IIサムエル記13:23-37 『 サムエル⑰~罪の連鎖 』 2010/11/14 松田健太郎牧師

IIサムエル記 13:23~37
13:23 それから満二年たって、アブシャロムがエフライムの近くのバアル・ハツォルで羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、アブシャロムは王の息子たち全部を招くことにした。
13:24 アブシャロムは王のもとに行って言った。「このたび、このしもべが羊の毛の刈り取りの祝いをすることになりました。どうか、王も、あなたの家来たちも、このしもべといっしょにおいでください。」
13:25 すると王はアブシャロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全部が行くのは良くない。あなたの重荷になってはいけないから。」アブシャロムは、しきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた。
13:26 それでアブシャロムは言った。「それなら、どうか、私の兄弟アムノンを私どもといっしょに行かせてください。」王は彼に言った。「なぜ、彼があなたといっしょに行かなければならないのか。」
13:27 しかし、アブシャロムが、しきりに勧めたので、王はアムノンと王の息子たち全部を彼といっしょに行かせた。
13:28 アブシャロムは自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上きげんになったとき、私が『アムノンを打て。』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるのではないか。強くあれ。力ある者となれ。」
13:29 アブシャロムの若い者たちが、アブシャロムの命じたとおりにアムノンにしたので、王の息子たちはみな立ち上がって、おのおの自分の騾馬に乗って逃げた。
13:30 彼らがまだ道の途中にいたとき、ダビデのところに次のような知らせが着いた。「アブシャロムは王の子たちを全部殺しました。残された方はひとりもありません。」
13:31 そこで王は立ち上がり、着物を裂き、地に伏した。かたわらに立っていた家来たちもみな、着物を裂いた。
13:32 しかしダビデの兄弟シムアの子ヨナダブは、証言をして言った。「王さま。彼らが王の子である若者たちを全部殺したとお思いなさいませんように。アムノンだけが死んだのです。それはアブシャロムの命令によるので、アムノンが妹のタマルをはずかしめた日から、胸に持っていたことです。
13:33 今、王さま。王子たち全部が殺された、という知らせを心に留めないでください。アムノンだけが死んだのです。」
13:34 一方、アブシャロムは逃げた。見張りの若者が目を上げて見ると、見よ、彼のうしろの山沿いの道から大ぜいの人々がやって来るところであった。
13:35 ヨナダブは王に言った。「ご覧ください。王子たちが来られます。このしもべが申し上げたとおりになりました。」
13:36 彼が語り終えたとき、そこに王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣いた。
13:37 アブシャロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、いつまでもアムノンの死を嘆き悲しんでいた。

最近いろんな場面でよく思う事があります。
それは、「近頃の若者はどうなってるの!?」と言う事です。
このセリフが出てくるという事は、僕もおじさんになってきたという明確なサインですね。

近頃の若者は、電車の中でも街中でも、携帯や、ゲームや、音楽に夢中になって自分の世界に入ってしまっています。
そのせいか、自分の外の世界に対してみんな無関心ですね。
周りの人が困っていようと、迷惑をかけようと関係がないという姿をよく見かけます。
そういう子たちの多くは、普段から自分の世界だけで完結してしまっているので、人とのコミュニケーションもうまくとれなかったりします。

また、未来に希望を持っていない子たちがあまりに多いですね。
だから自分達が世界を変えていこうというのではなく、「どうせ何をしてもムダ。」という無力感が立ち込めています。
無気力、悲観、無関心。
命というものもとても軽く考えていて自分の命も他人の命も粗末に扱うという傾向もあります。

しかしよく考えてみると、僕たちだって僕たちの前の世代の人達から、「近頃の若者は…」と言われていた時があったわけですよ。
それはたぶん、僕たちの前の世代の方々もそうなんですよね。

今日の聖書箇所は、ダビデの子供たちが出てくる話なわけですが、この時代にもやはり、「近頃の若者はどうなってるんだ!?」と言ったのではないかという若者たちの状況に遭遇するのです。
今日はアムノンとアブシャロムというダビデのふたりの息子たちの話を見ながら、「近頃の若者」問題について考えていきたいと思います。

