IIサムエル記18:32-33 『 サムエル⑱~アブシャロムの反乱 』 2010/11/21 松田健太郎牧師

IIサムエル記 18:32~33
18:32 王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」
18:33 すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」

先週はダビデの息子達の中で起った罪についてお話ししました。
長男のアムノンは、腹違いの妹タマルを強姦し、それに怒ったタマルの実の兄であるアブシャロムがアムノンを殺害するという悲劇が起ったのです。
そしてこのすべては、ダビデ自身の罪から来たものだったというお話でしたね。

① 赦す事、愛する事
その時から、ダビデとアブシャロムの間には大きなわだかまりが残っていました。
アムノンというダビデが特にかわいがっていた息子の死がそこにかかっていたのですから、ムリもないと言えばムリのない話です。
しかし、そのような状況にアブシャロムを追い込んだのは自分の責任もあるのだという事を、ダビデは心のどこかでわかっていました。
そして、アムノンを殺したアブシャロムもダビデの息子である事に変わりはありません。
ダビデにとっての大きな課題は、アブシャロムをいかに赦し、愛するかという事にあったのです。

わたし達を、もっとも大きく傷つける事ができるのは、実はわたし達にとって身近な人達です。
赤の他人に酷い事をされてできた傷は比較的治るのも早いですが、自分が愛し、信頼し、深い関係にあった人から裏切られた時にできた傷はなかなか癒されません。
だから、離婚というのは本当に苦しみが付きまとうものだと思いますし、親からの虐待が子供に残す心の傷はとても大きいのです。

しかしわたし達は、誰もが完璧には程遠い人間であり、みんなが罪人なんですよね。
だからどうしても、身近な人間関係の中でお互いに傷つけあってしまうものでもあるのです。
そんなわたし達にとって大切な事は、相手を赦すという事だと思います。
身近な人であればあるほど赦しを必要とし、そして身近な人であればあるほど赦すのが難しいものでもあります。

わたし達は、ダビデが経験したほどに複雑で大変な状況にはなかなか直面しないかもしれませんが、それでもありえない事ではありません。
そしてそこまでではなくても、互いに赦しあわなければならないという場面は、わたし達の人生にはしょっちゅうあるものなのではないでしょうか。

わたし達はいつも一緒に住んでいるからこそお互いの良い部分も悪い部分も見えるわけですから、余計なひと言を言ってしまう事もあります。
また、そのつもりでなくても約束を破ってしまったり、約束自体を忘れてしまう事もあります。
一緒に生活していく中では、一方がより大きな負担を背負わなければならない時期もありますし、お互いの理解が足りなかったり、理解する努力すらできない場合もあります。
そんな中で必要なのは、わたし達がお互いに赦しあうという事なのです。

聖書の中にはこの様に書かれています。

コロサイ 3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

わたし達は、お互いに「せ~の~!」で赦し合えればもっと楽なのでしょうが、実際にはそういうわけにはいきませんよね。
「相手があやまるなら、こっちもあやまる。」「あっちが愛するなら、こっちも愛する。」というのがわたし達のあり方だったりもします。
でもイエス様は、このように言いきっているのです。

ルカ 6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

ダビデがアブシャロムを赦し、愛するという事は、ここういう事だったんだろうと思います。
これはやはり、ダビデほどの人物であっても簡単な事ではなかったんですね。
いや、はっきり言えば、これはどんな人であろうと不可能の近い事なんです。
それが自分自身の子供であっても、いや自らの子供であるからこそなおさら、自分の愛する息子を奪った事を赦せるはずがありません。

しかし、わたし達が自らの愛のなさを自覚し、主に求める時、わたし達はそれでも愛する事ができる力を神様から与えられるのです。
わたし達は、自分の努力だけではなく、神様にそれを求める必要があるんですね。
そうして、少しずつではありますが、ダビデはアブシャロムとのわだかまりをほどき、和解し、赦すようになっていきました。

② アブシャロムの反乱
しかし、そんな矢先に、次の事件が起ったのです。
なんとアブシャロムは、密かに味方や兵力を集め、イスラエルの南側になるヘブロンという地で王の名乗りをあげたのです。
ダビデにとって、それは青天の霹靂ともいうべき出来事でした。
自分が相手を赦し、愛する事に力を注いでいる間に、当の本人は反逆のために長い間を掛けて周到に準備をしていたのですから。

アブシャロムは、イスラエルの人々に訴えかけ、ダビデに対して不満を募らせるように仕向けていたのです。
そのため、アブシャロムがヘブロンの王となった時、多くのイスラエル人はダビデから離れ、こぞってアブシャロムを支持しました。

その知らせを聞いたダビデには、ふたつの選択がありました。
彼と共にいる勇士たちを率いてアブシャロムと戦うか、それともそこから逃げ出すかです。
皆さん、ダビデはどうしたと思いますか?

