攻め込みましたが、思い付きだけで行動したためにうまくいきませんでした。
しかし、ダビデはそうではありません。
IIサムエル 5:19 そこで、ダビデは主に伺って言った。「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」すると主はダビデに仰せられた。「上れ。わたしは必ず、ペリシテ人をあなたの手に渡すから。」

神様の約束通り、ダビデはペリシテ人たちを撃退しました。
これによって長年イスラエルを苦しめてきたペリシテ人の脅威は、終止符を打たれたのです。

① 契約の箱
ダビデが王になってからすぐに行ったもうひとつの事が、今日の聖書箇所に描かれている事です。
ダビデは、長い間放置されていた契約の箱を、あるべき場所に移動させたかったのです。

さて、ここで契約の箱というものについて復習をしておきたいと思います。
契約の箱というのは、かつて奴隷だったイスラエルがエジプトから脱出して荒野をさまよっていたころ、幕屋という移動式神殿の一番奥に収められていたものです。
契約の箱の中には、十戒、アロンの杖、マナが入った壺などが入れられていました。
その箱は“贖いのふた”と呼ばれるものでふたがされ、その上には金で作ったケルビムという天使の像が二つ並べられていました。
そのケルビムの翼の間に、神様はいると言われていたのです。

この箱には、隠されている秘密のメッセージがいくつかあります。
ひとつには、十戒という律法をまとめられたものが、箱の中に入れられ、“贖いのふた”でふたがされなければならなかったという事。
十戒は、神様の義(正しさ)と聖さの象徴です。
神様の義と聖さの前には、誰も生きている事ができません。
今日の話もそうですが、多くの人が不用意にこれを扱い、命を失っています。
そこで、神様ご自身がそれを、贖いで覆ったという事です。
神様の聖すぎる正しさを覆うものを、“贖い”と呼ぶのです。

二つ目のメッセージは、ケルビムの翼の間にある神様の臨在です。
神様は遍在する神様なので、本当は全ての場所に存在しているのですが、契約の箱の上にある主の臨在を通して、神様はいつでもイスラエルと共にいるという事が象徴されていました。
他にもいろいろな意味が契約の箱には込められていますが、そのすべてが表しているのは、イエス様です。

イエス様は十字架によってわたし達の罪を贖い、裁きからわたし達を覆い隠して下さいました。
そしてイエス様を通して、わたし達は神様が人を愛し、わたし達と共にいて下さるという事を知る事ができたのです。
イスラエルの人々が大切にしてきた契約の箱が象徴しているのは、このイエス様だったのです。

しかし、その契約の箱は預言者サムエルの師匠だったエリの息子たちによって持ちだされました。
神様の力をペリシテ人との戦いに利用しようとしたのです。
しかし、彼らはその戦いに敗北し、契約の箱は一度奪われてしまいました。
ところが、契約の箱はペリシテ人の地では災いばかりを起こすので、ペリシテ人達は契約の箱を牛車に乗せ、イスラエルへと送り返したのです。

契約の箱は、その後キルヤテ・エアリムという場所に到着しましたが、誰もが恐れ、近づこうとしませんでした。
そして70年以上の間、キルヤテ・エアリムにある民家の家に置き去りにされ、忘れ去られていたのです。
これは、これまでのイスラエルの人々の霊的な状態が象徴されているように思います。
神様を利用しようとし、罰を受け、恐れてどこか放置して、忘れてしまう。
ダビデは、イスラエルにとって本当に大切な存在であるはずの契約の箱を、あるべき場所に置く必要性を感じました。
それは、イスラエル人の心の中心にもう一度神様を引き戻させるために必要な事だったのです。

皆さんの心の中で、イエス様はどこにおられるでしょうか?
イエス様が、どこか、隅の方に追いやられて、忘れされてしまって言う量な事はないでしょうか?
もしそうであれば、今こそイエス様がおられるべき場所に戻っていただく時です。
イエス様がおられるべき場所、それはわたし達の心の王座です。
皆さんの心の中心に、主がおられる事を心から祈ります。

② ウザに下った神の裁き
しかし、その大事業は一筋縄ではいかなかったんです。
ここに一つの事件が起りました。

6:6 こうして彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それを押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
6:7 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。
6:8 ダビデの心は激した。ウザによる割りこみに主が怒りを発せられたからである。それで、その場所はペレツ・ウザと呼ばれた。今日もそうである。

ウザは、神様に危害を加えようとして契約の箱に触ったのでしょうか?
いいえ、ウザは契約の箱が倒れそうになったので、守ろうとして手で押さえたのです。
もちろん悪気があったわけではありません。
それでも、ウザは死ななければならなかったのです。

契約の箱は、不用意に扱えば命を失う事になる、絶対的な聖さを持ったものです。
だから契約の箱に関して、それを運ぶ人が聖なるものに触れて死んでしまう事のないようにと、律法が定められていました。
ひとつには、契約を運ぶのはレビ人のケハテ族である事、そして契約の箱を運ぶ時には、棒を通して肩に担がなければならないという事です。
しかし彼らは、かつてペリシテ人がそうしたように、契約の箱を車に乗せて牛に引かせました。
その結果、牛が契約の箱をひっくり返しそうになり、止めようとしたウザは死んだのです。
イエス様は、この様に言っています。

ヨハネ 14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

神様は、確かに行いよりもわたし達が神様を愛する思いを大切になさる方です。
しかしそれは、“愛があれば何をしてもいい”という事と同じではありません。
神様が「不用意に取り扱えば死ぬ事になるよ。」と忠告し、取扱説明書まで与えていたのにそれを無視すれば、事故が起るのも当たり前の事ではないでしょうか?

