II列王記11:1-3 『神の計画を信じて』 2011/06/05 松田健太郎牧師

II列王記11:1~3
11:1 アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族をことごとく滅ぼした。
11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れて、彼をアタルヤから隠した。それで、彼は殺されなかった。
11:3 こうして、彼はうばとともに、主の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤがこの国の王であった。

聖書は、2000年もの時の間に、何十人もの人達の手によって書かれてきたものです。
しかし、この聖書という書物が特殊なのは、それだけ長い期間に、それだけたくさんの人達によって書かれてきたのにも関わらず、ひとつの大きなストーリーが描かれているという事です。
英語で歴史の事をhistoryといいますが、聖書に描かれているのはただのhistryではなく、His Storyなのです。

特に、旧約聖書の中に通して描かれているテーマは大別するとこの2つです。
① 創世記から始まる、神様の人類救済の計画と、それを阻止しようとする悪魔との戦い。
② 罪によって欠けた者となってしまった人類の悲劇と、それを補う神様の贖い。(これによって救いの必要性を自覚し、新約聖書の十字架へと繋がっていく。)

この大きなテーマは、もちろん今わたし達が読んでいる列王記の中にも流れていて、今日の聖書箇所もそれ抜きには理解する事ができません。
今日はマクロの視点で、この大きなテーマにも目を配りながら、ミクロの視点でこの聖書箇所特有のメッセージも受け取っていきたいと思います。

① アタルヤの反撃
前回は3週間くらい前になりますが、エフーという北イスラエルの王様のお話をしました。
それまでのイスラエルは、アハブ王と妻イゼベルによってもたらされたバアル信仰によって支配されていましたが、エフーが多くの血を流して根絶やしにされたという話でしたね。
今日は舞台が移って、再びユダ王国の話です。

北王国イスラエルと南王国ユダが分裂してから、ユダはずっとダビデの血筋が続いてきました。
レハブアム、アビヤムと悪い王が続いた後、アサ、ヨシャパテと良い王が続きます。
この二人の王は、神様との関係を深く持っていたので、この時代には国もたくさんの祝福を受けていたのです。
しかし、ヨシャパテ王は、ひとつの大きな失敗をしていました。
それは、北イスラエル最悪の王であるアハブ王と縁を結んでいたという事です。

これに関して、ひとつ訂正しておかなければならない事があります。
3か月前このヨシャパテ王のお話をした時、僕はアハブ王の娘とヨシャパテが結婚したという事をお話ししたと思いますが、それは僕の間違いでした。
ヨシャパテは、息子ヨラムのためにアハブ王の娘を嫁として迎えたのです。
そうやってヨシャパテは、北イスラエルとユダ王国と本来あるべきひとつに結び付けようとしたのですが、何しろ相手が悪すぎました。
アハブの娘アタルヤは、かつてイゼベルがアハブに影響を与えたように、ヨシャパテの息子ヨラムに影響を与え、バアル信仰をユダ王国にまで広げる事になってしまったのです。
やがてヨラム王は死に、息子のアハズヤが王となりました。
その陰でアタルヤが強く糸を引いた事もあって、バアル信仰の拡大は留まる事を知りませんでした。

しかしそんな折、イスラエル王国ではエフーによる革命が起ります。
エフーがバアル信仰をする者を皆殺しにして、イスラエルの脅威を取り除こうとしたのです。
この革命が始まった時、アハズヤは運悪く(神の摂理ですが)イスラエルのヨラム王を訪れていました。
そしてエフーの革命に巻き込まれ、アハズヤもその場で殺されてしまったのです。

そうするとアタルヤは、自分の権力が失われてしまう事を恐れ、ダビデの血筋を持っていて王になる可能性のある人達を、皆殺しにしてしまいました。
そして、自分自身がユダ王国の女王として名乗りを上げたのです。

そんなわけで、バアル信仰はイスラエル王国で根絶やしにされ、アハブとイゼベルも死んでしまったわけですが、今度はユダ王国を支配して力をつけようとしていたのです。
なんというしぶとさ、なんというしつこさでしょうか?

考えてみると、バアルという名前はこの3か月くらいの間、毎回のように出てきている言葉です。
列王記の中でここまで大きく取り上げられ、これほどの強烈さを持って描かれているのは、この歴史が旧約聖書全体のテーマの大切な部分だからです。
そのテーマとは、神様の計画と悪魔との戦いです。

皆さんは、この時代に旧約聖書の中に他では見られないような奇跡が起っている事に気が付いていたでしょうか?
モーセの時代や、イエス様の時代にも大きな奇跡がたくさんありましたが、どの時にも共通しているのは、イスラエルがサタンの攻撃によって危機に面している時代だったという事です。
列王記の中で描かれているバアル信仰との戦いは、人類と悪魔との戦いでもあるのです。

② 必ず勝利する!
アタルヤがダビデの家系を根絶やしにした事、これは単にアタルヤが女王としての力を持ったというだけの事ではありません。
実はこれは、人類にとってものすごく大きな危機だったんです。
なぜなら、神様が計画していたメシヤ・キリストは、ダビデの子孫から生まれる事になっていたからです。

