使徒6:1-7 『 使徒⑧~教会に問題が起る時 』 2012/06/03 松田健太郎牧師

使徒 6:1~7
6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

使徒の働きのシリーズ、8回目になります。
これまで、初代教会には様々な事が起り、驚くような成長をしていくのをわたし達は見てきました。
しかし、教会が何の問題もなく、ただひたすら大きくなっていくだけかと言えば、そんな事はないんですよね。
教会はこの時、ひとつの問題に直面するのです。
どんな問題かと言えば、言わずと知れた人間関係のトラブルです。

教会というのは、人の集まりです。
人が集まる所には、必ず問題が起ります。
それがクリスチャンであっても、欠けのある罪人である事には変わりがないのですから、問題が起るのは当たり前の事です。

あの人はクリスチャンなのにどうだとか、クリスチャンのはずなのにあそこの教会はおかしいというような話を僕はたくさん耳にします。
でも、そのように言う方は、たぶんクリスチャンとはどういう人達なのかという事がわかっていないのでしょうね。
あるいは自分自身の事も、よくわかっていないのでしょう。
だって、自分自身を見つめてみれば、クリスチャンだからと言って完璧には程遠いなんていう事はすぐにわかるじゃありませんか。

そんなわけで今日は、初代教会に起ってきた問題を通して、わたし達はどのようにして問題に直面し、解決していくのかという事を共に考えていきたいと思います。

① ギリシア語を話すユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人
この時期の教会には、大きく分けてふたつのグループがありました。
ひとつは、ヘブル語を話すユダヤ人のグループ。
もうひとつは、ヘブル語を話す事ができないユダヤ人のグループです。
更に言えば、ユダヤ人以外の外国人で、ユダヤ教に改宗して、イエス様に従うようになった人達もいましたが、この時点ではまだほとんどいませんでした。
異邦人に福音が伝えられて、ユダヤ人以上に異邦人達が救われていくようになるのは、もう少し先の話なんですね。

ヘブル語を話すユダヤ人のグループは、イスラエルにずっと住んでいた人達で、ヘブル人としての文化の中で生きてきた人たちです。
一方で、ヘブル語を話す事ができないグループというのは、イスラエルから離れて外国に住んでいたけれど、最近になって帰ってきた人達です。

聖書の中では“ギリシア語を話すユダヤ人(ヘレ二スト)と、ヘブル語を話すユダヤ人(ヘブライスト)”として区別されていますが、正確に言えば当時はギリシア語が共通語だったので、全員ギリシア語を話す事は出来たのです。
しかし彼らの間には明確な文化の違いもあったので、彼らはそれぞれに別のグループとして形成されていったのです。
元をたどればユダヤ人じゃないかと思いますが、この二つの文化の差は西洋と東洋の違いです。
民族としては同じでも、考え方や価値観もかなり変わってきています。

さて、そんな二つのグループの間で、ちょっとした軋轢が生まれていました。
わたし達がこれまで見てきたように、お金持ちが自分達の財産を用いて貧しい人達を養うという事が起っていたのですが、ギリシア語を話すグループの未亡人たちへの配給がなおざりにされてしまうという事態が起ってきていたのです。

そこに起っていた問題、それ自体はとてもちっぽけなものに思えます。
実際、それはさほど大きな問題になる事もなく、すぐに解決されていくわけです。
しかし、この出来事がわざわざ取り上げられている事には意味があるのです。
実は、そこには問題が大きくなりかねない要素が隠されていました。
それは、元々ギリシア語を話すヘレ二スト・ユダヤ人と、ヘブル語を話すヘブライスト・ユダヤ人との関係は、とても悪かったという事なのです。

ユダヤ人というのは、もともとすごく排他的な人達です。
同じイスラエルの中でも、他の民族と混ざってしまったサマリヤ人とは犬猿の仲で、お互いに商売すらほとんどしないという状態にありました。
ここに出てくるギリシア語を話すユダヤ人達も、イスラエルから離れて外国で生活をし、イスラエル人としてのアイデンティティがあいまいになっていた人達です。
生粋のユダヤ人は、こういう人達をとても嫌っていました。

