Iコリント13:1-8 『 賜物3~愛の心で仕える 』 2011/08/07 松田健太郎牧師

Iコリント 13:1~8
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

皆さんは、先週賜物発見テストを持ち帰って、自分でやってみましたか?
自分の中にどんな賜物を見い出す事ができたでしょうか?
納得のいく結果はでたでしょうか?
それとも、意外な発見がそこにはあったでしょうか?
メールでお知らせしましたが、先週お渡ししたテストの解答用紙には不備がありましたので、今日は正しい解答用紙を用意しています。
先週いらっしゃらなかった方を始めとして、メールでお知らせした訂正表の見方がよくわからなかった方も、ぜひ改めて用紙をお持ち帰りいただき、テストをやってみてください。

さて、この3週間の間、わたし達は与えられている賜物について感がえてきました。
特に先週は、わたし達ひとりひとりが、神様の体の一部として役割の違う賜物を与えられているという話でした。
そしてそれについて書かれているIコリントの12章は、この様な言葉で締めくくられているのです。

12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

ここで表されているのは、第一にわたし達はよりすぐれた賜物を求めればそれが与えられているという事です。
わたし達に与えられている賜物は、それで終わりではないんですね。
時と共に、必要に応じて変わっていく物なのです。
そして、わたし達はよりすぐれた賜物を求める事ができるのです。

第二に、わたし達がただ賜物を用いて神様に仕えるという事、それ以上に優れた、素晴らしい道があるという事です。
そうしてパウロが示したのが、先ほど皆さんに読んでいただいた聖書箇所なのです。
結婚式の時によく読まれる箇所ですね。
実はこの箇所に書かれているのは、男女の愛の話ではなく、神様に仕える方法として表されていたものなのです。
今日はこの箇所を通して、神様に仕える事の奥義について学び、賜物シリーズの締めくくりとしたいと思います。

① 賜物に勝る愛
与えられている賜物を用いる上で、わたし達が気をつけなければならない事がふたつあります。
第一にそれは、賜物を使うのは自分のためではなく、神様のためであるという事。
賜物を自分の利益のために使おうとしたり、神様の栄光ではなく自分が褒め称えられるために使うことはできません。

そして、今日の聖書箇所の中で、わたし達が気をつけなければならないもう一つの事が語られています。
それは、そこに“愛”が伴わなければならないという事です。

13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

愛が伴わない霊の賜物は、神様がどのような方であるかを示す事がなく、そればかりか正しい影響を及ぼす事もありません。
ここで語られている“愛”とは、わたし達が「あの人を愛しています。あの人なしの人生なんて考えられません。」という時に使うような感情的な愛ではありません。
感情というものは、水の上に石を投げてできる波紋のようなものです。
それは強力で、素晴らしいものにも思えますが、やがてなくなってしまうものです。
それどころか、感情的な愛は時として憎しみに変わってしまう事もあります。

しかし、神様の愛は理性的であり、自発的に起るもので、決して変わる事がありません。
このような神様が求めている愛とはどのようなものなのかという事が、この後の節に書かれています。

13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8a 愛は決して絶えることがありません。

わたし達は、どうしても行いの分部が大切なような気がしてしまい、そこに伴うべき愛というものについて忘れてしまいがちです。
しかし、神様がわたし達に求めているのは、どんな事をするかということ以上に、そこに愛があるかどうかだという事を忘れないで頂きたいのです。
そして、このような愛をもって賜物を使う時にこそ、わたし達は神様の体としての役割をフルに果たす事ができると、聖書はわたし達に教えているのです。

② 愛の心を持って仕える
愛の心を持って仕える事の大切さを考えさせてくれる、この様な話があります。

アメリカのいくつかの州では、囚人たちに道路沿いのごみ掃除をさせるという奉仕作業が課せられます。
彼らは、ゴミをとるための棒とそれを入れる袋を手にしていますが、その動作は時にのろのろとしています。
彼らの作業効率は実に悪く、散々時間を費やした揚句、彼らの掃除した後にはまだたくさんのゴミが残っていました。

さて、別の町である学校の学生達が、普段お世話になっている町の人々のために、道路を清掃しようという企画を打ち立てました。
彼らは見る見るうちに道路をきれいにし、短時間の間に道路沿いの全てのゴミがなくなってしまいました。
彼らは自分の働きに誇りをもち、情熱的に仕事をこなしました。
そしてきれいになったのはその時だけではなく、その後もゴミは片付け続けられたのです。

愛の心で仕えるかどうかという事が、働き方の全てに影響を及ぼすのです。
皆さんは、どのような精神で神様に仕えていますか?
この話の囚人のように、奴隷の精神で仕えているでしょうか?
それともこの学生たちのように、情熱と喜びをもって、愛の心で仕えているでしょうか?

