ローマ6:4 『新しい命に生きる』 2011/04/24 松田健太郎牧師

ローマ 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

今日はイースターです。
イースターは、イエス様が十字架の上で死んで葬られた3日後に、蘇った事を祝うお祭りの日です。
蘇ったと言っても、ゾンビのようにただ生き返ったのではありません。
イエス様の奇跡によって、これまでも蘇った人たちもいたんです。
会堂管理人のヤイロという人の娘が蘇ったし、イエス様の友人であったラザロが蘇った話もわたし達はよく知っていますよね。
しかし彼らが現代にも生きているかと言えば、そんな事はありませんね。
彼らは、その後に何年か生きて、また死んだのです。
でも、イエス様はそうではありません。
イエス様の復活は、二度と死ぬことがない霊的な復活です。
罪の呪いである死から完全に解放されて、永遠の命を持っている状態です。

「すごいなイエス様、さすが神の子だなぁ。」と感心している場合ではありません。
これはまったく他人事ではないのです。
それは、聖書にこの様に書かれているからです。

ローマ 6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

イエス様は、「わたしが命であり、蘇りです。」と言いました。
わたし達が神様から離れていたという罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架によって罪が贖われたことを信じてバプテスマを受けるなら、わたし達はイエス様の復活と同じようにされ、永遠の命を得ることができると約束しているのです。
だからイエス様の復活は、わたし達クリスチャンにとってクリスマス以上に祝うべき、素晴らしい知らせなのです。

そんな永遠の命も素晴らしい事なのですが、それはイエス様がもう一度地上に来られるまではお預けです。
それよりも今日は、今すでに受ける事ができる新しい命についてお話ししたいと思います。
信仰によって与えられた新しい命の歩みは、わたし達が天国でだけ味わえるものではなくて、地上にいる間からすでに味わえるものであるはずだからです。

① 新しくなった!
聖書には、この様に書かれているんです。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

これまでのわたし達は、自分ではそのようなつもりはなくても、罪の奴隷となって罪の結果である悲劇を味わいつづけるような人生を送っていました。
しかし今、わたし達は新しくなり、罪の束縛から解放されました。

かつてのわたし達は、いつも愛に飢え、乾き、人から愛を受けるために必死に生きなければなりませんでした。
しかし今、わたし達は新しくなり、行いをではなくわたし達の存在そのものを愛してくださる神様の深い愛の中に生きる者となりました。

かつてのわたし達は、神様に従おうとしてもどうしたらいいかわからず、ただ表面的に良い行いをして自尊心を得る、律法的な信仰でした。
しかし今、わたし達は新しくなり、聖霊の力を借り、主の導きに従って行動する喜びにあふれた信仰となりました。

でも、実際にはクリスチャンになったって何も変わっていないじゃないかと思うかもしれません。
でも、聖書はわたし達に「新しくなりなさい」と教えているのではないですよね?
「あなた達はもう新しくなったのだ」と断定しているのです。

問題なのは、わたし達が本当に新しくなったと気づいていなかったり、信じていないという事です。
わたし達は新しくされたにも関わらず、未だに古い自分であると考え、古い自分として生きようとしています。
でもそれはまるで、毛虫が蝶々に変わったにも関わらず、それでも毛虫のように振る舞い、はいずって生きようとしているようではないでしょうか。
わたし達は相変わらず罪の中に留まり続け、愛されている事を受け入れる事ができず、自分の判断と努力によって正しい行いをまっとうしようとし続けているんですよね。

② 実感がともなわない
わたし達の教会は、クロスロード・インターナショナル葛西教会という名でこの場所にありますが、3年前までは西葛西国際キリスト教会という全然違う名前で、隣の駅である西葛西駅にありました。
人数が増えて、それまでの場所に入りきらなくなったので、2008年の11月に今の場所に引っ越したんです。
ところが、お知らせがちゃんと息届かなかったために、古い建物の方に行って驚いたという方がいました。
「教会がなくなってしまった。」と心配もされたでしょうから、申し訳ない事をしてしまったものだと思います。
しかしその出来事は、わたし達は新しくなったことを知らなければ、また気づいていなければ、やはり古い方に行ってしまうという事を改めて考えさせてくれました。

