使徒2:43-47 『 使徒④~心をひとつにして 』 2012/05/06 松田健太郎牧師

使徒 2:43~47
 2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

先週に引き続き、教会の事についてお話ししていきたいと思います。

① 心をひとつにした関係
使徒たちの上に聖霊が注がれた時、そこにいた三千人の人々が救いを受けました。
彼らは教えを守り、交わりをし、パンを裂き、共に祈ったと書かれていました。
その結果、どのような事が起ったかという事が今日の聖書箇所に書かれている事です。

使徒 2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

信仰を持つ人々の心にまず起ったのは、神を畏れる思いでした。
神様を怖いというのではなく、神様の大きさ、偉大さの中で自分の小ささや無力さを感じるという事です。
わたし達が貧しくなる所に神様の豊かさがあり、わたし達の弱さがある所に神様の力があります。
信仰のある所に奇蹟は起り、神を畏れる思いは更に大きなものとなっていくのです。

そして人々は、自分の資産や持ち物を互いに分け合いました。
これは、共産主義こそが聖書的な政治形態だという事ではありません。
また、クリスチャンはこの様なコミュニティを作るべきだという事でもありません。
もしそうなら、このような形の教会はもっと増えていったでしょう。
しかし、富の分配が行われていたと描かれているのはほとんどこの箇所だけで、全ての教会がこうではなかった事も分ります。
この時、この集まりには必要だったからこの様な事が行われていたのであって、そうする事がポイントではないという事です。

大切なのは、そこに集まった人達ひとりひとりの姿勢がどうなったかという事が大切なのです。
人々は、必要に応じて自分の所持品や財産を分け合ったのです。
ひとつには、聖霊に満たされ、学びを重ねていく中で、自己中心的な思いや物質主義的な価値観から解放されていったという事。
そして、必要であれば自分自身のものも分かち合う事ができるだけの人間関係がここにはあったという事です。

そして彼らは、毎日のように心を一つにして、宮つまり教会に集まったり、それぞれの人達の家で喜びと真心をもって共に食事をしたり、神様を賛美したのです。
これは別に、「毎日礼拝をするべき」という事ではないと僕は思います。
これもまたそうする事が大切なのではなく、彼らがそのような気持ちになっていたという事が大切な事なのです。

先週も言ったように、初代教会はいつの時代も教会の見本として、全ての人々が願ってきた形でもあります。
皆さんは、この時の教会とそれ以降の教会とで違う決定的な差は何だったと思いますか?
僕は、奇蹟より、ここで行われていた生活体系より、人間関係の深さが違うのではないかと思うのです。

これは僕自身の反省でもありますが、これまで教会は神様とわたし達自身の関係だけが強調されてきて、わたし達お互いの関係があまり語られてこなかったように思います。
そこで今日は、その辺りに関してもう少し掘り下げてお話ししていきたいと思うのです。


神様が初めにこの世界を作った時、全てのものは“よしとされた”“よかった”と描かれていました。
しかし、この天地創造の中で、神様がひとつだけ“良くない”と言われた事があるのをご存知でしょうか?
創世記の2章18節にその言葉があります。
創世記 2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

他の全てのものは良かったけれど、“人がひとりでいるのは良くな”かったのです。
だから、彼のパートナーとしてエバが作られました。
わたし達は、ひとりでいるのは良くないのです。
この中の誰ひとりとして、この世界の誰ひとりとして、ひとりでいてイイ人はいません。

独身でいてはいけないと言っているのではありませんよ(笑)。
この言葉は結婚式の時などに読まれる事の多い聖書箇所ですが、必ずしも結婚の事だけを言っているのではありません。
必要なのは家族であり、友であり、仲間です。
それは表面的な、挨拶をするだけの人間関係ではなく、心を割って話し合う事ができるような深い関係です。
初めの時、神様とアダムとエバは、そのような深い関係の中にあったのです。
しかし、人の中に罪が入った時、その関係は崩れました。

最初に、わたし達の霊が死に、神様との関係が断たれてしまいました。
これによって、わたし達は神様を見る事も、感じる事もできなくなってしまったのです。
そしてそれによって出来た魂の穴を、わたし達はいつも何かで埋めようとしている。
ここまでは、これまでもよくお話ししてきた事です。
でも、罪によって壊れてしまったのは人と神様との関係だけではありませんでした。
アダムとエバの関係も壊れてしまったのです。

アダムとエバの次の世代には、初めての殺人事件も起り、バベルの塔の事件ではついに、互いに言葉が通じなくなってしまうまでになっていきます。
これらは全て、罪の結果であると聖書には書かれています。
しかしだからこそ、わたし達がまず神様との関係を回復し、罪が癒されていくという事は、わたし達が抱えている人間関係の中にも癒しが起っていくはずではないかと思うのです。

そう考えて聖書全体を通してみると、わたし達に命じられている事はもう少し深い意味がある事がわかってきます。
まず、律法はわたし達に何を教えていたでしょうか?

マルコ 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
そして同じように、
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

またイエス様は、わたし達が家族として互いに愛し合う事を何よりも大切なこととして教えています。
わたし達の関係を強調する意味を込めて、イエス様はその教えの中で“互いに~しなさい”という言葉を何十回も使っています。

人々に聖霊が与えられて教会時代が始まった時、そこに起った事は神様との関係の回復と同時に、わたし達ひとりひとりの人間関係の回復も始まったのです。

わたし達はどうして、教会としてひとつの場所に集まる必要があるのでしょうか?
わたし達に必要なのが、神様との関係というだけなら、わたし達が共にあるという事はそれほど重要でない事になるでしょう。
しかしわたし達が人間関係の回復をするという事は、わたし達の罪が赦された事の証であり、わたし達にとって大きな使命のひとつなのです。

現代は人間関係が希薄で、みんなが傷ついている時代です。
しかしわたし達クリスチャンがその心の傷も癒され、深くて素晴らしい人間関係を築く事ができるようになったらどうでしょう?
それをこの世界の人々に表していく事も、わたし達後に残されたクリスチャンたちの仕事だと思います。

このような神様との関係、そして人間関係の回復からこそ、周りにいた人々は彼らに好意を持ち、たくさんの人達が信仰をもって行きました。
現代の教会にあって、この様な事が起ったら、それを見た人達はどのように反応する事でしょう。
愛の関係gが冷え切ってしまった現代、まさにこのような働きが教会の中で必要とされているのではないかと思うのです。

③ 実践として
それでは、先週に引き続いて今日も、ふたりか三人で集まり、スモールグル―プになっていただきたいと思います。
今日は聖餐式ですので、お互いの必要のために簡単にお祈りしていただければと思います。
その後、グループごとに聖餐式を行いましょう。

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