I列王記19:1-12 『⑧かすかな細い声』 2011/02/27 松田健太郎牧師

I列王記19:1~12
19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。
19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。
19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。
19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。
19:10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

早速先週までの事を復習しましょう。
神様に選ばれた国であるイスラエルは、ソロモンの罪によって北イスラエルとユダというふたつの王国に分裂しました。
その北イスラエルに、アハブという史上最悪の王が就任しました。
アハブは異国の王女イゼベルと結婚し、神に仕える人々を迫害して殺し、バアルとアシェラという偶像の神々をイスラエルに広めたのです。
神の祭司として選ばれたはずのイスラエルは、神殿娼婦があふれ、赤ん坊が生贄として捧げられる邪悪な信仰に乗っ取られてしまったのです。

そこに預言者として神様に送られたのが、エリヤでした。
エリヤが祈ると、雨は3年近くの間降る事がなく、イスラエルには大干ばつが訪れました。
また、真の神が誰なのかを証明するために450人のバアル預言者達と対決しました。
エリヤが呼び求めると神様は祭壇に火を下らせ、水が注がれた生贄は焼き尽くされました。
そしてエリヤが祈ると、イスラエルには再び雨が戻ってきたのです。

この様な話だけ聞いていると、エリヤはすごい奇跡を起こす事ができて、どんなにすごい人なのだろうと思えてきます。
イエス様の奇跡を目にして、エリヤの再来だと思った人達もいたわけですから、ある意味では神の子であるイエス様に匹敵する力があるのではないかという事にもなるわけです。
しかし聖書には、「エリヤはわたし達と同じような人だった(ヤコブ5:17)」と書かれています。
今日の個所では、そのようなエリヤの普通の人としての部分も見て行きましょう。

① 逃げ出したエリヤ
さて、450人のバアルの預言者達はエリヤとの対決に敗れ、アハブは城に逃げ帰って行きました。
そこでアハブが何をしたかと言うと、エリヤの事を妻のイゼベルに言いつけたんです。
一国の王たるアハブが奥さんに言いつけるって情けない事ですが、イゼベルはバアル信仰の宣教師であり、指導者でもありました。
そしてアハブの報告を聞いたイゼベルは、エリヤに対して復讐の炎を燃やしたのです。

19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

それを知ったエリヤは縮みあがりました。
そして、一目散にその場を逃げ出したのです。
ついさっきまで、ものすごい奇跡が起り、すごい信仰をもっているはずのエリヤが、イゼベルの言葉におびえて逃げ出してしまったんですよ。
そして全てを放ったらかして身を隠し、神様の前で「いっそ殺して下さい。」とメソメソ泣き始めたのです。

あんなに堂々として、素晴らしい信仰をもっていたエリヤに一体何が起ったのでしょう。
しかし、何となくこのエリヤの気持ちが、僕には少しわかるような気がするのです。
エリヤは神様の御名によって祈り、エリヤを通して神様の御業がたくさん起ったわけですが、ご存じのとおりそれをしたのは全て神様の力です。
エリヤがやったわけではありません。
しかしイゼベルの怒りは、エリヤに対して燃え上がるわけですね。
その時ふいに、神様の御業の重荷がエリヤの上にどっしりと圧し掛かってきたのではないかと思うのです。

僕自身も、時としてそういう事を経験する事があります。
わたし達の内に聖霊が働き、語りかけて下さるのでメッセージや聖書の言葉に心を触れられたりするのですが、「けんたろ先生のメッセージ、素晴らしかったです。」とか言われると、それが自分の力であるかのように勘違いしてしまう事があるんですね。
そうすると、「次も素晴らしいメッセージにしないと」なんていう余計な事を考えて、そのプレッシャーがどんどん大きくなっていくのです。

あるいは、祈りに応えて必要を満たして下さるのは神様なのですが、祈りの課題をもらった時に「この祈りがきかれなかったらどうしよう?この人は信仰をうしなってしまうんじゃないだろうか?」なんてやはり余計な事を考えてしまったりするわけです。

わたし達は、神様の重荷を背負う事はできません。
それをしてしまった途端、わたし達はあっという間につぶれてしまうのです。
エリヤは、イゼベルの怒りもそのまま自分のものとして受け取ってしまい、恐ろしくなったのです。
ただでさえ、バアルの預言者たちとの戦いの直後です。
エリヤの緊張は一気に限界を振り切って、だからエリヤは、思わずその場から逃げ出してしまったんですね。