しかしですね、これがもし、引っ越ししますとお知らせして、新しい場所もちゃんと伝えているにも関わらず、その知らせが信じられなくて古い方に行ったとしたらどうでしょうか。
僕はどれだけ信用されていないんだという話ですよね?
まぁ、思い当たる節もないわけではありませんが。(笑)
とは言え、「教会が引っ越したという実感が持てないから、私は教会が新しくなった何て事は信じられない。」と言うのは、ちょっとおかしな話です。

しかしわたし達は、それと同じ事をしてしまっているのではないでしょうか?
神様は、「あなた達は新しくなった!」と言っているのです。
でも、わたし達がそれを自分の事として信じる事ができていない。
何度そのように言われたって、古い自分は死んで新しくされたなんて信じられない。
そんな事があるはずがない。

イエス様が復活した事を聞いた弟子たちも、最初はそれを信じる事ができませんでした。

ルカ 24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

「イエス様が復活しました。」という女たちの知らせを耳にしても、彼らはたわごとと考えて信じることができなかったのです。
わたし達も、イエス様の復活と同じように新しい復活の命を得たのだ、今わたし達は新しくされたという事を聞いても、どこかでそれをたわごとと考えて、信用していないのではないでしょうか?
そしてわたし達は新しくされたにも関わらず、相変わらず古い自分の習慣を引きずって、古い自分として生き続けているのです。

③ 解放を味わう
このような実験があります。
最近はすっかり見なくなりましたが、蚤という昆虫がいます。
蚤という昆虫の跳躍力は凄まじくて、もし蚤が人間くらいの大きさだったら、富士山よりも高く跳べるほどジャンプ力があるのだそうです。

さて、その蚤をつかまえて、それをコップの中に入れ、透明の蓋をします。
そうすると蚤は、コップの中から出ようとして何度も跳びますが、蓋にぶつかって出ることはできません。
そうして、2~3日コップの中に入れておくと、やがて蚤は蓋にぶつからないように、コップの高さまでしか飛び跳ねないようになります。
その時になって蓋をはずすと、どうなると思いますか?
蚤は、蓋をはずしてもコップの高さまでしか飛び跳ねず、コップから出なくなってしまうのです。

今のわたし達も、これと同じ状態なのかもしれませんね。
わたし達はこれまでの人生を、この世界での価値観の中で生きてきました。
わたし達はあたかも蓋がされたように、罪と死と絶望という器の中に閉じ込められてきたのです。
やがてわたし達はイエス様と出会い、新しくされて、解放されました。
でも、わたし達はこれまでの人生を、蓋をされた中で生きてきたので、蓋が外されて自由になっても、大きく飛び跳ねることができないでいるのです。
ポテンシャルは無限にあるのに、自分にはムリだという思いこみや、新しくされたんだという信仰が足りないために、今までと何も変わらないのです。

高く跳べなかった蚤も、しばらくすれば少しずつ高く跳べるようになっていきます。
わたし達も、少しずつではあっても、高く飛び上がれるようになっていく事ができるはずです。
最初はイエス様の復活などたわごとだと思って、信じる事ができなかった弟子たちは、その後どうしたでしょうか?
彼らの前にイエス様は現れ、彼らが復活したイエス様と実際に顔を合わせることによって、弟子たちはイエス様の復活が本当だということを体験していったのです。

わたし達はまず、神様の愛を体験することです。
御言葉によく耳を傾け、主とたくさん語り合い、同じ罪を繰り返すわたし達を何度でも赦してくださる愛を経験して、主との精神的な距離をますます狭めていくということです。
全ての判断を主にたずね、すべての行動を主にゆだねる事です。
成果や目に見える結果を見るのではなく、その出来事を通して主が何をしようとしているのか、主の視点で物事を見てみることです。
そして、例え神様の御心がわからなくても、主に信頼して力を抜くことです。

目を凝らしてみれば、全ての出来事の中に主のお働きを見る事ができます。
それを通して、自分がいかに護られ、助けられ、鍛えられ、引き上げられているかを実感して、主の愛を確かめていくことではないでしょうか。

わたし達に与えられている祝福が、わたし達の良い行いや、霊的な成熟からくるのではなく、全てただ主の恵みなのだという事をひとつずつ実感していくとき、わたし達の中には力があふれます。
わたし達は、その力の源である愛によって主に従う者となるのです。

わたし達に必要なのは、その神様を信じる心です。
わたし達の内には、キリストが生きている。
わたし達には、新しい命が与えられている。
イエス様が復活したこのイースターの日に、この復活の人生を歩み始めてみませんか。

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