マタイ21:28-32 『決意に勝るもの』 2011/01/02 松田健太郎牧師

マタイ21:28~32
21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

新年は新しい目標を立てるには最高の機会です。
皆さんは、2011年の抱負を決めましたか?
僕の目標は、もっと多くの皆さんと、もっと深く話す時間を持つという事です。
皆さんはどんな目標を立てて、どのような決意をしたでしょうか?

今日は2011年に入ってまだ2日目ですから、初めに決めた約束を破ってはいないだろうと思います。
あるいは、「今年こそやるぞ。」と思った事を始めてもいない段階かもしれません。
だからこそ、イエス様のこのたとえ話を一緒に見て行くのは良いんじゃないかなと思うんですね。
イエス様はこんな話をしています。

21:28b ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

兄は「やります。」と言ったけどやりませんでした。
弟は「やらない。」と言ったけど思い直してやりました。
もちろん、「やります。」と言って本当にやる事が一番なのでしょうが、返事だけ良くて実際には何もしないより、言葉はともかく最終的に行動に移せる方がいいという話です。

耳の痛い話ですね。
わたし達も、年の初めにはすごく良い目標を立てるのですが、行動が伴わないこの兄のようになってしまいがちです。
史上最高の知恵を持っていたとされるソロモンは、この様な人達について痛烈な言葉を残しています。

伝道者 5:3b ことばが多いと愚かな者の声となる。

言葉ばかりで愚か者の声とならないためにも、わたし達はこのスパイラルから抜け出さなければなりません。
そうでないと、また同じ事の繰り返しです。

「今年こそはダイエットしないとな。」「エクササイズするぞ!」
ダイエットについて考え、エクササイズをやりたいと願い、痩せた自分の姿を夢にまで見るんですが、「ダイエット始めたの?」と聞くと、「いや、明日からやろうと思って・・・。」
よくある話ですね。

ある人は、今年こそは聖書を全部通読するぞと決心します。
何もしないのではダメだ、今年こそ実行に移そうと思い、まずは気分を新たにするために新しい聖書を買ってくる。
いつでも読めるようにとその聖書をカバンの中に入れるのですが、結局1ページも開くことなく、重い聖書を毎日持ち歩いているので返ってこっちの方が痩せたりして・・・。

そして来年はどうするかと言うと、もう少し熱心に決意をするのです。
毎年決意だけは大きくなるのだけれど、でも実際には何もしない。
しかしそれでは、少しも脂肪を燃焼できないし、神様の言葉を聞く事は出来ません。
わたし達は決意で留まるではなく、その先に進まなければなりません。
言葉だけでなく、実行に移すことが必要なのです。

① 主よ、主よと言う者でなく
少し、このたとえ話の背景について見てみましょう。
今日のたとえ話で表されているお兄さんは、律法学者やパリサイ派のユダヤ人達の事です。
彼らは聖書の神様について人々に教えていましたし、その存在を信じてもいたんですね。
祈る時も、「主よ、主よ。」とその名を呼び求めていました。
しかし、イエス様はこの様にも言っていますね。

マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

神様の御心とは何かと言えば、イエス様を信じて救いを受け取る事です。

律法学者達は、聖書を自分勝手に解釈し、神様が命じている救い主を信じて救いを受けるという事に関しては全く無視してしまいました。
これは聖書全体を通して書かれている事であるにも関わらず、そしてバプテスマのヨハネがイエス様こそキリストである事を述べ伝えていたにもかかわらず、イエス様の事に関しては全く耳を貸そうともしなかったのです。
それを見たイエス様が、律法学者たちに語ったのが今日のたとえ話です。

大切なのは、「主よ、従います。」という言葉じゃない。
取税人や遊女たちは、たくさんの罪を犯し、律法学者たちのように宗教的な部分ではしっかりしていなかったかもしれないけれど、彼らは最終的には父なる神の命じている事に従った。
天の父の御心に適っているのは、言葉ばかり「信じている。」といって肝心な事には従わない者ではなく、その言葉に従う者たちだ、とイエス様は言っているのです。

律法学者たちは、どうしてイエス様の事を信じる事ができなかったのでしょうか?
それは、イエス様がキリストだと認めてしまう事は、自分の間違いを認める事になってしまうからです。
結局彼らは、聖書の言葉を選り好みし、自分たちにとって都合のいい部分しか信じようとしなかったのです。
でもこれは、他人事ではありませんね。
わたし達、誰もが犯してしまう罪のひとつです。

聖書には「神様がご自分の似姿(イメージ)にわたし達を創られた。」と書かれています。
しかしわたし達は、神様を自分のイメージに合わせようとしてしまうのです。
わたし達は、神様の言葉を耳にする時、自分の思いに合わせて、自分に都合の良い部分にだけ従おうとしてしまってはいないでしょうか?
このようにして、わたし達が自分にとって都合のいい部分だけを見ようとし続ける限り、わたし達がどれだけ決意を新たにしてもあまり変わらないのです。

