II列王記5:1-14 『あなたの罪を癒す福音』 2011/05/01 松田健太郎牧師

II列王記5:1~14
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

あれ? この聖書箇所前にも読んだんじゃないかと思った方もいたと思います。
間違いではありません。
先々週も、この個所からお話ししたのですが、僕の中で何だか不完全燃焼で、この個所から語るべき事がまだあるような気がして仕方がありませんでした。
そこで今日は、もう一度ここからお話しする事にします。
同じ聖書箇所ですが、前回とはまた違った視点からこの個所を読み解いていきたいと思うんです。

① 罪という病
このアラムの将軍、ナアマンの物語は、彼がらい病(ツァラアト)という病にかかっている事に気づく所から始まります。
ここでらい病とされている言葉は、現代のわたし達が定義しているらい病ではなく、新しい聖書では“ツァラアト”と原文のままの言葉が使われているという事を、前回お話ししました。
結局このツァラアトという病気が何なのかという事はわからないのですが、この病気が象徴し、表しているものがあります。
それは、“わたし達の罪の結果”です。
だから、この病にかかった人は、穢れた者として扱われました。
そしてこの病は、罪というものが人生に必ず害を与え、痛みを与えるものだという事を教えています。

ナアマンは、将軍というとても地位の高いセレブでした。
それだけではなく、王様からも重く扱われ、国民からも国の勇士として皆に尊敬されていたのです。
しかし、病はそんな事にお構いなく、それがどのような人であろうと関係なしに訪れます。
そしてその病は、それまでの素晴らしいものを全て台無しにしてしまうのです。
人がどれだけ成功を収めても、どれだけ人から愛され、尊敬されていたとしても、これまで幸福な人生を送っていても、罪はわたし達の人生を損ね、痛みを与えるものなのです。

そして罪という病は、誰にもどうしようもないものだという事も表しています。
どんなに能力を持っていて、地位のある人であっても、罪という病は誰にもどうする事もできないものなのです。
アラムの王様は、イスラエルの王に宛てて「ナアマンの病を治してくれ。」と手紙を書きましたが、それを受け取ったイスラエルの王様は、そんな不可能な事を頼んでくるなんて、何か言いがかりをつけているのだというって怒るのです。

5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

罪という病は、人にはどうする事もできません。
どんな医者にも治す事は出来ず、世界の富と権力を持った人にも取り去る事はできません。
それを癒す事ができるのは、ただ神様だけなのです。

② 福音の種は、小さな者によって蒔かれる
この物語から学ぶ事ができる2番目の真実は、福音の種は小さな者によって蒔かれるという事です。
地位や権力、富や名声を持つ、この世の中で重要だとされている人達は、誰も病を癒す方法を知りませんでした。
ナアマンの病をいやす手掛かりを伝えたのは、ナアマンの妻に仕えていた、奴隷の少女だったのです。

神様の方法はいつもこうです。
本当に素晴らしい、決定的なものはこの世の有名な人、偉い人、賢い人によってもたらされるのではなく、小さくて愚かだとされている人達からもたらされるものなのです。
聖書には、祝福はいつでも小さな者に与えられ、素晴らしいものは小さな者から来る事を繰り返し教えています。

神様が神に選ばれた民イスラエルの先祖として選んだのは、アブラムという全く無名の商人でした。
兄弟に疎んじられ、奴隷として売られたヨセフは、やがてエジプトの大臣となって兄弟達を救う事になりました。
父からも存在を忘れられていた少年ダビデは、ゴリヤテという巨人を倒し、やがてイスラエルの王となりました。
救い主イエスは、どこかの国王や賢者の子ではなく、ナザレという小さな町の大工の息子として生まれました。
それはイスラエルという小さな国の、主とエルサレムではなくベツレヘムという小さな町で。
メシヤ誕生の知らせを真っ先に教えられたのは、人々から疎んじられていた羊飼いたちでした。
彼らが発見した人類の救い主は、汚い家畜小屋の飼い葉おけに寝かされた赤ん坊という、この世で最も小さい存在だったのです。

日本という国にあって、わたし達クリスチャンは圧倒的な少数派であり、教会は本当に小さな存在です。
クリスチャンという存在は、決して重要な存在とされるわけではなく、多くの人はわたし達の言葉を聞こうとすらしません。
しかし、そのようなわたし達を用いて、この世界を変えるのが神様のご計画なのです。
それは、そこにわたし達自身の力ではなく、神様の御業が及ぶためです。

