黙示録1:9-20 『 ③王の王、獅子なるイエス 』 2011/09/18 松田健太郎牧師

黙示録1:9~20
1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」
1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
1:19 そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

今日で黙示録からのメッセージは3回目になりますが、まだ1章から抜け出る事ができません。
このペースで行くと黙示録を終えるのに丸1年くらいかかってしまいそうですが、最初の部分をじっくり見て行く事も必要だと思うんですね。
いよいよ黙示録は、神様からの預言と入っていきます。
そして、以前お話ししたように、そこに出てくる多くの言葉は、聖書のほかの個所を通して理解すると、少し意味がわかりやすいのです。
今日は、実際にたくさんの聖書箇所を開きながら、黙示録を理解していきたいと思います。
早速見て行きましょう。

① 王なる獅子としてのイエス
それは、ある日曜日の事だったんです。
ヨハネが聖霊の促しを感じ、継いでラッパの様に大きい声がヨハネの心に響き渡りました。

1:11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

その声の主を探して振り返ると、そこにはイエス様がいたのです。

皆さん、イエス様はどんな姿をしていたと思いますか?
イケメンだったでしょうか?
優しい顔をしていたでしょうか?
人それぞれ、色んなイメージをもって創造していると思うんです。
幻の中でイエス様を見たヨハネは、この様に描写しています。

1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。
1:13 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。
1:16 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

これをまとめてみると、イエス様は白髪で、目は星飛雄馬のようで、足はロボットであり、声は大きく、右手に七つの星をもっていて、スゴイ出っ歯、顔は光っていたという事になります。
ずいぶんイメージと違うというよりも、人間離れしていますね(笑)。
もちろんこれは、そのまま理解されるべき描写ではありません。
幻の中で見たイエス様は、その人間性が象徴されて描かれているのです。

さあ、ヨハネが見た幻を、最初からちゃんと見て行きましょう。
ヨハネの目にまず飛び込んできたのは、7つの金の燭台でした。
これは後で解説してくれていますね、この燭台は7つの教会を指しています。
7つの教会の真ん中に、イエス様は立っているという事です。

さらにイエス様が着ている服の描写になります。
足まで垂れた服を着ていて、胸には金の帯を締めています。
これは、神の祭司、しかも大祭司として立つイエス様の姿を表しています。

次に、白い髪の毛です。
イエス様は、白い羊毛のように、そして雪のように白い髪として登場します。
イエス様も苦労なされたんだなぁという事ではなくて、この白さが象徴しているものがあるんのです。
白い色が象徴するのは、清さや無垢、これはヘブル人の文化でも共通のイメージです。
でもそれだけではなく、白い髪が表しているものがあるんですね。

箴言 16:31 しらがは光栄の冠、それは正義の道に見いだされる。

平均寿命が短い時代にあって、しらがは神様に従い愛されたものの証とされていたのです。
それと同時に、頭の白さは知性や知恵の深さを表しています。
イエス様は、その全てを持つ方なのです。

次に燃える炎のような目です。
わたし達現代の日本人は、炎のような目というと“情熱”とか、“激しさ”を連想するのですが、聖書に出てくる炎が表すのは、“聖め”と“裁き”です。
イエス様は見るものを炎によって聖め、裁かれるのです。

さてその次は、炉で精錬されて輝く真鍮のような足です。
これと似たような表現が、聖書の中に出てきたのを覚えている方はいらっしゃいますか?
実はダニエル書で、ペルシャのネブカデネザル王が見た夢の中に、このようなビジョンが出てくるんです。

ダニエル 2:32 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、2:33 すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。

頭は純金でとても立派だけれど、この像の足は一部が粘土でできています。
上半身は重い金属でできていますが、足が粘土になっていたら、バランスを崩して倒れてしまいます。
頭がどれだけ立派でも、土台がしっかりしていなければ倒れてしまうのです。
一方でイエス様は、しっかりした土台を持って立っていて、決して揺らぐ事がないのです。

そして、イエス様の声は大水のように大きく轟きました。
イエス様の声は、権威をもってヨハネの心にひびいたのです。

右手に握られた7つの星は7人の御使いを表しています。
それぞれの教会は、神様が送って下さる御使いによって守られているのです。

次にイエス様の口から出ている両刃の剣です。
聖書の中にこの様な言葉が出てきます。

エペソ 6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

イエス様の口から出ている剣は、神の御言葉の剣そのものです。
それは、悪霊との戦いのために用いられますが、鋭く、切れ味抜群の剣です。
今回は霊的戦いの中だけでなく、7つの教会に向けられたメッセージとして、鋭く切り込んでいきます。