わたし達は人間なので限度があるのですから、神様が担っている責任を背負うなどと言う事は最初から無茶な話です。
しかし気をつけないと、わたし達は簡単にこの状況に陥ってしまいます。
特に、クリスチャンでない人の中で自分ひとりがクリスチャンだった時、わたし達は自分がキリスト教のすべてを背負っているかのような錯覚に陥ってしまいがちです。
そこにキリスト教の悪口でも聞こうものなら、わたし達はたちまちクリスチャンの代表としてそこに立たされているような気になってきます。
しかしそうすると、この時のエリヤのようにガク―ンと堕ちて、「自分はダメだぁ。命を取り去って下さい。」という事にもなってしまうのです。
わたし達はいつでも自分自身に、神様の領域を抱え込もうとしないという事を言い聞かせる必要があるのかもしれませんね。

② 慰め主
さて、イゼベルから逃げ出して、エリヤは神様の御元に身を隠しました。
以前にも、エリヤはアハブ王やイゼベルから身を隠していた期間がありましたね。
その時は神様の命令によって身を隠していたのです。
しかし今回は、自分の意思で、というか恐れによって逃げ出してきてしまったわけです。

もともと、神様がエリヤに与えていたチャレンジは、バアルの預言者450人とアシェラ野預言者400人そして、親玉であるイゼベルとの対決であったのではないかと思います。
確かにエリヤは勝利を手にしたのですが、それはバアルの預言者450人だけです。
まだアシェラの預言者とイゼベルが残っています。
それなのに、彼は逃げてきてしまったわけですよね。
そんな時に神様は、どうされるのだと思いますか?

わたし達が想像してしまうのは、神様がエリヤをしかりつけるのではないかと言う事です。
「何を恐れているのか? わたしがあれほどその力を示したではないか。今すぐ立ってイゼベルの元に行きなさい!」
働きの最中に挫けてしまう人達に向かって、わたし達はこのような厳しい言葉を向けてしまったりもしますよね。
「神様がついているのに恐れるなんて、情けない。信仰が足りないんじゃないか? そんなのは祈ってれば解決するんだ。」
しかし、この時の神様の反応は、それとは全く違うものでした。

神様は、「死なせて下さい。」と頼むエリヤには何も答えず、ただエリヤが眠るままにさせました。
そしてエリヤのために御使いを送り、食べ物と水を与えました。
そしてエリヤは再び横になり、また起きると食べ物と水が与えられました。
その後、エリヤは御使いの導きによって40日40夜歩き続け、神の山と呼ばれるホレブ山に導かれました。
その間食べ物と水と睡眠はずっと備えられていて、エリヤは余計な事を考える必要もなく、少しずつ平安を取り戻していったのです。

皆さんの中で、失敗したり、うまくいかなったりして落ち込んでいる方はいらっしゃるでしょうか?
わたし達が生きている社会では、時として失敗が許されないという事もあります。
しかし、神様は赦して下さるお方です。
そしてただ赦すというだけでなく、落ち込んだわたし達の来ことを慰め、励まし、立て直して下さるお方なのだという事を、覚えておいていただきたいのです。

③ かすかな細い声
落ち着きを取り戻したエリヤに対して、神様はひとつの現象を見せました。

19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

何でしょうか、これは?
これはどういう事なのでしょうか?
実はこれを見せられたエリヤも、すぐにはこの意味を理解しなかったんですね。
しかし、神様が言いたかったのは、こういう事だと思います。

エリヤは、激しい大風が山々を先、岩々を砕くのを目にしました。
その後に地震が起り、火が燃え上がるのをエリヤは目にしました。
わたし達が神様に期待するのは、こういう派手で大きな奇跡です。
病気が急速に回復し、問題が劇的に解決するような、何かすごい事を神様はして下さるはずだ、嫌そうでなければ神様ではないとわたし達は決めつけてしまっているのです。

そういう派手な奇跡も、もちろん神様はなさいます。
事実、エリヤは神様が3年間雨を止め、火を降らして水浸しになった生贄を焼き尽くし、降らなかった雨を再び降らせるという経験をしました。
しかし、神様は派手な出来事の中だけにいらっしゃるのではないのです。
神様の御業は時としてかすかな細い声のように、地味で、わかりにくく、はっきりしない形で現れます。
そして時間をかけて、ゆっくりと解決に導き、わたし達を変えていって下さるのです。

その出来事の後、エリヤが苦しんでいる問題を解決するために、神様はこのような指示を与えました。
I列王記 19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。

19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」

エリヤは、これ以上直接には問題と関わることすらなく、また派手な奇跡によって解決していくのではなく、政治的な方法によって、あるいは間接的な方法によって問題は解決されていくのです。

わたし達は問題の中で神様に助けを求める時、神様の明確な答えを見いだせない事もあるかもしれません。
問題が解決していくようにはちっとも思えず、神様は何をしているんだろうと思う事さえあるでしょう。
しかし焦らず、この事を思い出していただきたいのです。
神様はわたし達を愛し、痛みを理解し、救って下さるお方だという事。
何か派手な奇跡を期待するわたし達には、細い声のように地味で目立たない主の働きを見失ってしまうかもしれないけれど、それでも神様には期待し続ける事ができという事です。

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