IIサムエル記9:1-13 『 サムエル⑮~Amazing Grace 』 2010/10/31 松田健太郎牧師

IIサムエル記 9:1~13
9:1 ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
9:2 サウルの家にツィバという名のしもべがいた。彼がダビデのところに召し出されたとき、王は彼に尋ねた。「あなたがツィバか。」すると彼は答えた。「はい、このしもべです。」
9:3 王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」
9:4 王は彼に言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」
9:5 そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。
9:6 サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は答えた。「はい、このしもべです。」
9:7 ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
9:8 彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」
9:9 そこで王はサウルの若い者であったツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の子に与えた。
9:10 あなたも、あなたの息子たちも、あなたのしもべたちも、彼のために地を耕して、作物を得たなら、それはあなたの主人の子のパン、また食物となる。あなたの主人の子メフィボシェテは、私の食卓で、いつも食事をすることになる。」ツィバには十五人の息子と二十人のしもべがあった。
9:11 ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。
9:12 メフィボシェテにはミカという名の小さな子どもがいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。
9:13 メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。

Amazing Graceという歌は、世界でもっとも有名な讃美歌と言っていいかもしれません。
その曲を作った(正確には作詞だけ)ジョン・ニュートンの話も、有名な話なのでみなさんはご存知かもしれませんね。

ジョン・ニュートンは、1725年イギリスに生まれました。
母親はクリスチャンで、幼いころジョンに聖書を読んで聞かせていましたが、ジョンが7歳の頃、母親は亡くなりました。
やがて大人になったジョンは船乗りになり、黒人奴隷貿易に携わり巨万の富を手に入れました。
しかし彼が22歳の時、彼の船は大きな嵐に遭遇し、非常に危険な状態に陥ったのです。
今にも海にのみ込まれそうな時、ジョンは母の事を思い出しながら神様に助けを求めました。
すると船は奇跡的に嵐から抜け出し、彼は一命を取り留めたのです。

やがて彼は奴隷貿易から足を洗い、全てを悔い改めて牧師となりました。
ジョンは自分が長い間奴隷貿易にかかわった事を心から後悔し、その悔い改めの思いの中から、このアメージング・グレイスという賛美は生まれたのです。

アメージング・グレイスのテーマとなっているのは、神様の恵みです。
こんなに汚れて、悪い事をしてきた自分をそれでも愛し、救い、ご自分の元に引きよせて下さる神様。
こんな自分を助けるために、自分のひとり子の命さえも犠牲にして下さった神様の愛。
それが、この賛美の中で歌われています。
溢れるような神様の恵みを、今日も聖書から共に見ていきましょう

① 愛があふれる時
羊飼いだったダビデが王になってから、しばらくの月日が流れました。
そんなある時、ダビデはひとつの事を思い立ち、ツィバという僕を呼び出しました。

9:3 王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」
9:4 王は彼に言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」
9:5 そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。

ダビデが呼びだしたヨナタンの子は、名前をメフィボシェテと言いました。
ダビデ王からの呼び出しを受けた時、彼はそれだけで心臓が止まるような思いだったでしょう。
なぜなら、サウル王が死んだあと、サウルの家とダビデは長い間戦いの中にあったからです。
サウル王の死後、ダビデはユダ族の王となりましたが、サウルの親せきは自分たちこそイスラエルの王であるといって、ダビデに戦いを挑みました。
そしてダビデが勝利し、ようやくダビデはイスラエルの王となったのです。
その後も、何とか王の位を取り戻そうとするサウルの家の人々は、ダビデの部下たちによって次々と殺されていました。
メフィボシェテは、足が悪い事もありもともとダビデに逆らおうというつもりはありませんでしたが、イスラエルの中心からはかなり離れた田舎で、身を隠しながらひっそりと暮らしていたのです。

しかし、ついに自分にも来るべき時が来た、とメフィボシェテは思いました。
ダビデ王の呼び出しに逆らう訳にもいかず、彼はダビデの前にやってきたのです。
メフィボシェテはこれから殺されるという恐怖の中で、ダビデの前にひざまずきました。
そんなメフィボシェテに、ダビデは言ったのです。

9:7 ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」

メフィボシェテだけでなく、その家族もみんな救い、サウル王個人の所有だった土地はすべて返され、それだけでなく彼の家族全員も含めて宮廷に住むようにと言われたのです。
ダビデはそれ以降、このメフィボシェテを、彼自身の家族であるかのように扱いました。
かつては敵であり、今もいつ反旗を翻して王位を取り去ろうとするかわからない人々を、ダビデは赦しと愛を持って受け入れたのです。

ダビデはどうしてこんな事をしたのでしょうか?
それは、ひとつには親友ヨナタンへの感謝の思いがあったでしょう。
あまりに早く死んでしまったヨナタンに代わって、ダビデがメフィボシェテを子としたのです。
しかしそれだけではなく、ダビデ自身が神様の愛を豊かに与えられていると感じていたからではないでしょうか。

ヨハネの手紙の中には、この様な言葉があります。

Iヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
わたし達はもともと、愛する事が難しいものです。

それは、愛すること以上に愛される事を求めているからです。
しかし、神様からの無条件の愛を受け、深くて恵みに溢れた愛が満ちる時、わたし達は初めて他の人をも愛する事ができるようになるのです。

皆さんの心には、神様の愛があふれていますか?
わたし達が愛するためには、まず愛を知らなければなりません。
そして愛を知っているなら、今度はわたし達から愛が他の人々へと流れていくのです。

② 愛を阻むもの
それが本当なら、全てのクリスチャンはみんな愛に溢れた人達になるはずです。
そうであって欲しいですね。
イエス様ご自身もこう言っています。

ヨハネ 13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

しかし、現実はどうでしょうか?
残念な事ですが、神様の愛を受けた全ての人が愛に溢れているわけではないようです。
多くのクリスチャンが、神様の愛を受け取り、救いを受けながら、それでも人を愛する事ができないでいるのです。
なぜなのでしょう?

