ヨハネ3:3 『 神の国⑥~新しく生まれなければ 』 2012/04/08 松田健太郎牧師

ヨハネ3:3
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

イースターおめでとうございます!
今日はイエス様の復活を祝う、イースターの日です。
毎年クリスマスとイースターの日には、たくさんの方が教会を訪れて下さいます。
今年のイースターは、例年のように色んなイベントをしたりはしませんが、ゆっくり楽しんでいっていただきたいと思います。

さて、イエス様はわたし達を地の塩として、世の光として送り出しました。
わたし達がただ洗礼を受けて、キリスト教徒になる事とは違う、神の国に生き、神の国を拡大する生き方の中には力があるという話を、数週間に渡ってしてきました。
そのメッセージを聞き、その箇所を聖書で読むと、わたし達の心は高鳴るのです。
そして「よし、もっと神の国を広げよう」と決心したりもするのですが、いざ教会を後にし、家庭に戻り、職場に戻り、大多数のノンクリスチャンの文化の中に入ってしまうと、その気概もあっという間にしぼんでしまいます。

この世界で、わたし達の力は何と無力だろうと思います。
確かに、世界の3分の1の人々がキリスト教を信じていると言われています。
でも、そのほとんどは宗教としてキリスト教に属してはいても、地の塩・世の光として機能する、神の国を体現している人達ではない事は明白です。
だからこの世界はいつでも愛に不足していて、争いがあり、互いに傷つけあう。

そんな中でわたし達がちょっとやそっと声をあげてみても、福音は人々の心に届かず、世界は変わらないかのようです。
わたし達に、いったい何をする事ができるというのでしょうか?

① 希望の前には絶望がある
イースターはイエス様の復活を祝う日だという事を言いましたね。
しかし、イエス様が復活するその3日前には、どんな事が起っていたでしょうか?
イエス様は十字架にかけられ、死んでしまったのです。

人々は、イエス様がイスラエルの王となって世界を変えてくれると信じていたのです。
「この方ならダビデをも凌ぐような素晴らしい王様になって下さるに違いない。」
「この方が王になれば、弱い者を省み、貧しい者に救いを与えてくれるはずだ。」
「神がわたし達に王を与えてくれた。この方によって、きっと世界は変わるだろう!」
そう信じたからこそ、弟子たちはその時には誰がイエス様の右と左の席に座るかを言い争いました。
それを信じていたからこそ、イエス様がエルサレムに来た時、人々は「ホザナ!ホザナ!(主よ、救って下さい!)」と叫んで迎えたのです。

それなのにイエス様は、あっけなくローマ兵に捕えられ、裁判にかけられ、十字架につけられてしまった。
その時には、「これからどんな事が起るんだろう。」とワクワクしていた人なんてひとりもいません。
人々は期待を裏切ったイエスという男を嘲笑い、侮辱し、唾を吐きかけました。
イエス様を信じていた人達でさえも絶望し、悲嘆にくれました。
イエス様が十字架に架けられた時、まるで神様までもが希望を失ったかのように、太陽はその光を失ったと聖書には書かれています。

しかし、絶望は絶望のままで終わらなかった。
イエス様はその3日後、死を打ち破って蘇ったのです。
神様にあって、絶望は希望に変えられます。
だからこそ私達クリスチャンは、イエス様が復活したイースターをこうして祝うのです。
しかしそれは、希望の光が見える前に、絶望の暗闇もあるのだという事を、わたし達は覚えている必要があるのです。
その絶望は、必ず希望によって打ち砕かれる事を信じて。

② 復活の前には死ぬ必要がある
第2に、わたし達は復活の前に死を経験しなければならないという事です。
生き返るためには、わたし達は先ず死ななければならない。
考えてみれば、当たり前の事です。
でも僕が言いたいのは、わたし達の肉体の復活の事ではなく、わたし達の内側で起る復活の事です。

