II列王記4:1-7 『からの器をもってきなさい』 2011/04/10 松田健太郎牧師

II列王記4:1~7
4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。
4:4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

列王記のシリーズは、先週から預言者エリシャの話に入りました。
エリシャは、史上最高の預言者とされるエリヤの弟子であり、エリヤの後継者です。
しかし、こうして改めて列王記を読んで思うのは、奇跡の記述という事に関しては、エリヤよりも圧倒的にエリシャの方が多いんですね。

しかし、それでもエリヤの方が重要だと言われるのには理由があります。
何が違うのかと言えば、エリヤは最悪の王であるアハブに対して遣わされ、イスラエル全体が神様に立ち返るかどうかという部分に関わっていたという事です。
一方でエリシャは、奇跡の数は多いのですが、そのほとんどは個人的な問題との関わりでした。

しかし、聖書に載せられているからには、もちろん重要でない訳ではないですね。
今日はたくさんあるエリシャの奇跡の話の中から、特に一つを取り上げて共に学んでいきたいと思います。

① ないものではなく、あるものを見る
さて、預言者の仲間のひとりが妻とこどもたちを残して死にました。
しかしその預言者は、後に大きな借金を残して死んでしまったんですね。
残された家族は経済的に厳しい状況に置かれました。
やがて借金取りが家に来て、このままではこども達が奴隷にされてしまう。
そこで残された預言者の妻は、リーダーであるエリシャの元に来てその事を訴えたのです。

4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

あれほど信仰があつく、忠実に神様に仕えていましたのに、どうしてこのようなことになるのでしょうか?
という響きもあるように思います。
しかし、敬虔なクリスチャンは癌になりませんか?
信仰深いクリスチャンには、不幸な事が起りませんか?
そんな事はありません。
ましてや、神様を恐れているから借金がチャラになるなんて事があるはずもありません。
そんな事は奥さんも分かっているんです。
しかし、そのようにつぶやきたくもなる、誰かにこの思いを聞いてほしいという気持ちもよくわかります。

その訴えを聞きながら、やがてエリシャはこの様に言いました。
「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」
すると女性は、「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」と答えました。
それは、「つぼがあります。」という積極的な答えではありません。
「家に食べ物は何もありません。冷蔵庫を開けたってそばつゆとマヨネーズくらいしか入ってないですよ。」というようなもので、それくらい何もないんだという事が言いたいわけです。
しかし、神様の恵みの視点から見るとそうではありません。
「油のつぼひとつしかありません。」の“油のつぼひとつがある”という事が大切な事なのです。

荒野で5000人の人達が空腹になった時、イエス様は弟子たちに食べ物を与えるよう命じました。
そんなのムリですと答える弟子たちの中で、少年が差し出した5つのパンと2匹の魚を祝福して分けた時、それは5000人の人達のお腹を満たしました。
わたし達はつい“何がない”という部分を見てしまうのですがそうではなく“油つぼがある。”、“5つのパンと2匹の魚がある”という事が大切な事なのです。

エリシャは近所の人達から空の器を借りてくるように命じ、油をその器に注ぐと、器はみるみる油で満たされて行きました。
そしてたったひとつぼの油は、空の器がなくなるまでいくらでも注がれて、その油を売る事によってその家族は借金を返す事ができたのです。
ここには空の器がいくつあったかとは書かれていませんが、その油を売れば借金を返済できるほど膨大な量の油が出てきたのでしょうね。

わたし達も、このやもめのように、“ない”という事に目を向けてしまいがちです。
自分には、神様に捧げられるものなんて何もない。
自分には神様に遣えるための賜物がない。
自分には愛されるに足る良い部分が何もない。
そうしてないものに目を向けていると、わたし達の心はどんどん落ち込んでいきます。
でもわたし達は“ある”ものに目を向けましょう、という事が今日の一つ目のポイントです。
わたし達が持っているものは、確かに小さなものかもしれないけれど、それを主の前に捧げる時、それは十分なだけ主が増やしていただけるから大丈夫なのです。

② 空の器は満たされる
この話からわたし達が学ぶ事ができる2つ目のポイントは、空の器を満たすのは神様だという事です。
空の器が何を意味しているのか、人によってそこから受け取るメッセージは違うだろうと思います。