だから、当時のユダヤ人がこの記事を読みながら当然のように想像するのは、この二つのグループの関係が決裂し、互いに争い合うようになるという結末です。
しかし、そうならないのです。

確かに、互いの間のコミュニケーション不足のために、一方のグループに配給が行き届かないという問題が起りました。
しかし、彼らは冷静に話し合い、リーダーを立てて、そのような問題が起らないように対処しました。
そこには、キリストにある一致があったからです。
排他的であるはずのユダヤ人達が、これまで忌み嫌ってきたヘレ二スト・ユダヤ人達と仲良くし、問題を解決して一致しようとしている姿、それ自体が奇跡といっても過言ではないできごとだったのです。

② 初代教会に問題が起る時
わたし達のこの集まりも、国際教会ですから、たくさんの国から人が集まってきています。
それだけではなく、様々な年齢層の人達がいますから、それぞれの文化ごとにグループができてきたりしますね。
わたし達はこのユダヤ人達のように、仲が悪いという事はもちろんありません。
それでも、問題解決に関して、彼らから学べる事はたくさんあるように思います。
問題に直面した時、彼らはどうやってそれを解決に導いたでしょうか?

第一に、問題が大きくなる前に、平和的に話し合いました。
問題は放っておけば置くほど大きくなってしまいます。
早いうちに解決していけば、人間関係にいらぬ負担を書ける必要がありませんね。

第二に、リーダーを立て、具体的に解決するためのチームを作りました。
教会が大きくなれば、ひとりのリーダーが、全ての事を解決する事はできません。
使徒たちは、祈ることと御言葉を教える事に専念し、他のメンバーの中から問題解決のための人々を選びだしました。
そのリーダーとなるための条件は、すでにメンバーの一員であり、御霊と知恵にあふれ、評判の良い人であるという事です。
それによって、単に仕事をする奉仕者ではなく、彼らは奉仕そのものを通して神様の証人となる働きをしていきました。

第三に、彼らはみんな、主を見上げていたという事が言えるのではないかと思います。
エペソ人への手紙の中にこの様な言葉があります。
エペソ 4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
ここで言われている一致とは、皆が同じような人となり、同じような事を考え、同じように振る舞う画一的な一致ではありません。
それぞれがそれぞれの個性を持ちながら、それぞれに役割を果たし、別々の事をする中で、神様への信仰においてひとつとなるのです。

結婚式の時、この様なお話をします。
結婚する前の恋人同士の関係は、お互いを向き合っている状態です。
しかし、いつまでもお互いの事を見ているだけでは、やがてお互いの欠点ばかりが見えてくるようになり、一緒にいる事も嫌になってしまいます。
しかし、男と女が一体となると聖書に書かれているように、結婚してひとつとなるなら、夫婦はお互いを見るのではなく、共にひとつのものを見ていくようになる必要があります。

同じように、わたし達教会は、お互いの事を見ているのでは争いが起るだけでしょう。
わたし達は自分自身を見るのではなく、お互いを見るのでもなく、同じものを見ていく必要があるのです。
この話は夫婦の関係を表した話ですが、教会もまた、この様にして一致していきます。
わたし達が一致していくためには、わたし達が共に神様を見あげ、神様が与えるビジョンに目を据えていく必要があるのです。


最期に、わたし達は神様の御言葉に留まる事の大切さも忘れてはなりません。
使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念するために、他の働き人たちを任命したのです。
教会で神様の言葉が語られない、という事になってしまってはいけません。
わたし達を活かし、わたし達に力を与えてくれるのは、神様の言葉だからです。

でもそれは、福音だけ語られていればいいという事でも、他の事はやらなくていいのでもありません。
ただ、最終的な事はすべて、神様の言葉が伝えられる事に繋がっているという事なのです。

こうしてリーダーが立てられ、ヘブライスト・ユダヤ人と、ヘレ二スト・ユダヤ人との間に平和が起り、やもめたちが差別なく養われていくという事の中にも、福音が述べ伝えられるという大きな目的の元に行われています。
だからこの話はこの様な言葉で終わっているのです。
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。

神の言葉はわたし達を変え、わたし達に力を与え、わたし達に命を与えます。
その命を、存分にいただこうではありませんか。
そして共に、どんな問題も乗り越えていきましょう。

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