聖書にはこう書かれています。

Iコリント1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

③ 人は福音を嫌う
ナアマンの物語から学ぶ事ができる第三の事は、人は福音を嫌うものだという事です。
ツァラアトを癒してもらうためにエリシャを訪れたナアマンは、エリシャに失望し、怒りを露わにしました。
それは、エリシャが提示した癒しの方法が、彼の想像とはあまりにかけ離れたものだったからです。

第一に、福音は人を地位や賢さによってひいきしません。
ナアマンは一国の将軍でした。
彼は丁重にもてなされ、最善の治療がされる事と期待していましたが、エリシャはナアマンを出迎えもせず、癒しの方法も「ヨルダン川で7度体を洗いなさい。」というそっけないものでした。
福音もまた、相手を選びません。
皆さんがどのような地位があろうと、お金もちであろうと、良い行いをしてこようと、賢くて知識を持っていたとしても、救いを受け取る方法は同じです。
それは、自分が罪びとである事を認め、イエス様が十字架で流したその血によってわたし達の罪はきよめられ、赦されたのだという事を受け取り、信じる事です。
逆に言えばそれは、皆さんが奴隷であっても、どれだけ貧しくても、どれだけ大きな犯罪を犯した人であっても、どれだけ学がなくて知能が低かったとしても、誰もが同じように救いを受け取る事ができるという事なのです。

第二に、福音はわたし達が想像するやり方とはまるで違うという事です。
ナアマンは、エリシャが患部に手を当てて動かし、神の名を呼ぶなど儀式をする事によって癒されると思っていましたが、エリシャは自分では何もしませんでした。
世界中のほとんどの人が、良い行いをする事によって天国に行けると信じています。
「あの人は良い人だったから天国に行く。」と言い、「自分はそれほど悪い事をしていないので、やっぱり天国に行ける。」と思っているのです。
しかし、救いの方法はひとつだけだと福音は教えています。
わたし達が救われるのは、イエス様の流した血によって罪を洗われた者だけだと。

ナアマンは言いました。

5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」

“イエスの十字架によって罪が赦されたと信じる”などという訳のわからない方法より、もっと勝った方法があると、わたし達は思いたいのです。
修行を積むのだとか、供養をするのだとか、良い人はみんな天国に行けるのだとか、宗教だとか、そのような方法できよくなれるのではないかと、わたし達は思うのです。
すでにクリスチャンになったわたし達でさえも、時として「キリストのように立派になる事が救いの条件なのではないか。」と思ってしまう事があるほどです。
しかし、他のどの方法によってもナアマンの病はいやされず、誰も癒される方法を知らなかったように、救いの方法もひとつであり、他の方法では得られないものなのです。

このようにして、福音は多くの人達を怒らせ、反感を与え、敵意を抱かせます。
ヘロデ王を狂気に走らせ、ベツレヘムに生まれた2歳以下の子供を皆殺しにさせたように。
ユダヤ人達がイエス様に敵意を抱いて、十字架の上で殺させたように。
ローマ帝国や中国、日本、様々な国がキリスト教を大迫害したように。
そういう意味では、多くの人がクリスチャンになろうとしない事は当然の事でもあります。
わたし達の内側にある肉の思いや罪の性質は、福音を敵視し、そこから離れようとするのですから。

聖書にこの様な言葉があります。

Iコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

疑問や反感を持たずに福音を受け入れる事ができた人は幸いです。
その人達の心の内には聖霊が働き、それを受け入れる幼子のように素直な心をその人達はもっていたのでしょう。
しかし、わたし達もその反感を乗り越える事ができます。
ナアマンも、ついに自分の思いを下ろし、エリシャの言葉に従ってヨルダン川で7度体を洗いきよめると、病は完全に癒されて幼子の体のようにきよくなったのです。

ナアマンは、エリシャの言葉を理解したから癒されたのではありません。
わたし達もまた、福音を完全に理解していなくても、聖書の全てを受け入れる事ができていなかったとしても、神様の言葉に従ってイエス様の血によってきよめられるなら、罪という病から癒されるのです。
自分の方法を捨て、神様の方法に身を委ねてみませんか?
そしてわたし達を支配してきた罪の病から、完全に癒していただこうではありませんか。

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