ルカ1:28-38 『 マリヤの従順 』 2010/12/05 松田健太郎牧師

ルカ1:28~38
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

僕は子供時代、学級委員に選ばれた事も、運動会のリレーの選手に選ばれた事も、ありませんでした。
学生時代、僕が選ばれたものとして一番すごい事は、中学3年生の文化祭の劇で、1月の神様の役に選ばれた事です。
この役は、主人公の次にセリフが多い役でした。
取り柄の少ない子供時代を過ごしていたので、何かに選ばれるという事は僕にとってすごく嬉しい体験でした。
この時に演劇が楽しくなってしまって、舞台役者になりたいと思ったくらいです。
皆さんは、どんなものに選ばれた経験があるでしょうか?

わたし達は何かのために人を選ぶ時、その分野において最も優れた人を選びます。
ある人は、美しさを認められてミス・ユニバースとして選ばれます。
ある人は、仕事やリーダーシップ、経営や運営能力を認められて、会社の社長や役員として選ばれます。
ある人は、映画で良い演技をした事を認められて、アカデミー賞に選ばれます。
ある人は、素晴らしい発見や研究をした事を認められて、ノーベル賞に選ばれます。

そのように、自分の能力を評価されて、人から何かに選ばれる事はとても嬉しい事です。
しかし、人から選ばれる事よりももっと大切な事があります。
それは、神様から選ばれるという事なのです。

① 神様は従う心を喜ばれる
先週の礼拝で、こどものお話の時間に少しふれた事ですが、イスラエルの人々は、長い間王の王、救い主キリストの誕生を待ち望んでいました。
そして、預言者イザヤの預言から700年も経ったとき、ひとりの少女がキリストの母として選ばれたのです。
彼女の名は、マリヤといいました。
彼女は、決して有名でも、お金持ちでも、天才でもありませんでした。
それなりに素晴らしい人だったかもしれませんが、もっと素晴らしい人もいたでしょう。
美しさという事に関しても、もっと美しい人はいたことでしょう。
素晴らしい母親というには、彼女には経験すらありませんでした。
マリヤは確かに素晴らしい信仰をもっていましたが、もっと素晴らしい信仰をもった人もいたかもしれません。
神様はひとりの、平凡な、どこにでもいるような少女に、キリストの母となる栄光を与えられたのです。

神様の選びとはこういうものです。
パウロは手紙の中でこの様に書き残していますね。

Iコリント 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

わたし達はすでに出来上がった素晴らしいものを選びますが、神様はまだ未熟で無に等しい者を選び、そこに力を注いで下さるお方なのです。
これと言って何ができるわけでもない、平凡なわたし達に神様が触れて下さる時、わたし達の人生が変わります。
神様がマリヤを選んだように、わたし達の事をも選ぶのです。

マリヤの前に御使いが現れる半年前、同じように御使いによって神様のメッセージを伝えられた人がいました。
マリヤの親戚である、祭司ザカリヤですね。
御使いが、使命をもった子供が授けられるとザカリヤに告げた時、彼はそれを信じる事ができませんでした。
「子供が授かるって、うちのかみさんを見て下さいよ。子供ができるような年齢ではありません。」
そんな思いが彼の中にはあったんですね。
疑いを持っていたザカリヤの口を、御使いは閉ざしました。
それから子供が生まれてくるまでの間、まるでミュートボタンを押されてしまったように、口を聞く事ができなくなったのです。

マリヤは、そうではありませんでした。
「わたしはまだ結婚もしていないのに、どのようにして子供を授かるのでしょう?」
「それは、聖霊によって与えられるのだよ。」
と答えを聞くと、マリヤはこう言ったのです。

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

マリヤは、ザカリヤのように「そんな事は生物学的にムリです。」と答える事もできたでしょうし、「これから結婚しようとしているのに、困ります。」と答えてもおかしくない状況でした。
「考えさせて下さい。」と時間をもらう事もしませんでした。
それはまるで、「神様が何かを命じたら、私は必ずそれに従おう」と最初から決めていたかのようです。
いや、まさに決めていたのだと思います。

わたし達が神様に用いられるために、もっとも重要な条件はこれです。
それは、わたし達が従う心を持っているという事。
神様が命じるなら、どんな事に対してでも「はい」と言える事です。
神様の言葉にはどんな事でも従うという心を持っていたなら、神様はそんな人を用いたいと思われるものなのです。

② 従順と同意
でも、マリヤの計画は別の所にあったはずですよね。
ヨセフが彼女にプロポーズをして、結婚する約束になっていたからです。
こんなタイミングで子供が授かってしまったら、その結婚は破談となるでしょう。
にもかかわらずマリヤは、御使いの言葉をそのまま素直に受け止めたのです。
神様に従うというのは、こういう事を言います。
神様に対して従順であるというのは、まさにこのような状況の事を指しているのです。

わたし達は多くの場合、「神様に従います。」と口では言いながらも、従う事柄を選り好みしているのではないかと思います。
そして、神様の言葉の一部にだけ忠実になって、自分は従っているつもりでいるのです。
しかし、従順と同意とはまた別のものなのです。