② 真の自由のために
では、どうしたら決意を行動に移せるのでしょうか。
当たり前のことで申し訳ないのですが、実はそこに簡単な方法なんてないのです。
お酒を止めるにも、煙草を止めるにも、ダイエットするにしても、体を鍛えるにしても、聖書を全巻通読するにしても、楽な事ではありません。
もちろん神様が力を与えて下さるのは確かですが、例えばどれだけ熱心に祈ったとしても、よほどの例外を除いて、煙草を吸いたいという誘惑を神様が取り去る事はないでしょう。
どれだけ心から、「痩せる事ができますように。」と祈っても、神様は突然わたし達をセクシーな体にはしないのです。

神様にも不可能があるのですか?
もちろん、神様にはそうする事が可能でしょう。
でも、しないのです。
ああ、神様は意地悪なんだ!?
いえいえ、そうではなく、それはわたし達自身の成長のためなんです。
子供が嫌がるからと言って、歯を磨くのも、靴をはくのも全部親がやっていたら、子供はいつまでたっても自分ではできないままですよね。
わたし達は成長のために、新しい事を学び、それが嫌な事でもしなければならず、それが大変な事でも自分の力で努力しなければならない事があるのです。

救いに関してはそうではありません。
罪の赦し、救いという事に関しては100%神様がして下さる事なのですが、しかしわたし達の成長は、どうしても自分の力も必要になってきます。
でもそれは、がむしゃらなガンバリズムや、規律でがんじがらめになってしまう律法主義の世界とは全く違うんですよ。
わたし達はすぐに逆の方向に進み過ぎてしまうので、バランスに気をつけなければなりません。
ただ、社会の中でも教育に関しても、“自由”という事が間違った形で広がってしまっている現代では、この様な話もとても大切な事だと思うのです。

真理はわたし達を自由にするというのが、聖書に書かれている事です。
では、聖書に書かれている自由とは何なのか?
今2歳と3か月になる叙那は、ある意味では自由に振舞っています。
彼を束縛するものは何もないかのようです。
でも、彼が本当に思うままに振舞って僕たちが彼を自由にさせていたら、家の中はメチャクチャになってしまうでしょう。
このような自由は、聖書的な自由ではありません。
わたし達が思うままに、好き勝手をする事が自由ではないのです。
煙草を吸う自由の元に周りの人が迷惑を被ったり、言論の自由の元に人が傷つけられ、表現の自由の名によってポルノや非社会的な情報で汚染される社会は、正にこのような状態なのではないでしょうか?

真理がわたし達に与える自由を考える時、例えば楽器を習得する時の事を考えてみていただきたいのです。
僕が今、自由にピアノを弾いても、それは雑音であって音楽にはなりません。
楽器を弾けるようになるためには、正しいキーを正しい指で押さえ、たくさんの練習と努力が必要なのです。
その過程で、わたし達はとても不自由な体験をする事は疑いありません。
でも、その楽器を習得した時、わたし達は自由に、そして美しいメロディを奏でる事ができるようになるのです。

スポーツに関しても同じです。
サッカーのルールを覚え、ボールの扱い方を覚えるには大変な訓練が必要になります。
でもそれを習得して、ルールに従ったプレイをする時、わたし達は2歳児が家の中でボールを蹴飛ばしてガラスを割るのとは違う、サッカーというスポーツを自由に楽しむ事ができるようになるのです。

わたし達ひとりひとりが神様に整えられた時、そこには規律と自由が同時に存在する、争いの起こらない世界が生まれるのです。
これこそ、聖書の言う自由であり、天の御国であり、わたし達が必要としている自由なのではないでしょうか。

わたし達が新年に決意した事、新年でなくても信仰をもったわたし達が神様に従う決意をしたその決意の先にあるのは、わたし達が本当の自由に向かう道であるはずです。
わたし達が調和と喜びに満ちた自由を味わうためには、訓練をして努力をする期間を避ける事はできません。
しかし、それが本当に素晴らしい自由へと続く道だとわかっていれば、その道を歩む足も軽くなるのではないでしょうか?

③ わたし達が求めるべき決意
色々な抱負があり、色々な目標があっていいのだと思います。
でも、わたし達が最も求め、願うべきなのは、わたし達がよりイエス様に似たものとなるようにという事ではないでしょうか。
皆さんが今年の目標として掲げた決意も、大なり小なり、よりイエス様に近い者となるための一歩なのではないかなと思います。

そして、わたし達がよりキリストに似た者となる歩みに足を踏み入れた時に気がつくのは、その険しく大変な道のりを、神様は決してひとりでは行かせない方だという事です。
その道のりが楽な道でない事は確かです。
でも、自分の力では決して不可能だと思えるような道を、わたし達は神様の助けによって進んでいくことができるのだという事をわたし達は体験するのです。
わたし達をキリストに近づけ、完成に導くのはわたし達自身の力ではなく、神様ご自身だからです。

エペソ 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

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