わたし達が、神様の愛に満たされる事を阻んでいるものが、少なくともふたつあります。
ひとつは、自分から愛を拒んでしまうという障害です。
せっかく神様が愛してくれているのに、セルフ・イメージが低いと「私なんか愛される価値はありません。」と言って、自分から愛される事を拒んでしまうのです。

日本では、遠慮する事が美徳とされているので、特に日本人に多いタイプかもしれません。
しかし、自分で自分の価値を決めて神様が与えて下さるのを拒むというのは、謙遜であるように見えて実はとんでもない傲慢なのです。
だってそれは、神様よりも自分の価値観の方が正しいと言っているのですから。

天使にメシヤの母となる特権を与えられた事を告げられた時、マリヤは「私なんてダメです。」と言うのではなく、「神様の御心の通りの事が、この身に起りますように。」と言って自分自身を捧げました。
“こんな汚れた私”である事は確かですが、そんなわたし達を神様は愛し、尊いと言って下さるのです。
わたし達は神様のその思いを、そのままの形で受け入れるべきなのではないでしょうか?

③ Amazing Grace
神様の愛を受ける事を阻んでしまうもうひとつの障害は、わたし達の中にある傲慢と欲望です。
傲慢と欲望によってわたし達の心はマヒして、神様の愛や救いの素晴らしさを理解する事ができないのです。

先日、ネパールという国に短期宣教に行った女性の証を聞きました。
ネパールはヒンズー教の国で、世界でも最も貧しい国として分類される国のひとつですが、そこでは誰もが神様の言葉に飢え渇いていてどんどんクリスチャンになっていくのだそうです。
世界的な規模で見れば教会は、歴史上ないほどの成長をしています。
実は今、世界はリバイバルの真っただ中にあるのです。

ところがわたし達は、日本という国にいると、リバイバルなんて夢のはなしのようです。
教会はなかなか成長しなくて、多くの牧師が宣教に閉そく感を感じています。
アメリカでさえ、年間に新しくつくられる教会よりも閉鎖される教会の方が多いと言います。
かつて国民の100%がクリスチャンだったヨーロッパの諸国では、ほとんどの教会が建物だけになってしまい、信仰は見る影もありません。
リバイバルは、先進国ではなく、すべて途上国の中で起っているのです。
これは何を意味しているでしょうか?

途上国の人達は、ギリギリの中で生きているのです。
明日生きていられるかどうかわからない中で、神様に頼り、委ね、祈っています。
彼らの信仰は、命がけです。
この祈りに神様が応えてくれなければ、明日生きる事は出来ない世界に生きているのです。
そんな中で与えられる神様の愛と恵みは、世界がひっくり返るほどの価値のあるものなのです。

一方で、先進国と言われる国ではどうでしょうか?
僕たちが福音を伝える中で、この様な反応を受ける事が少なくはありません。
「で?」
「天国に行くなんてあたりまえでしょう。」
「というか、イエスを信じないと天国に行けないなんて、神様ケチなんじゃない?」
「信じてやってるのに、ちっとも幸せになれないんだけど?」

こんな乱暴な言葉ではないにしても、同じような思いは、実はわたし達自身の中にもあるのではないでしょうか?
これは、生きる事は保障されている、必要なものがあれば買えばいい、欲しいものは頑張れば手に入るという甘やかされた環境の中で、堕落した結果の考え方です。
生きる事が当たり前となったわたし達の価値観では、愛されること、救われること、天国に行く事もわたし達に与えられているべき当前の権利であって、恵みと感じる事は出来にくいのです。

だからイエス様は言います。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

わたし達は、世界で上位2%の富の中で生きてはいますが、どうか心の貧しさを知って下さい。
神様の価値観で自分を見る事と、心の貧しさを知ることが、神様の愛を妨げる障害を乗りえる、唯一の方法だからです。

④ダビデがメフィボシェテに与えた恩寵は、神様のわたし達に対する愛を示した型です。
メフィボシェテが、彼の父ヨナタンのゆえに救われたように、わたし達はキリストのゆえに神の愛を受け、赦しを与えられています。
メフィボシェテが自分自身を「死んだ犬」と表現したように、わたし達も罪の中に死んでた者でした。
彼が王の食卓に座ることを許されたように、わたし達もイエス様の食卓に招かれました。
彼が祖父の地を受け継ぐ事を許されたように、わたし達も御国を受け継ぐ事を許されました。
彼はダビデに自らの息子のようにされたように、わたし達もイエス様を通して神の子とされました。

全ては、わたし達に恵みとして与えられています。
その驚くばかりの恵みを、わたし達も受け取っているのです。
わたし達に求められているのは、与えられている恵みを信じて受け取ることです。
わたし達がおどろくばかりの神様の愛を余すことなく受け取る時、わたし達の心は変わり、ダビデがメフィボシェテに恵みを与えたように、恵みはわたし達の周りの人達へと伝わっていきます。

その時、わたし達の周りにリバイバルが起り、その波はどんどん大きくなって、日本全体に広がっていくでしょう。
神様の愛を阻む全ての障害が、わたし達から取り除かれますように。
わたし達が、深くて大きな神様の愛を、余すところなく受け止める事ができますように。
罪悪感やプレッシャーによって行動をするのではなく、神様への愛と喜びによって全ての働きをなす事ができますように、心からお祈りいたします。

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