黙示録1:4-8 『 ②三位一体の神から7つの教会へ 』 2011/09/11 松田健太郎牧師

黙示録1:4~8
1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。
1:8 神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

今日の聖書箇所は、この様な言葉から始まっています。

1:4 ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

先週もお話ししましたが、この黙示録はアジヤにある7つの教会に宛てた手紙という形をとっていますよね。
それにしても、すでに他にもたくさんの教会がある中で、どうして7つの教会に送られたのでしょうか?

実は、7という数字には秘密があるのです。
7というのは、実はヘブル人にはとても意味のある特別な数字なんですね。
同じように12という数字も、黙示録にはたくさん出てくるのですが、この7と12という数字は、“完全数”と呼ばれる聖なる数字なんです。
ヘブル人にとっては、7とか12という数が出てきた時、単純に人やモノの数ではなく、それが聖なるもの、完全なものを指している数字だという事を、わたし達はまず知っている必要があるんですね。

黙示録はもちろん、実際にあった7つの教会に送られました。
しかし、黙示録はこの7つの教会だけに宛てられたものではなく、世界中の全ての教会に対して送られたメッセージだという事を意味しているんです。

わたし達の教会はエペソにもスミルナにも、ペルガモにもありません。
でも黙示録は、わたし達の教会に宛てた手紙でもあり、わたし達個人に宛てた手紙でもあるのです。
ですから今日もこの黙示録を通して、神様が語って下さるメッセージを受け取って行きたいと思います。

① 三位一体の神からの手紙
では、この7つの教会、そして全てのクリスチャンに宛てて送られた黙示録が、誰からのメッセージなのかという事を見て行きましょう。
この様に書かれているんです。

1:4b 常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、
1:5 また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、

常にいまし、昔いまし、後に来られる方というのは、何の事でしょう?
これは、天の父なる神様を表しているのです。
そして8節で神様は、「わたしはアルファであり、オメガである。」と言っています。
これは、ギリシャ語のアルファベットの最初と最後ですね。
つまり、神様は初めであり、終わり、この世界の全てなのです。

黙示録はいつの事について書かれているんでしょうか?
そこには、現在の事が書かれています、過去の事が書かれています、そして未来の事が書かれています。
これは、今起っている事に関して書かれた記録ではないんです。
過去の事について書かれた歴史でもありません。
そして、未来に何が起るかという事に関してのヨハネの推測でもないのです。
この黙示録は、過去も未来も現在も超越した神様がわたし達に与えたメッセージです。
だから時間を超えた全ての事に関して、神様は語る事ができるんだと言う事なのです。

次に7つの御霊という言葉が出てきます。
これは、実はあまり深く考えてはいけないんです。
7つの教会に送られているから、7つなんだなと、スッと流してください。
数字としての7に捕われてはいけません。
この7は、完全数としての7として考えなければならないんです。
つまり、聖霊は7ついるんだという話なのではなくて、聖霊が聖なる完全な存在である事を意味しているのです。

聖霊とは、神様とわたし達をつなげて下さる存在です。
信仰を持ってクリスチャンとなったわたし達の内に聖霊が入って下さるから、わたし達は見る事も触れる事もできない神様の意思を知り、聖書の言葉を通して語りかけて下さる神様の言葉を聞きわける事ができます。
聖霊によってわたし達は祈り、聖霊によってわたし達は信仰を深めます。
そしてこの聖霊の助けによって、わたし達は神様に命じられている、時として不可能とも思える使命や働きを全うする事ができるのです。
黙示録は、この聖霊の助けによってヨハネが書き記したものです。
それは、このメッセージの正当性に関して、とても重要なポイントなのです。

そしてこの黙示録は、神様の証人であり、最初に蘇られた神の御子、そして王の王であるイエス・キリストから送られたメッセージなのだと、ここには描かれているのです。
父なる神、聖霊、御子イエス、の3つを合わせて、三位一体の神が、ここには描かれているのです。

聖書には、三位一体という言葉自体は出てきません。
しかし、父なる神、聖霊、御子イエス・キリストは同等の存在として、聖書には描かれているんです。

② わたし達を愛する主イエス・キリスト
さて、イエス様の事に関して、もう少し詳しく見て行きましょう。
なぜなら、この黙示録の主題のひとつはイエス・キリストの事だからです。

イエス様とは誰なのでしょうか? どんな方なのでしょうか?
それを理解しなければ、わたし達はこの世の終わりがどうなるかという事をどれだけ理解しても、何の意味も、救いも、希望もありません。

1:5b イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、
1:6 また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