アブラハムに約束されていたメシヤの血は、イサク、ヤコブ、ユダと受け継がれ、ダビデの時代に新たな契約が結ばれ、ダビデの子孫として生まれてくるはずでした。
IIサムエル記の中で、神様はダビデに対してこの様に約束されています。

IIサムエル 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

しかし、救い主が生まれてくる前に、ここにダビデの血筋は断たれようとしていました。
それこそ、悪魔の狙いだったのです。
これでもう、神様の計画は途絶えてしまう。
人類救済の計画は、失敗に終わってしまう。
悪魔も勝利を確信して笑ったんじゃないかと思うのです。
しかし、まだ終わりではありませんでした。

11:2 しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出し、彼とそのうばとを寝具をしまう小部屋に入れて、彼をアタルヤから隠した。それで、彼は殺されなかった。

このようにして、あわやと言うところでアハズヤの末の息子であろうヨアシュは、殺戮の中を救いだされて、彼の叔母エホシェバと、祭司である夫のエホヤダによってかくまわれました。
ダビデの子孫は、こうして首の皮一枚で残されたのです。

その後、ユダ王国は6年間の間アタルヤの支配の中で苦しみますが、ヨアシュが7歳になった時ユダ王国の真の王として油を注がれて即位すると、人々は歓喜してアタルヤを剣で殺してしまったのでした。

わたし達の人生にも、悪魔の手は伸びてきます。
それによって、わたし達に供えられていた神様の偉大な計画が台無しになってしまうかのように感じる事もあります。
何年もの間、アタルヤの支配の中にあるように、絶望的な状況に陥る事もあるでしょう。
でも、わたし達は恐れてはなりません。
決してあきらめたり、絶望してしまってはなりません。
例えどんな状況に陥っても、神様は勝利するのです。
しかし、わたし達の側があきらめてしまったのでは、神様の計画が実現してもわたし達がそこから外れてしまうような事になってしまいます。
神様の勝利を信じて、待ち続けましょう。

③ ヨシャパテ王の失敗
どうしてこのような危機が訪れたのかと言えば、それはすべて、ヨシャパテが罪の力、悪の力を甘く見ていた結果でした。
罪というものは、ものすごく大きな感染力を持っているのです。
みかんの箱に腐っているみかんが混じっていれば、他のみかんもそこから腐り始めて行くように、罪に触れればそれがわたし達に影響を与え、わたし達を腐らせていってしまう。
それが、罪の力の恐ろしさです。
金八先生のように、「あなたはみかんじゃないんだ。」と言ってあげたいのは山々なのですが、生まれたままのわたし達は、この罪の力に対してあまりにも無力なのです。

ではわたし達は、自分自身を世間から切り離してこのような罪の影響を受けないように閉じこめらなければならないのでしょうか?
旧約聖書の時代までは、ある意味ではそうでした。
だからこそイスラエルは他の民族との交わりを断って、祭司の民としての聖さを保たなければなりませんでした。

しかし、イエス様の十字架以降、新約の時代に生きるわたし達は、そうではありません。
旧約聖書の話というのは、聖なる民として選ばれたイスラエルの人達が、外の人々の影響を受けてどんどん堕落していく歴史が描かれています。
でも新約聖書は、穢れた人達がイエス様に触れて、どんどん聖く変えられていく様が描かれているのです。
イエス様が天に帰られた後、今度は聖霊を受けた使徒たちを通して、人々が変えられていきました。
そうやって彼らを迫害していたローマを変え、現代にいたるまで人を変え、世界を変え続けています。

しかし、そのためには条件があるのです。
それは、わたし達が神様の御霊に満ちてなければならないという事です。
なぜなら、人を聖め、変えるのはわたし達の力ではなく、神様の力だからです。

聖霊の満たしと言う言い方をすると、何か座禅でも組んで心を穏やかにして、聖なる心になってエナジーで満たされていくようなイメージを持たれる方もいるかもしれません。
聖霊の満たしと言うのはそういうものではありません。
聖霊に満たされている状態と言うのは、神様の愛に満たされ、神様への愛で満たされている状態の事です。

女の子は恋をするときれいになります。
男達は好きな女の子のためなら命を賭けることだってできるようになります。
わたし達が神様への愛で満たされている時、それ以上の事が起るのです。
わたし達はより明確に神様の計画、神様の御心を知り、御言葉を通して直接語りかけて下さる神様の言葉を受け取るようになります。
多くの人が、様々な奇跡を経験し、悪い習慣や思い煩いから解放され、信仰が増します。

わたし達が聖霊に満たされていても、わたし達は困難を経験しますし、落ち込むことだってありますが、例えアタルヤの長い支配の中に置かれていても、何も恐れる事がありません。
主に信頼し、より頼む事ができるからです。

自分の力では、罪の力、悪の力に打ち勝つ事はできないかもしれません。
しかし御霊に満ちているなら、わたし達は自分の力ではなく、神様の力によって勝利をおさめる事ができるのです。

主の愛が注がれています。
イエス様が共にいて下さいます。
神様の愛に満たされて、今ある困難を乗り越えて行こうではありませんか。

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