神様は、わたし達を困らせたり苦しませるために“No”というのではありませんし、“しなさい”と命ずるのでもありません。
わたし達には意味のわからない事でも、かならず理由があります。
わたし達が本当に神様を愛し、信頼しているなら、わたし達は神様の言葉に従い、忠実であるべきなのではないでしょうか。

わたし達は、死んだようになってしまっている教会をたくさん見ます。
またわたし達は、自分はクリスチャンだと名乗りながらも、イエス様の愛にはまったく生きていない、死んだようなクリスチャンにもたくさん出会います。
わたし達が神様を愛さず、信頼せず、従わないなら、わたし達も死んだようなクリスチャンになってしまうでしょう。

③ 喜びの踊り
ウザの死を目の当たりにしたダビデには、恐れが走りました。
どうしてこんな事になってしまったのだろうか?
自分は、正しい事をしているはずだったのに。
やはり、自分にはムリなのではないか。
神様にもう一度来ていただこうと願うこと自体が、間違いだったのだろうか。

わたし達もこのダビデのように、時として立ち止まり、前に進めなくなってしまう事があります。
信仰を持ち始めて間もないころ、神様の事がもうわからなくなってしまう。
神様のための働きとして、良かれと思って始めた事が、悪い結果になってしまう。
助けようとした人が、関わったことでもっと大変になってしまう・・・。

僕自身も、人との関係の中でこの様な経験をした事があります。
ある人を助けたいと思って手を差し伸べたものの、それが自分自身を苦しめ、相手をも苦しめる結果となった時、僕はどうしていいのか分からなくなり、自信を失ってしばらくの間動けなくなってしまったのです。

ダビデは、契約の箱をガテ人オベデ・エドムの家に置かせてもらい、3ヶ月間悩み、考え、神様の取り扱いを受けました。
この期間、ダビデは祈りつつ、何が問題だったのかを試行錯誤した事でしょう。
また、神の箱を都に持ってくるという事が本当に正しい事なのかどうか、考えた事でしょう。
そして3か月経ったある時、契約の箱を預けたオベデ・エドムの家が祝福されているという話を聞いたのです。
その時、ダビデの中にあった思いは確信に変わりました。
契約の箱を都の中心に持ってくる事は間違っていない。
ウザが死んでしまったのは、契約の箱を移動することそのものに問題があったのではなく、別の問題があったのではないのか。

ダビデは、今度は少人数で、しかしより慎重に事を運びました。
ダビデはいけにえとして牛を捧げ、また聖書に書かれている通り、契約の箱に棒を通して、ケハテ人の末裔に担がせたのです。(契約の箱を預かっていたオベデ・エドムは実はケハテ人でした。)
最初の時に比べて、行列の人数は少ないものの、ダビデはエポデという祭司の衣装を着て、列の先頭を進みました。

やがて、契約の箱は無事に、ダビデの町エルサレムに運び込まれました。
その時ダビデは、契約の箱が都の中止に置かれる事への喜びのあまり、王服を脱いでエポデだけになり、なりふり構わずはねて踊り始めました。
イスラエルが神様中心の国に戻るという事がとても嬉しかったからです。

神様への賛美とは、このように喜びの中からあふれてくるものです。
それは、神様が何かをして下さったから嬉しいのではありません。
わたし達にとって、神様の最大の贈り物は、神様の存在そのものです。
神様が共にいて下さるという事、それ自体が嬉しいのです。

僕はよく、自転車に乗りながら、ひとりで賛美を歌っている事があります。
奈緒美や叙那がその事をよく知っているでしょう。
それは、神様を喜ばないではいられないからです。
賛美しないではいられないのです。

歌だけではありません。
皆さんにも、喜びを表現するさまざまな賛美の方法があるでしょう。
ダビデのように踊る事かもしれません。
ある人は、顔からニコニコが取れないかもしれません。
ダビデの妻の一人、ミカルのように、それを理解しない人もいるでしょう。
でも、神様への賛美を、わたし達の心の内に閉じ込めてはいけません。
理解されるかどうかということ以上に、大切な事もあるからです。

詩編 145:1 私の神、王よ。
私はあなたをあがめます。
あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。
145:2 日ごとにあなたをほめたたえ、
あなたの御名を世々限りなく賛美します。
145:3 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。
その偉大さを測り知ることができません。
145:4 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

神様への賛美が、皆さんの心にもあふれますように。

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