そしてもう一つ、太陽のように輝く顔です。
これも、同じようなシーンが聖書の中で出てきた事を思い出していただきたいのです。

出エジプト 34:35 イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

神様と顔を合わせたモーセは、神様の栄光を受けて同じように輝きを放ちました。
イエス様の顔の輝きは、その内側から放たれるものです。
イエス様こそ、神様の栄光そのものだからです。

そのようなイエス様の姿を見て、ヨハネはその場に倒れてしまいました。
ヨハネはイエス様の姿の中に、神様の存在そのものを感じ取ったのです。

② 恐れるな
こうして描写されているイエス様を見ながら、どうしてイエス様がこんなに恐い感じで描かれているのだろうと思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、これもわたし達が知るべき、大切なイエス様の一面です。

黙示録には、王である獅子としてのイエス様と、わたし達に仕える小羊としてのイエス様が両方描かれています。
この部分で描かれているのは、獅子としての部分ですね。
わたし達は多くの場合、この二つのイエス様像をひとつのお方として見る事ができません。
どちらかの極端にイメージしてしまう事がほとんどなのです。
しかし、聖書は相反するように見えるこのふたつのイメージがバランスよく融合しているのがイエス様だという事を繰り返しわたし達に伝えています。

獅子としてのイエス様だけが強調されれば、わたし達の信仰生活は、恐れと、規律に支配されたものとなるでしょう。
恐れによる信仰に偏ると、わたし達は自分が良いクリスチャンでいる事ができているかどうかが気になってきます。
人には自分がいかに素晴らしいクリスチャンであるかをアピールし、失敗すると救いを失ってしまったかのように落ち込みます。
そして、表面的にはなんとか取り繕って、自分のマイナス面は見せないようになっていきます。
日本はこっちに偏った教会が多いですから、そのような教会や、クリスチャンを知っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

わたし達は、小羊に偏る事もあります。
小羊としてのイエス様像に偏り過ぎると、わたし達は自分の思い通りに神様を動かそうとするようになります。
自分にとって都合のいい部分だけを信じて、都合の悪い部分は大目に見てもらう。
自分の幸せや、繁栄のために神様を利用し、自分が求める形の祝福だけを神様に要求する信仰。
祈りはお願いばかりの祈りとなり、自分の願いは叶えられないと神様への怒りが起る。
わたし達の教会は、むしろこちらに偏る季危険性があるかもしれません。
しかしそのようなイエス様像も、やはり歪んだものなのです。

C.S.ルイスの童話、ナルニア国物語にはイエス様を描いたアスランというライオンが出てきます。
アスランはナルニアが存在する世界の創造者であり、王なのですが、優しいけれど決して飼いならされる事のないライオンとして描かれています。
時にはその恐ろしい牙をむき出しにし、敵である氷の魔女に襲い掛かります。
本来は近づく事すらありえない。
不用意に近づけば、わたし達の存在などはなでられただけで終わってしまうような、イエス様はそのような力を持ったお方なのだという事も、わたし達は忘れてはなりません。

そのような力強さを持っていなければ、わたし達はどうしてイエス様を信頼する事ができるでしょうか?
イエス様がもし優柔不断で、頼りない存在だったら、危機の時、苦難の時、どうしてわたし達はイエス様にその問題を打ち明け、委ねる事ができるでしょうか?

しかし、そんなに誇り高く、無限の力を持ったイエス様が、わたし達のために無力となって下さったのです。
神の子としての立場を捨て、人の子としてこの地上に降り立ち、わたし達の罪を贖うために鞭で打たれ、裸にされ、罵られ、唾を吐きかけられ、十字架に付けられて命を捨てたのです。

力強いイエス様が、その全てを捨てて命をかけたのは、主がわたし達を愛しているからです。
しかし主はわたし達を愛しているので、わたし達にただ繁栄を与えるのではなく、裁きや試練や試みをもおあたえになる方です。
主を王なる獅子として、そして仕えて下さる小羊としてバランスよく理解してそれに仕える時、わたし達は信仰の中に本当の喜びを経験する事ができるのです。
黙示録は、わたし達にその事を教えてくれる本です。
それこそ、黙示録を読むものに与える最大の幸いであり、喜びなのではないでしょうか?

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