わたし達が、神様に対して奴隷的精神で仕える時、「これは自分に課せられた仕事であり、しなければならないことだからやる。」という義務感から奉仕をします。
しかし仕事が大変なので、自分に割り当てられた最低限の仕事さえすればいいという仕事の仕方です。
また、何かにおいて自分中心なので、それが自分にとって有益かどうかが気になります。
仕事を通して自分の自尊心を満たしたいと思うので、自分がした仕事の重要さや、その大変さを誇示しようとします。
失敗をすれば自分の価値が全て失われてしまったかのように落ち込み、うまくいけば自分の評価をしてもらおうと高ぶります。

一方で、愛の心によって仕える仕え方はこのようなものです。
愛の心で仕える人々は、与えられている仕事を自分が神様のお仕えするための機会であると感じ、神様から託された仕事は何でもやり、それ以外にも自分にできる事を探そうとします。
また、神様中心なので、自分が何をしたかよりも神様が望んでいる事を考えます。
そして自分が何をやったかではなく、神様が自分を通してして下った事を謙遜に見つめ、その事を喜び、感謝する事ができます。
失敗から学ぶ事を知っていて、成功した時には神様に感謝します。
それが人から評価されたかどうかは問題ではありません。
素晴らしい神様に仕える事ができているという事そのものが喜びだからです。

皆さんにとって奉仕が、もしも単なる当番や義務であるならば、その奉仕をしている意味はあまりありません。
せいぜい、教会の必要を満たしているという事しかできないでしょう。
しかし、皆さんが愛の心を持って奉仕をし始めた時、その働きは単なる仕事ではなく、皆さんの個性を活かし、賜物を活かす格好の場となります。
そこには情熱が伴い、創意工夫がなされ、毎回その奉仕をする事が楽しみになって行くでしょう。
もちろん、そこにも問題が起り、困難も経験しますが、それは乗り越えるための試練でしかありません。
どうせ奉仕をするなら、このような愛の心をもって、喜びの中で働きをするのでなければもったいないのではないでしょうか?


では、どうしてわたし達は、積極的に愛の心をもって神様に仕える事ができるなどと言う事ができるのでしょうか?
第一にそれは、わたし達が捧げる事ができるよりもずっと大きな愛で愛して下さっているからです。
聖書にはこの様に書かれています。

Iヨハネ 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

主がひとり子をこの世に送って下さり、わたし達のために自らの命を投げ出して下さったのです。
これほど大きな愛を注いで下さるイエス様に、わたし達は義務感だけで仕えるという事の方がおかしいのではないでしょうか?

第二に、神様に仕えることそのものの中に、神様の祝福があるからです。
そもそもわたし達は、どうして神様に仕えるのでしょうか?
それは、わたし達が神様に仕えるために創られたのであり、仕えるために救われたのであり、仕えるために賜物を与えられているからです。

罪によって歪んでしまったわたし達は、本来神様が創造して下さったままの自分に近づけば近づくほど幸せを得る事ができるはずです。
ならばわたし達は、神様に従い、神様に仕えるほど、本来の自分に近づく事ができ、その喜びを受ける事ができるはずなのです。
わたし達が主のために働きをするという事は、わたし達が完成態に近づくための道だという事もできるのです。

さて、今このメッセージを聞きながら、自分は何もしていないという事に罪悪感を感じている方がいらっしゃるかもしれません。
でもどうか、だからと言って何かしなければと奉仕に飛びつく事はなさらないでください。
罪悪感に駆られてミニストリーに参加する事は、決して正しい結果を生み出さないからです。
しかし、もし皆さんが、罪悪感からではなく積極的に何かをしたいと思われるなら、ぜひご自分の中で情熱を持てる事から始めて下さい。
この教会の中ですでに行われている働きに参加されるなら大歓迎ですし、新しい事を始めたいのならぜひご相談ください。
積極的に考えて行きたいと思います。

マタイ 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

わたし達が、愛の心で神様に仕えるなら、喜びをもって働き、互いに愛し合うわたし達を見て神様を知る事になるでしょう。
わたし達の教会の存在そのものが、地域の人々にとって神様を知る手掛かりとなれますように。
わたし達の周り人々が、わたし達を通してイエス様を知る事ができますように、心からお祈りいたします。

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