黙示録20:4-15 『 黙示録⑳~主の裁きの時 』 2012/02/12 松田健太郎牧師

黙示録20:4~20:15 
20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
20:7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
20:8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
20:9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

わたし達は昨年の9月からずっと、黙示録を共に学んできました。
その中でわたし達は、終末には大きな迫害が起り、様々な災害が起る事を学びました。
規模の違いはあるかもしれませんが、今すでに迫害と災害は世界中で起っていますね。
それは2000年前、この黙示録が書かれていたころにも、大きな迫害と災害は起っていました。
大きな苦しみの中にあったクリスチャンたちに、神様はヨハネを通してこの黙示録というメッセージを与えたのです。

黙示録のメッセージを一言で言うなら、『これから大変な苦しい時を過ごす事になるだろう。しかし案ずるな。私が共にいるからだ。』という事です。
そうは言っても、迫害は辛く苦しいものです。
それでもわたし達が安心してもいいと言われる根拠が、黙示録の後半に書かれていることであり、今日と来週のメッセージの中で語られている事になっていきます。
今日お話しするのは、悪への裁き。
そして来週は、天の御国についてお話しする事になります。
それでは裁きについて、今日は共に学んでいきましょう。

① 我々は裁きを求めている
迫害がなくても、正しい事をしている人が正しいからと言ってふさわしい報いを受けず、悪い事をしている人達が受けるべき罰を受けないのを、わたし達は経験します。
そこで、多くの人達がこの様に嘆くのです。
「神がいるなら、どうして悪が栄えるのか?どうしてこのような事が許されるのか?」と。

しかし神様は、見過ごしているわけではありません。
正義の神様は、全ての事をご存知です。
でも、神様の時が来るまでは待っておられるのです。
神様は終わりの時に、全てのものを総清算され、正しい者は報いを受け、悪は裁きを受けます。

ところが、そこに一つ問題があります。
それは、わたし達はみんな罪びとであり、罪を犯しているので、全ての人がその罪に従って裁きを受けなければならないという事です。
「悪がはびこるのはなぜか」と嘆くわたし達が、その悪の一部だったという事なんです。
そこで神様は、ひとり子イエス・キリストを地上に送り、わたし達のただなかに住まわせ、最後にはわたし達の罪の刑罰を十字架の上で受けて下さいました。
この犠牲によって神様は、罪を身代わりとなって引き受けて下さり、わたし達を救うという道を用意して下さったのです。
神様が差し伸べて下さったこの救いを自分自身のものとして受け取るだけで、わたし達は裁きを免れる事ができるのです。

救いを受取った人達は、イエス様の再臨の後、最終的に新しい天地である天国に行く事が約束されています。
では、それを受取らなかった人達はどうなってしまうのか?
それが今日の聖書箇所の主題でもあります。

② 裁きによって起る事

黙示録 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

さて、ハデスという言葉が出て来たので、少しだけですが死後の世界の事についてお話ししておきたいと思います。
ここに出てくるハデスというのは、“あの世”と言い換えたらいいかもしれません。
完成した天の御国や、裁きの場としての炎の池はイエス様の再臨の後出てきますから、それまでに死んだ人たちは、まず一端このハデスに行くのです。
ハデスという言葉が聖書の中に出てくる時は、多くの場合悪い者たちが行く所として位置付けられています。
一方で、信仰によって義と認められた人たちがハデスとは別の場所に行くのか、それともハデスの中の別の場所なのかはわかりませんが、それぞれがそれぞれの場所で待機しています。
いずれにしても、このハデスというのは天国や地獄の控室のようなものとして考えたらいいと思います。

さて、イエス様が再臨した時、これまで死んだ全てのクリスチャンたちは蘇ります。
その中にはもちろん、獣のしるしを受ける事を拒否したために迫害されて死んだ人達も含まれていました。
彼らはこのハデスから蘇り、わたし達が千年王国と呼ぶ楽園で1000年の間イエス様と共に暮らす事になります。
それが地上で起るのか、天国で起るのかは色んな説がありますが、それはあまり問題ではないでしょう。
いずれにしても、クリスチャンがまずハデスから蘇る。
それが第一の復活であると黙示録には書かれています。