実は多くの牧師が、この聖書箇所を通して神様に語られて教会を始めています。
ある牧師は、空っぽの教会堂に人を満たすという神様の約束を聞きました。
ある牧師は、この世の価値観の中で行き詰まり、大きな必要を持っている空の器たる人達に、聖霊の油を満たして下さるという神様の声を聞きました。
町田にあるホライズン・チャペルの平野先生は、人だけでなくあらゆるニーズや教会の働きも器として神様の前に持って行き、それを満たしていただいたと話しています。
どんなものでも主の前に持って行くなら、それが全て祝福されたと言います。

いずれの場合にも、空の器を満たすのは神様です。
もしそれを自分の努力だけで満たそうとしていたら、その牧師達は失敗していた事でしょう。
信仰をもって、空の器を神様の御前に持って行くという事が、わたし達に求められている事なのです。
そして、神様の約束を信じて空の器を神様の元に持って行く時、神様は空の器を必ず満たして下さるのです。

ある人は、空の器とは、空っぽの心の事を表していると感じました。
わたし達は、心の器を色々なもので満たそうとします。
職業や、学歴や、財産や、趣味や、異性や、快楽では、わたし達の器を満たす事はできず、もっと多くを望み続ける事になります。
また、伝統や、宗教的な儀式がわたし達を満たす事もできません。
わたし達がその空っぽになった自分自身を神様の元に持ってくる時、神様はわたし達の心を聖霊の油によって満たして下さるのです。

皆さんが満たしてもらわなければならないのは、どの器でしょうか?
エリシャはこう言っています。
「からの器をもってきなさい。ひとつやふたつではいけません。」
わたし達の問題のひとつは、神様に委ねる領域を制限してしまう事です。
教会の事や心の事だけでなく、わたし達の個人的な悩みや、経済的な必要、どんな器も神様の前に持ってくる必要があります。
わたし達は自分の周りから空の器がなくなるまで、全ての器を神様の前に持ってくる必要があるのです。

自分自身で器を満たそうとしても、それはできるものではありません。
しかしわたし達が神様に信頼し、空の器をもってくるなら、神様はわたし達の必要を必ず満たして下さるお方なのです。

③ 空でなければならない
さて、この話からわたし達が学ぶ事ができる3つめの事は、わたし達が神様の元に持って行く器は、空の器でなければならないという事です。
先ほど“ない”ものではなく“ある”ものに目を向けようという話をしたばかりですが、それとはまったく別の話です。

器の中に水が入っていたら、そこに油を入れる事はできません。
それが水ではなく、醤油であろうと小麦粉であろうと同じ事です。
油を入れるのは、空の器でなければならないのです。
そして同じように、わたし達が神様に満たしていただくためには、わたし達は空の器でなければなりません。

わたし達は、余計な理屈や、プライドや、自己主張によって自分自身を満たしてしまってはいないでしょうか。
余計なものが入っていると、神様はわたし達に教える事ができないし、変える事もできません。
神様がどれだけ与えようとしても、わたし達がそれを受け取るキャパシティがないのです。

先ほども言いましたが、わたし達は自分たちの器を何かで満たそうとしています。
器が空だと不安だからです。
そうしてある程度器が満たされていると、わたし達はそれだけで満足してしまいます。
自分にはこういうものがあるから大丈夫だと思うのです。
しかし、わたし達の心を余計な者が中途半端に満たしてしまっているため、神様の油が注がれる余地がありません。

有名な、イエス様の山上の説教の中にこの様な言葉があります。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

何度かお話しした事がある事ですが、この“心の貧しい人”というのは、優しさが足りない人とか、ケチだとか、芸術が理解できない人とかそういう意味ではなくて、霊において貧しい者という意味の言葉です。
わたし達は、どんなに良い行いをしているつもりでも、どんなに悪い行いから離れていたとしても、どれだけ宗教的な行事を重ねたとしても、神様の前では無に等しい存在である。
その事を理解している人の事を、“心の貧しい者”と聖書では呼んでいるのです。

自分が神様の前に貧しいものであるという事を理解してれば、わたし達の器は自ずと空になります。
中途半端なもので満たす事が無意味な事だとわかっているからです。
わたし達は、神様に満たしていただかなければならない。
わたし達は、根本的に神様に変えていただかなければならない。
わたし達は、全ての事を神様に教えていただかなければならない。

そのようにして、わたし達が空の器として神様の御前に出るなら、神様は必ずわたし達を聖霊で満たして下さるはずです。
主はわたし達に言われます。「空の器をもってきなさい。」と。
わたし達ひとりひとりが、空の器となって主の御前に油を注がれる事ができますように、心から祈ります。

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