① 罪の連鎖
さて、ダビデにはたくさんの子供たちがいました。
今日の話の焦点となるのは、長男のアムノン、そして腹違いの兄妹アブシャロムとタマルの3人です。
アブシャロムとタマルは、非常に美しい兄妹でした。
そのタマルに、兄アムノンが恋をした所から、この事件は始まります。

アムノンの恋は、美しい憧れのようなものではなく、タマルに対する肉欲的なものでした。
ある日アムノンは、仮病を使ってタマルを呼び出し、タマルを強姦するという酷い事が起ります。
今の日本では考えられませんが、当時のイスラエルの法律では、母親が違う兄弟であるアムノンとタマルは結婚する事もできました。
しかし、アムノンは自分の思いを遂げると今度はタマルを疎ましく思うようになり、ついには憎むように追い出してしまいました。

純潔というものが大切にされたこの時代、アムノンに弄ばれて捨てられたタマルは深い絶望の中に沈むしかありませんでした。
それに対して怒り狂ったのは兄のアブシャロムです。
アブシャロムは妹が受けた屈辱と苦しみを思い、アムノンに対する深い憎しみを燃え上がらせました。
しかし、そうは言ってもアムノンはダビデの長男。
第一王位継承者でもありますので簡単には手が出せません。
アブシャロムは何事もなかったようにふるまいつつ、密かにアムノンへの復讐の機会をうかがっていたのです。
そこから2年経ったのが、今日読んでいただいた聖書の個所になります。
アブシャロムはついにその機会を手にし、祭りの宴会の席で兄アムノンを殺すという悲劇が起ったのでした。

ダビデと言えば、イスラエルの誰もが愛し尊敬する偉大な王です。
しかし、異母兄弟とは言え兄が妹を強姦し、さらには弟が兄を殺すというドロドロの事件が、あのダビデの家庭に起ったのです。
「近頃の若者はどうしてしまったんだ!」と、イスラエルの人々は思ったでしょう。
でもダビデにしてみれば、「近頃の若い者は…」と他人事のように話すにはあまりにも身近な話であり、悲しい出来事だったに違いありません。
ダビデは長い間この出来事を嘆き悲しみ、長男であるアムノンの死を悼みました。
それにしても、この様な悲劇がどうしてダビデの家庭に起ったのでしょうか?

よく言われる事ですが、偉大な親を持つと、子供は大変だったりするものです。
親へのコンプレックスのためにグレてしまったか、あるいは王宮で甘やかされ、わがままに育てられたという事もあったかもしれません。
しかし何よりも思うのは、これは父ダビデの罪をそのまま受け継いでいるという事です。

ダビデの罪とは何でしょうか、それは女性問題です。
神様はひとりの男とひとりの女がひとつになることが結婚だと言っていましたが、ダビデはたくさんの妻をめとっていました。
つい先週のメッセージでは、バテ・シェバという女性との関係で、良い忠実な部下であったウリヤを殺してしまうという大きな罪もありました。

今回のこの事件は、妹タマルに対する肉的な想いを我慢できなかったアムノンの弱さから起った事ですが、その弱さはダビデが持っていたのと同じ弱さです。
そして、ダビデが神様の御心に従ってたくさんの妻をめとっていなかったら、そもそもこのような事件は起らなかったはずなのです。
そして、もしこの時、ダビデがアムノンを厳しく処罰していたら、おそらくアブシャロムがアムノンを殺害するという悲劇も起らなかったでしょう。

しかしダビデは、アムノンがした事を聞いた時、その一部始終を聞いて激しく怒ったものの、その事でアムノンを罰する事はありませんでした。
それは、自分自身が同じような事をしてきた過去があるので、権威をもって叱ることができず見逃してしまったのです。
すべては、ダビデの罪からの連鎖なのです。

② わたし達自身の問題でもある
クリスチャンだから大丈夫だとか、良い親だから悪い子にはならないという事はありません。
ダビデは信仰の人でもありましたし、人間的に良い部分もたくさんありましたが、ダビデの良い部分を受け継いだ子供はひとりもいませんでした。
この事実が表しているのは、罪の方が圧倒的に伝わりやすく、大きい影響を持っているという事です。