神様の命じる事を聞いて、それが「いいな」と思った時にその通りにするのは神様への“同意”とか“賛成”であって、“従順”ではありません。
わたし達の思いや計画と、神様の御心が違う時に、それでも神様の命令に忠実であることが従順なのです。

自分が好きな人にだけ優しくし、助け、愛情を注ぐ事が従順なのではなくて、神様が「愛しなさい。」と命じる時、愛しにくい人をそれでも愛するのが従順です。
自分から謝りたくない時に、「和解しなさい。」という神様の言葉に従って自分の側から謝るのが従順です。
今日は面倒くさいからやめようと思っている時に、「行きなさい。」という言葉に従ってアクションを起こす事が、神様に従順であるという事なのです。

だから、神様に従うという事は、恐らくわたし達が思っているよりずっと難しいことだったりします。
しかし、イエス様はこの様に約束して下さっているんですね。

ヨハネ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

わたし達が神様に用いられて、主の御業を見る機会がなかなか与えられないのは、わたし達が選り好みをしているからかもしれません。
神様に条件をつけ、「こうしてくれたら、私もします。」と言っていたのでは、わたし達が本当に神様の御業を目にする事はないでしょう。
状況が、自分にとって都合が良くても悪くても、どんな時でも従う事が、わたし達には求められているのです。
そんな、マリヤのような信仰を持った時、神様はわたし達を豊かに用いて下さるのです。
主と共に、光の中を歩もうではありませんか。

③ わたし達も選ばれている
神様が選んだのは、もちろんマリヤだけではありません。
ゼカリヤ、エリサベツ、ヨセフ、そして神様は、ここにいるわたし達ひとりひとりをも、目的をもって選んでいます。
わたし達は自分の選択によってクリスチャンになったと思っているかもしれませんが、実はそうではありません。
わたし達は、今クリスチャンとなるように、神様に選ばれた者なのです。
それにしても、何のために選んだのだと思いますか?

わたし達を救うために選んだのでしょうか?
確かにそうも言えるでしょうが、それだけではありませんね。
それだけだとしたら、神様はクリスチャンではない人達を選ばなかったという事になります。
しかし、神様は、全ての人を救うために選んでいると思います。
クリスチャンになる人も、ならない人の事も、神様は等しく愛しているのですから。
全ての人が救いのために選ばれているけれど、全ての人が救われるわけではない。
では、わたし達はどうすればいいのでしょうか?

そのように、救われるために選ばれているのに、まだ救いを受け取っていない人達に救いを伝える事が、わたし達の役割なのです。
わたし達が救われ、クリスチャンとして生きるために選ばれているのは、まだ救われていない人達を救いに導くためなのです。

全てのクリスチャンは町に出てトラクトを配り、訪問伝道をしなさいという事ですか?
そういう方法もあるとは思いますが、それは逆効果になる事が多いと僕は思います。
それに、全てのクリスチャンが、そのような個人伝道をできるというわけではありません。

それよりももっと素晴らしく、効果的な方法があります。
しかもこれは、聖書の時代からずっと行われている素晴らしい方法でもあります。
それは、わたし達自身が神様との関係を深く築き、神様によって変えられていくという事です。
神様の愛を受け、癒され、変えられていく中で、わたし達は神様への喜びに満ちます。
わたし達がそのような状態にある時、わたし達はどんなトレーニングも必要とせず、福音が自然に人々へと伝わっていくのです。

ある人は教会を愛に溢れた場所に変えてゆき、ある人は気楽に家族や友人を教会に招きます。
ある人は神様に与えられた魅力によって人を自然に引き付け、ある人は御言葉を解き明かします。
ひとりの人が全部をするのではなく、神様が必要に応じてわたし達を用いて下さるのです。
そこにあるすべてが福音を述べ伝えるためのものであり、しかし変なプレッシャーやいやらしさはありません。

では、どうやったらそんな風になれるのですか?
それは、わたし達が神様に対して従順になる事なのです。
「私はこんな人間だからできない。」のではなく、「神様の御心が、その通りに私の内に起りますように。」と祈る従順。
だって、そんな私でも神様が選んでくださったのだから間違いはないのです。
そもそも神様は、わたし達の力なんて頼りにはしていません。
力ないわたし達に神様が力を注いで下さる時、わたし達は神様によって、その御業の一部となる経験させていただくのです。
そのために必要なのが、“従順”なのです。
わたし達が従って足を踏み出すなら、後は神様がやってくださるのですから。

このクリスマス、わたし達が学びたい事のひとつは、マリヤの従順です。
わたし達にとって都合のよい事も、悪い事も、神様に信頼して素直に従う信仰です。
その信仰もまた、神様が与えて下さるものです。
わたし達が、ミス・ユニバースに選ばれるより、ノーベル平和賞に選ばれるより素晴らしい神様の選びに応えて、主に従順となる信仰が与えられますように。

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