IIサムエル記24:1-15 『 サムエル⑲~わたしたちの拠りどころ 』 2010/11/28 松田健太郎牧師

IIサムエル記 24:1~15
24:1 さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。
24:2 王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」
24:3 すると、ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」
24:4 しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。
24:5 彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、
24:6 それから、ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。
24:7 そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町々に行き、それからユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに来た。
24:8 こうして彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。
24:9 そして、ヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万、ユダの兵士は五十万人であった。
24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」
24:11 朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。
24:12 「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」
24:13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」
24:14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」
24:15 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。

今日でサムエル記からの話は終わりです。
とは言っても、ダビデの話は続きである列王記にも少しだけ続いて行くのですが、それは来年からのお楽しみにしたいと思います。

今日の個所は、本当はそれほど複雑な話ではないのですが、ユダヤ的な表現がされているためにわたし達には少しわかりにくくなっているんです。
そこで、今日は特に言葉のとらえ方に少し気をつけながら読み進んでいきたいと思います。

① 数へのこだわり
先日、神学校時代の友人と話していてこんな事を聞かれたんです。
「けんたろさんの教会って、何人くらいの人達が集まっているんですか?」
「その週によって違うけど、40人から50人くらいでしょうか。」
すると、「そんなにいるんですか? すごいですね~!」と言われたんですね。
日本の教会の平均出席者数は35人くらいですから、平均よりは上なのかもしれません。
でも、そんな会話の中で僕の中のプライドとかエゴがくすぐられるのを感じた瞬間でした。

わたし達は、自分の力や成果を、数値や比較の価値観の中で計ろうとする傾向があります。
どれだけ稼いでいるか?
どれくらい貯金があるか?
どのような地位にいるか。

時としてそれは、神様からの祝福を人間的な手段で計る誘惑にもなります。
教会員が何人いるか?
どんな立派な教会堂を持っているか?
聖書をどこまで、あるいは何回読めたか?
何人に伝道して、何人が洗礼を受けたか?

それは確かに祝福に違いありませんが、数や形にこだわり始めると本質を見失ってしまいます。
教会員の数を増やすことだけを求めて、人は多いけど心の通わない組織的な教会や、大きな教会堂を建てるために献金を無理強いする教会を神様は喜ぶでしょうか?

Iコリント 13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
と、聖書には書かれています。

愛というものは、数値で計る事ができません。
また、わたし達がどれだけイエス様に似たものとなったかという事も、わかりやすく比較する事ができません。
しかし、目に見えないものこそ大切な本質であり、目に見える部分は結果の一部でしかないのです。

② 自分の力に寄り頼む?
さて、当時イスラエルにはたくさんの問題があったようです。
具体的にどのようなものだったのかはわかりませんが、それはイスラエルの人々の中で起っていた罪によるものでした。
そこで、神様の怒りは燃え上がったのです。

しかし、ダビデはそれに対してどのような対処をするのでもなく、国民の数を数えさせる事を優先にしました。
ダビデもまた、目に見える数字に囚われてしまったのです。
わたし達も2か月前に国勢調査をしましたが、人口を調べること自体は罪ではありませんよね。
事実、民数記などでは神様の命令によってイスラエルの人口を数えている事もあります。
しかしダビデは、神様の命令によってではなく、自分のエゴとプライドを満たすために数を数えたかったのです。

歴史的に見ても、ダビデの功績が素晴らしいのは確かな事でした。
後にも先にも、イスラエルの12部族がひとつにまとまって国として成立したのは、ダビデとその次にソロモンの時代にしか起こらなかった事ですから。
年をとって体力が失われてくると、自信を取り戻すために自分の業績を計りたくなるものです。
ダビデの中にあったのは、そんな誘惑でした。

御言葉を見ると、まるで神様がダビデにそのように仕向けたように読めます。

24:1b 主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。

でもこれはユダヤ的表現のしかたであって、神様はそのダビデの性質を試みるために、誘惑を受けるままにされたというのが、ここで起っている事です。
しかし、この人口調査の問題はそれだけではありませんでした。
ダビデがどうして人口調査をしようと思ったかという、動機の部分にも問題があるのです。

ここで数えられていたのは、イスラエル全人口ではなく兵士として戦える人たちの数です。

24:9 そして、ヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万、ユダの兵士は五十万人であった。

兵力の強さによって、自分の力の強さを計ろうしていたのです。
そして、自分にはこれだけの強さがあるから大丈夫だと安心しようとしていたのです。

イスラエルの戦いは、いつも神様の戦いでした。
兵力が少なくとも神様が「戦え」と言った時には必ず勝利してきたのです。
ここでダビデが兵力の中に平安を持とうとする事は、神様への信頼より、目に見える自分の力を優先する事に他なりませんでした。
イスラエルが兵力に頼って戦いをした時には、むしろいつでも大変な敗北を経験していたのです。
ダビデは明らかに道を踏み外し、間違った方向に進み始めていました。

③ ダビデの悔い改め
兵力を数え終わって衝動的なエゴが満たされると、ダビデは自分のしていた事の間違いに気がつきます。
調子がいいと言えば調子がいいだけの話ではありますが、そこでちゃんと悔い改める事ができるのがダビデの良い所でもあるんです。

24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

それを聞いた神様は、預言者ガドを通してダビデにメッセージを伝えます。
そして飢饉、戦争での敗北、疫病という罰の内、どれを選ぶかとダビデに問うのです。
「なんだ、ダビデは悔い改めているのに神様は赦さないのか。」と思うかもしれませんが、そうではありません。
ダビデが悔い改めなければ、神様はただイスラエルを放っておく事もできたのです。
そうすれば、最初からイスラエルが抱えていた罪もありますから、イスラエルは勝手に滅んでいたかもしれません。
しかし、神様はダビデにこの選択をさせる事によってもう一度チャンスを与えたのです。

ダビデの選択によって、イスラエルを3日間の疫病が襲いました。
それは決して長い期間ではありませんでしたが、7万人の命が奪われることとなったのです。
3日間で7万人の犠牲者と言うのは、驚くほど大きな被害です。
しかしこの7万人とは、おそらく最初に神様の怒りを買った人々だったのではないでしょうか。

この聖書箇所と同じ話を違う視点で描いている歴代誌の中には、サムエル記には載っていないこのようなエピソードが残されています。

歴代誌 21:17 ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」

歴代誌には、ダビデのこの祈りに応えて、疫病の被害はこれでも最小のものに食い止められたと書かれているのです。

今、わたし達の教会は人も増えていて、新しく教会を開拓しようとしている時でもあります。
しかし、この様な時こそわたし達は気を引き締めないといけません。
成長と繁栄は素晴らしいものですが、そこに慢心してうぬぼれてしまうと、とんでもない破壊的な結果を招いてしまう事もあるのです。

バブルの時代の日本を経験している人は、繁栄がどのような悲劇を引き起こしたかを経験している方もいらっしゃるでしょう。
多くの教会も、繁栄の中で方向を見失い、スキャンダルや内部の問題が起ってなくなっていきました。

もしわたし達が道を踏み間違えて進み始めるなら、すぐにでも十字架に戻る必要があります。
わたし達の今の成功と繁栄も、神様の力なしにはあり得ない事を思い出さなければなりません。
十字架こそ、わたし達に自分の無力さを思い出させてくれるものです。
しかしその無力さは、わたし達が無価値だという事ではなく、その力と価値の全てが神様から来ているという事に他なりません。

その事をもう一度思い出し、これからのクリスマスに向かっていきたいと思います。

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