子供のころに体験したショッキングな出来事は、トラウマとして後々の人生に影響を与えます。
そしてそのトラウマが原因で、そこに新たな罪が生まれたりもするのです。
親から虐待を受けた子供は、自分が親になると自分も子供を虐待するようになるという話もあります。
人から人へと伝染していくのが、罪の恐ろしさのひとつでもあります。
親から子だけではなく、関わった人にどんどん伝染していくのです。

わたし達は「最近の若い者は…」という話をする時、「親の育て方が悪い。」とか「親の顔が見てみたい。」などというのは簡単です。
でも、それは親だけの問題ではありません。
子供たちの生きる環境を作ってきたのは、その子の両親だけではないのですから。
その子たちの周りの友達も、友達の両親も、テレビ番組も、言い始めれば彼らが生きてきた環境を作ってきたのは私たち大人であって、彼らがそのような人間に育ってしまったのは、この社会を作ってきたわたし達全体の責任でもあるはずです。
結局のところ「最近の若い者は…」と言われる若者たちを生んできたのはわたし達でもあるのだという事です。

“近頃の若者”を目にする時、彼らがどうしてそうなってしまったのかを考え、大人であるわたし達がどのようにすれば社会が変わるのかを考える事も、わたし達の責任であるはずですよね。
ただでさえ、良い事よりも悪い事が伝わり易い性質をわたし達は持っていますが、罪とか憎しみのようなものではなく、少しでも愛が子供たちに伝わるように心がけていきたいものです。

③ 罪の連鎖を断ち切る
ある時は、若者のこんな発言を聞く事があります。
「自分がこんなになってしまったのは、こんな風に育てた親の責任だ。」
「こんな世界に生んでくれと頼んだ訳じゃない。」
わたし達は環境に流されるだけの生き物ではありませんから、このように何でもかんでも親や大人のせいにしてしまうのは問題外です。

とはいえ、わたし達自身が罪の遺産を前の世代からたくさん受けているのは確かです。
遡ればアダムとエバの時代から、わたし達は罪の連鎖を続けています。
罪の力というのはそれほど影響力も大きく、抗いがたいものでもあります。
生まれながらのわたし達は罪の奴隷の状態なので、環境の中で受ける罪から離れる事は難しいのです。

しかし、聖書はわたし達がその連鎖を断ち切ることができるのだと教えています。

ローマ 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

わたし達を罪の奴隷状態から解放して下さる、イエス様の元に来て下さい。
もちろん、信仰をもったとたんに罪の誘惑を受けなくなったり、罪を犯さなくなるわけではありません。
しかし、わたし達はもう、罪の束縛の中で生きる必要がなく、自由になっているのです。

わたし達の体には“反射”という機能が備わっています。
目の前に何か飛んでくれば、目を閉じたり飛んできた物を払おうと体が動きます。
それと同じように、わたし達の心は経験に応じて反射的な反応をしてしまう事があります。

嫌な経験をすれば、多くの場合ネガティブな反応をします。
その経験が大きければ、心の中に傷として残り、いつまでも反応の部分だけが残ってしまう事もあります。
例えば、大声を出す人にひどく怖い経験をした事があれば、同じ人でなくても声の大きい人に対して恐れを持ってしまったりするのです。
それを、聖書では“肉の自分”という言い方をしたりします。

これまでのわたし達は、罪の支配の中で、肉のままの自分として生きてきました。
しかしイエス様は、肉のままのわたし達が信じる常識とは違う生き方をしなさいと教えています。
そうでなければ、罪の連鎖を断ち切ることができないからです。

マタイ 5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

イエス様が教えてくれたのは、わたし達が罪に対してそのままの反応をするのではなく、悪に対しても愛で返すという事です。
わたし達がキリストの愛の中に生きる時、愛が罪の連鎖を断ち切ります。

わたし達は、みんな罪びとです。
わたし達の両親は完全な愛でわたし達を愛してくれたわけではありませんし、生きてきた世界も完全な世界ではありません。
そして、わたし達自身も完全な愛で子供たちを愛してあげる事は出来ないでしょう。
たくさんの失敗をし、たくさんの傷を与えてしまうのかもしれません。
だからこそ、わたし達には神様の完全な愛が必要です。
皆さんの内に、主の完全な愛が満たされますように。
主の愛が、罪の鎖を断ち切りますように・・・。

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