使徒5:12-24 『 使徒⑦~躍進する教会 』 2012/5/27 松田健太郎牧師

使徒 5:12~24
5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
5:13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
5:14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。
5:15 ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。
5:16 また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
5:17 そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、
5:18 使徒たちを捕え、留置場に入れた。
5:19 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
5:20 「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。
5:21 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。
5:22 ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。
5:23 「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」
5:24 宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。

今日はペンテコステです!
わたし達は、ペンテコステの日に起った出来事の話を数週間前にしてしまったのですが、今日もペンテコステの日にふさわしく奇跡の話を中心としていきたいと思います。

イエス様がまだ地上にいらっしゃった頃、そこにはたくさんの奇蹟的な出来事が起りました。
それは、イエス様が神の子であり、神様の力がそこにあるという事のあらわれでした。
同じように、使徒の働きの時代にもたくさんの奇蹟が起った事が書かれています。
それは、聖霊がそこに働いているという事のしるしとしての御業だったと言っていいかもしれません。

だから、奇跡は現代にも起ります。
初代教会の人々が経験したような凄まじい奇跡も起るでしょうが、もっと身近な所にも神様の御業は起ります。
何か不思議な形で進むべき道が示されたり、不思議なタイミングで出会うべき人と出会ったり、
このように、聖書の時代と同じような規模ではないかもしれませんが、皆さんの中にも神様の御業を体験した事がある方がいらっしゃるのではないでしょうか?

自分には信仰があるけれど奇跡を体験した事がないという方は、もしかしたらすでに起っている御業を見逃してしまっているのかもしれません。
わたし達はすぐに色んな事に慣れてしまう性質を持っているので、何でも当たり前だと思ってしまう傾向があるからです。
しかし、わたし達がイエス様を信じてクリスチャンになったというその事だけでも、それはスゴイ奇跡だという事ができるのではないでしょうか?

そのようなわけで、ペンテコステの今日は、使徒の働きに描かれている御業を通して、教会のあり方を学んでいきたいと思います。

① 地の塩
まずは、初代教会で様々な奇跡の中で起った、少し不思議な現象に目を留めてみたいと思います。

5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
5:13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
5:14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

ここには、矛盾する二つの相反する事が書かれているように思えます。
不思議なわざが行われていた時、他の人達は誰もこの交わりに加わろうとしなかったのです。
しかしその直後、主を信じる男女はどんどん増えていったと書かれているのです。
これはどういう事なのでしょうか?

これは、わたし達クリスチャンの中に生まれる本質的な性質が表されているのではないかと僕は思います。
クリスチャンの中に生まれる性質、それは地の塩であり、世の光となるという事です。
わたし達ひとりひとりのクリスチャンが聖霊によって内側からどんどん変えられていくと、この性質もどんどん力を増していくのです。

考えても見て下さい。
そこには様々な奇跡が起り、富んだ人も貧しい人も心をひとつにして共に集まり、持っているものも共有にし、終いにはアナニヤとサッピラはその場で死んでしまったのですから。
そこはあまりにも神様の臨在があり過ぎて、近寄りがたい状態にもなっていたのです。
わたし達が地の塩となる時、時としてこの様な事が起ります。
わたし達が塩であるがゆえに、周りの人達は近寄りがたく思ってしまったり、交わりに入れないと感じたりするのです。

しかし、周りの人達は彼らを「変な怪しい宗教団体だ。」という風に思ったのではありませんでした。
むしろ、彼らを尊敬していたのです。
わたし達が地の塩として生きていくなら、わたし達は単に変人扱いされて浮いてしまうのではなく、人からの尊敬を受ける事になるはずです。
それだけでなく、この交わりに入る事を躊躇していた人達も、信仰をもっていきました。

時としてわたし達は、周りから浮いてしまうのを恐れるあまり、世の中に溶け込んでしまうとする誘惑に駆られてしまいます。
でも、わたし達がクリスチャンとして成長して、イエス様に似せられていくという事は、どうしてもこの世から浮いてしまう事になる事も覚えておく必要があります。
しかしだからこそ、人々はわたし達の内に、普通とは違う何かを感じ取ってくれるのではないでしょうか?

② 世の光
さて、クリスチャンの性質のもう一つの側面は、わたし達が世の光であるという事です。
教会に交わる事を恐れる人達が、それにもかかわらず信仰を持ったのはなぜでしょうか?
それは、教会の働きが教会の内側に留まるのではなく、外側に向けて表されるものだったからです。

宮の外にいた人の足を癒し、やもめたちや貧しい人達を助けるその活動は、教会の外に向けられたものでした。
イエス様が行った奇跡も、初代教会に起った数々の奇跡も、内輪で自分達が奇跡を体験して満足するためのものではありませんでした。
それは外に向けられて、世に示されてこそ意味のあるものだったのです。

わたし達が奇跡を経験する時、それは外側に向けられているものとなっているでしょうか?
それが自分の満足で完結してしまっては、あまりにもったいない事です。
イエス様はわたし達に、「行って、述べ伝えなさい。」と命じたはずです。
「来るのを待っていなさい。」ではありません。
教会は内側ではなく、外側を向いていなければならないのです。

③ 福音の証となる
さて、使徒の働きの時代に起った奇跡として、特徴的な事をもう一つお話ししておく必要があります。
ペンテコステの日に聖霊が下った時も、宮の前に座っていた歩けない人が歩けるようになった奇跡の時にも、そして今回のさまざまな奇跡が起ったという話の中にも、共通して語られている出来事があります。
それは、そこに必ず福音が語られたという事です。
そして、それによってたくさんの人達がイエス様を受け入れているのです。

そこにどんなに素晴らしい奇跡が起っても、それだけで終わってしまうなら、単なるご利益宗教になってしまいます。
そして、どれだけ病が癒されて、死から蘇ったとしても、そこに永遠の命へと繋がる救いがないなら、本当の意味での癒しという事はできません。

わたし達が経験する全ての奇蹟は、わたし達自身の満足のために起るのではなく、神様との関係を回復するという福音が述べ伝えられるためにあると言っても過言ではありません。
わたし達はそのような証人として、この地上で生きているのです。

わたし達が、地の塩として成長し、世の光として世に表し、福音を述べ伝える時、多くの人達がわたし達を通して神様と出会います。
初代教会の躍進の秘密は、実はそういうところにもあるのだと思います。
この国に福音を伝えるために、ひとりでも多くの人達が神様と出会う事ができるように、まずわたし達自身が成長していきましょう。

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