IIサムエル 15:14 そこでダビデはエルサレムにいる自分の家来全部に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブシャロムからのがれる者はなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの町を打つといけないから。」

なんと、ダビデは逃げ出したのです。
しかも、アブシャロムがエルサレムに攻め登ってきたという訳でも何でもないのにです。
ダビデがどうしてこのような決断をしたのかはわかりません。
それはあまりに早い撤退と思えましたし、あの勇敢なダビデ王はどこに行ってしまったのかと思えるほどに臆病な姿にも見えます。
でも、おそらくダビデは、わが子アブシャロムと戦いたくなかったのではないかと思うのです。

ダビデがアブシャロムを赦し、和解をしていなければ、ダビデの心にこのような弱さは起らなかったかもしれません。
それどころか、もしダビデがアブシャロムと和解していなければ、アブシャロムがイスラエルの人々の人気を得るような事もなかったでしょうから、反乱そのものが成立していなかったとも言えます。
人間的に考えると、ダビデがアブシャロムを赦したのは間違いだったのではないかとさえ思えてきます。
「なんだ、人を赦す事は必ずしも良い事とは限らないじゃないか。」と思われる方もいるかもしれません。
しかし、そうではないのです。
そもそもアブシャロムが謀反を起こそうとしたのは、ダビデとの和解した事が原因ではありません。
ダビデは正しい事をし、しかしアブシャロムは悪に走ってしまったのです。
また、ダビデがもっと早くアブシャロムとの関係を正しく結んでいたら、アブシャロムが謀反を企むという事もきっとなかったでしょう。

わたし達は、なかなか人を赦したり愛する事ができないものですが、和解をするのに早すぎるという事はありません。
だからイエス様は、このように言っているのです。

マルコ 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

皆さんの心の中に、赦す事ができていない人がいるでしょうか?
もし和解できていない人がいるなら、すぐにでもその人を赦し、また赦しを乞い、和解して下さい。
その時を逃せば、ダビデが直面しなければならなかったように悲しい結末を迎える事もあります。
早ければ、早い方が絶対にいいのです。

③ アブシャロムの死
さて、このようにして始まったアブシャロムの反乱でしたが、結局はダビデの軍がアブシャロムの軍勢を打ち破り、反乱は失敗に終わります。
その最後の決戦となる戦いの時、ダビデは戦場に出ていく将軍たちに告げていました。

IIサムエル 18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。

この最後の戦いは、エフライムの森で行われました。
アブシャロムの兵はダビデの兵よりも多かったのですが、経験で勝っているダビデ軍はアブシャロムの軍に圧勝しました。
アブシャロム軍が敗走して密林を駆け回る中、アブシャロムの乗った驢馬が樫の木の傍を通りかかると、アブシャロムの髪の毛が樫の木に引っ掛かってしまったのです。
皮肉な事ですが、アブシャロムの自慢だった長くて美しい髪が仇となって、木に引っ掛かってしまったのです。
アブシャロムが宙吊りになっている所を、ダビデ軍の将軍ヨアブが槍で突き、アブシャロムはその場で命を落としました。

ダビデにとって、その知らせは何よりも悲しい知らせでした。
知らせの者が走ってきて、アブシャロムの死を告げた時、ダビデはそこに思わずそこにくず折れてしまったのです。

IIサムエル 18:33 すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」

聖書全体を通しても、これほど感情を露わにした表現は他にあるでしょうか?
あまりに痛々しくて、思わず耳を覆ってしまいたくなるような悲しみが、そこにはありました。
ここでダビデが経験した心の痛みは、わたし達の想像を絶するほどのものだった事でしょう。

わたし達が、イエス様を救い主として信じることなく死んでしまった時、天のお父様であられる神様は、わたし達の死をこのようにして悲しむに違いありません。
「わが子よ。ああ、わが子よ。私がお前に代わって死ねばよかったのに。」
だから神様は、ひとり子であられるイエス様を犠牲にして、わたし達に愛を注いで下さったのです。
しかし、イエス様を失った痛みは、もちろんそれよりもましなものでは決してありません。

イエス様が十字架の上で苦しんでいた時、地上にどんな事が起ったか、皆さんはご存知でしょうか?

マタイ 27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

天のお父様は、愛するひとり子が苦しみ死んでいく様を見ている事ができず、その目を閉じられました。その時、全地が暗くなったのです。
そして神様ご自身が揺らいでしまったかのように、そこには大きな地震が起り、まるで神様の心が裂けたかのように岩は裂けました。
神様は、わたし達のためにこのような大きな犠牲を払って下さったお方なのです。

赦すべきだと聞いても、赦す事ができないのがわたし達です。
愛する事の大切さを理解しても、愛する事ができないのがわたし達です。
だからわたし達はクリスチャンになれない、神様に愛されないのではなく、だからこそわたし達は、神様の愛と赦しを心から必要としているのではないでしょうか。
わたし達が主の愛と赦しを受けるために、これほどの犠牲を払って下さったのですから。

みなさんが、神様の愛と赦しを心から受け取る事の出来ますように。
また、その愛を知って、皆さんがただ救われて終わりではなく、福音に生きるクリスチャンとして生まれ変わる事の出来ますように・・・。

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