イエス様は有名な律法学者だったニコデモにこの様に言っています。

ヨハネ 3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

使徒パウロもまた、手紙の中でこの様に言っています。

ローマ 6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

わたし達が神の国に生きるという事は、わたし達が自分自身の王となっていた古い自分に死に、イエス様を王とする新しい復活の命によって歩み始めるという事です。
それを自覚するためにわたし達クリスチャンは、クリスチャンになった時に象徴として洗礼をするのです。
これは洗礼式がある度に言っている事ですが、洗礼と言うのはわたし達の古い自分が死んで、新しい自分として生き始めるためのしるしとして行うものなのです。

さて、この古い自分に死ぬという事、単なる象徴としてなら良いんです。
でも、本当に自分自身に死んで、全てを神様の支配の中で行い、全てを神様に委ねようと思う人は決して多くはありません。
なぜなら、わたし達には自我があるからです。

わたし達は自分の人生を、自分の選択によって決めたい。
いつ、何をするかを自分で決め、何者からも自由でありたい。
これは全て、わたし達が神になりたいという現在から来ている思いです。
でも神の国に生きるという事は、わたし達がその全てを手放して、神様の支配の中に生きるという事です。
そうやって自分自身に死んだ時に、わたし達は初めて復活の命に生きる事になるのです。

イエス様が「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出すものはまれです。」と言った事の意味がわかるでしょうか?
例え知っていたとしても、多くの人がその道を選ぶ事を躊躇するのです。
神の国へと至る道は、わたし達には狭くて小さい。
多くの人達は、広くて大きい滅びの道を選んでしまう。
でもわたし達は、決してあきらめることなくこの道を選ぶ必要があるのです。

③ 多数派ではなく地の塩になる
第3にわたし達が覚えておく必要があるのは、イエス様は、わたし達クリスチャンが“多数派になる”と言ったのではなく、“地の塩になる”と言ったという事です。

塩の役割は、食べ物の味付けであり、保存です。
しかし、塩がその機能を果たすために必要な量は、それほど多くありません。
料理をする時に、大きなステーキや七面鳥を焼く時にさえ、それ程たくさんの塩は必要としないのです。

味付けをする肉の量と比べたら、塩の量はほんの少しでしょう。
しかし、塩がその肉に味をつけるのです。
その肉がどれだけ大きくても、「肉の味がする塩だ」とわたし達が感じる事はありません。

この日本と言う国にキリスト教が伝えられてから460年。
プロテスタント教会が宣教を始めてから150年。
それでもクリスチャンは人口の1%未満を超えないという現実。
その中でさらに地の塩・世の光としての機能を果たしているクリスチャンの少ない事。
わたし達は圧倒的な少数派です。

しかし、その圧倒的な少数派の、小さな力を使って、神様は世界を変えていきます。
イエス様が世界を変えるために選んだのは、数百人からなる大組織ではありませんでした。
たった12人を、使徒として任命したのです。
そしてその12人とは、世界で最も優れた知恵と才能を持つ12人ではありません。
学のない漁師や、嫌われ者の収税人、そして過激なテロリストたちです。

パウロはこの様に言います。

Iコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

それは、人々が神様の力によって変えられるのを目にするためでした。
わたし達の数も少なく、優れた能力も大してありません。
しかし、この小さな力を用いて、神様は世界を変えようとしているのです。

わたし達に必要なのは、わたし達が何人いてどれだけの能力を持っているかではなく、わたし達が地の塩となり、世の光として生きる道を選ぶかどうかだけです。
そのためにどうすればいいのか、わたし達は数週間かけて学んできましたね?
わたし達は神の国に入り、神様に従い、信頼し、委ね、期待して、神様の力を反映させればいいのです。
その時、世界の変革は始まります。
世界の変革は、わたし達から始まるのです。
皆さんは、そのために選ばれているのだという事を信じるでしょうか?

神の国はすぐそこにあります。
悔い改めて、福音を信じましょう。

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