千年が終わった後、一度封印された悪魔が解き放たれ、再びクリスチャンたちを襲おうとしますが、神様の最終的な裁きを受けて火と硫黄の池(つまり地獄)に落とされます。
サタンもまた、反キリストや偽預言者達と共に、裁きを受ける事になるのです。
その後、救いを受け取らなかった人達が復活し、裁きを受けます。
その第二の復活は、同時に第二の死を受けるためのものです。
最初の復活で生き返らなかった人達は、言ってみれば裁きを受けるために蘇る事になるのです。

第二の死の先にあるのは、わたし達が地獄と呼んでいるものです。
聖書の中ではこの地獄を、火と硫黄の池と呼んだり、ゲヘナと呼んだりしています。
ゲヘナというのは、イスラエル近郊にあったゴミ捨て場で、いつでも臭いにおいが立ち込め、発生したガスによってあちこちに消えることない火の手があがっていました。
しかし、地獄とは文字通りに火の池であるというよりは、そのように形容されている場所だと理解した方がいいでしょう。
では地獄とはどのような場所なのかと言えば、つまり神様がいない所です。

わたし達は、こうして地上に生きている間にイエス・キリストを通した救いを受取るなら、永遠の時を神様と過ごす事になります。
一方で、生きている間に神様との関係を拒むなら、永遠の時を神様なしに過ごす事になるのです。

今この地上にあっても、わたし達は神様の働きをしっかり知る事ができずに、とても絶望的な気持ちになってしまったりします。
ましてや、神様との永遠の断絶とはどれほど苦しいものでしょうか?


福音を伝えていく上で、どの国にもそれぞれの難しさがあるだろうと思いますが、日本の文化の中で宣教する上でよく耳にする言葉があります。
それは、「おばあちゃんはイエス様を知らずに死にました。おばあちゃんが地獄に行ってしまったのだとしたら、わたしも一緒に地獄に行きます。」というような言葉なんです。

外国から来た宣教師たちには理解しがたい言葉なのですが、同じ日本人として、僕はその感じ方はとてもよくわかります。
しかし、それでもなお、気持ちはわかるけれど、それは正しい選択ではないと僕には言わざるを得ません。

イエス様はある時、このようなたとえ話をされました。
生前贅沢な暮しをしていた金持ちと、ラザロという酷く貧しい生活をしていたかわいそうな人の話です。
やがて彼らが死ぬと、金持ちの男は地獄で苦しみを受けることになりました。
そしてふと見上げると、あの無様だったラザロが、天国でアブラハムと共にいるのが見えたのです。
その時、金持ちの男はこのように望みました。

ルカ 16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

この金持ちの男は、自己中心的で欲望の塊のような男でしたが、彼が望んだのは兄弟達も共にここに来て苦しむという事ではなく、兄弟はここに来ないように伝えて欲しいという事だったのです。

地獄では、人々の行いに従って裁きを受けると書かれています。
イエス様を受け入れる事がなかったわたし達の両親や家族が、どのような事を経験するのかはわかりません。
また、金持ちの男が地上の家族に「来ないように」と伝えたいという願いが聞き届けられなかったように、ご先祖様がわたし達の直接「来るな」と伝える事はないでしょう。
しかし、彼らがわたし達を愛しているならば、彼らが望む事も共にそこに行く事ではなく、わたし達は正しい道を歩むようにと彼らは望むのではないでしょうか?

そして、わたし達はまだ周りにいる、イエス様を受け入れていない家族が、共に天の御国に行く事ができるようにと働きかける必要があるはずです。
すでに死んでしまった人達がどうなるかは、わたし達にはどうする事も出来ません。
しかし、今生きている人達のためにできる事は、まだまだたくさんあるはずです。

そもそもイエス様は、どうして地獄についてわたし達に語ったのでしょうか?
それは、単にわたし達を怖がらせるためではありません。
ノアがもうすぐ洪水が来る事を知らせて箱舟を作ったように、ヨナがアッシリアの滅亡を知らせて回ったように、わたし達がその道を進まないようにと警告するために伝えているのです。

イエス様がたとえ話の中で天の御国について語る時、そこに入る事ができなかった人達が必ずする特徴的な仕草があります。

マタイ8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
マタイ13:14 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
マタイ24:51 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

ひとりでも多くの人が、泣いて歯ぎしりをする事のないように、わたし達は祈り、この救いの道を示し続けていく必要があるのではないでしょうか?

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