「イエス・キリストはわたし達を愛している」という言葉、これは本来文法的には過去形で書かれなければならない言葉なのですが、敢えて現在形が使われています。
それは、イエス様はわたし達を愛していたというだけでなく、今も、現代にいたるまで生きておられるイエス・キリストがわたし達を愛し続けているんだという事を表しています。
皆さんは、そのように愛されている事を理解しているでしょうか?
もっと努力しなければ、もっと素晴らしい人間になれなければ愛されないだろうと考えてはいないでしょうか?
しかし神様の愛は、まだ未完成なわたし達の上に、すでに注がれているのです。

どうしてそんな事が言えるのでしょうか?
それはイエス様がわたし達の罪を赦し、贖うために十字架にかかって下さったからです。
良い人間になったご褒美として救いが与えられたのでなく、わたし達がまだ罪びとであった時から、イエス様間はわたし達のために命を投げ出して下さったのです。

そうやってイエス様は、わたし達を神の国の国民として下さったのです。
だからわたし達は、他の人達と神様との間に立つ祭司として仕え、働きをする事ができます。
わたし達が勝ち取ったものは何もありません。
それはすべて、イエス様がわたし達に与えて下さったものです。

③ 知識ではなく、信じていますか?
このように、黙示録は実は教理的に考えても重要なポイントがぎっしりと書かれています。
この一つ一つの言葉をとって、一つのメッセージとしてお話をしてもいい位濃い内容が、ここには描かれているのです。
特にこの最初の部分は、ノンクリスチャンの方や、まだ信仰の短い方々のためにも、じっくり見て行きたい部分でもあるんですね。

でももしかしたら、ある程度信仰を持ってきた方には、何度も聞いてきたような当たり前の部分かもしれません。
「三位一体の神。救い主イエス・キリスト。知ってるよ。もう十分わかっている。」と言われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、大切なのは「知っている」という事ではないのです。
問題なのは、わたし達がその事を信じ、その愛に生きているかどうかという事なのです。

「神様はあなたを愛してます。」と聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか?
「ふ~ん」と思われる方もいれば、「あぁ、そうなのか。なんて嬉しいんだろう。」と思われる方もいらっしゃるはずです。
では、「ふ~ん」という反応の人と、「嬉しい。」という反応の人では、どちらがその愛の影響をたくさん受けると思いますか?
「ふ~ん」の人は、恐らくそれを聞いても何も変わらないでしょう。
しかし「嬉しい」と思った人は、その言葉がその人に喜びをもたらすのです。
同じ言葉でも、それを受け取る人によってその言葉の重みは変わるのです。

皆さん、神様の愛は決して変わる事がありません。
神様は、誰かを他の誰か以上に愛するという事はありません。
救いのチャンスは全ての人に与えられ、わたし達全ての人の上に祝福が注がれています。
それなのに、どうしてこんなに個人差があるように思えるのでしょうか?
ある人はこんなにたくさんの愛を受け取っているのに、ある人は神の愛なんてないと言う。
何が違うのでしょうか?

もう一度言います。
神様の愛は、変わらないのです。
神様はわたし達がどのような罪人であろうと、今よりわたし達を愛さなくなる事はなく、
神様はすでに、これ以上愛する事ができないほど、わたし達を愛しています。
そしてその愛は、誰の上にも等しく注がれ、全ての人が救いを受けるために招かれてもいます。
問われているのは、わたし達がそれにどう応答するかという事です。

わたし達が神様にできる応答というのは、わたし達がそれに対してどんないい事をしてお返しをするか、というような事ではありません。
ただひたすら、わたし達がそれをどう受け取るかという事なのです。

わたし達がそれを真理として、そして自分自身の個人的な真実として信じ、受け入れるなら、それはわたし達の力となります。
わたし達は、聖書に書かれている事を真理として信じているでしょうか?
それだけでなく、聖書に書かれている事を、個人的な自分自身の事として受け取ってるでしょうか?
“人は”罪人なのではなく、“わたしが”罪人なのだと言う事を、信じているでしょうか?
イエス様は、“人の罪”ではなく、“私の罪”のために十字架につき、命を投げ出して下さったのだと信じているでしょうか?
イエス様は、今生きて、わたしと共にいて下さるのだと言う事を信じているでしょうか?

聖書の福音を頭で理解し、受け入れれば、救いは手にする事ができます。
でもわたし達が福音を心で理解し受け取る時、福音はわたし達の力となってわたし達を活かし、励まし、勇気を与えてくれる事になるでしょう。
イエス様への信仰が人々を癒し、力を与え、命を与えたように、絶望の暗闇の中で確かな希望の光を与えてくれるのは、わたし達が心から信じる力なのです。

終わりの時が刻々と近づいているこの時、誰もが将来に不安を抱え、今後の見通しがつかない状況の中で、わたし達にもこのような信じる力が必要です。
そのような信仰を新たにする事ができるように、今から静かに祈る時をもちましょう

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