使徒9:19-31 『 使徒⑬~神の選びの器 』 2012/07/08 松田健太郎牧師

使徒9:19~31
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
9:21 これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
9:22 しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。
9:23 多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をしたが、
9:24 その陰謀はサウロに知られてしまった。彼らはサウロを殺してしまおうと、昼も夜も町の門を全部見張っていた。
9:25 そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろした。
9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
9:28 それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。
9:29 そして、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていた。しかし、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。
9:30 兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れて下り、タルソへ送り出した。
9:31 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

皆さんは、“コペルニクス的転回”と言う言葉をご存知でしょうか?
この言葉は、かつて天動説(地球中心説)が常識として信じられていた時代、コペルニクスという天文学者がそれを覆す地動説(太陽中心説)をとなえた事から来た言葉です。
ここから派生して、物事の見方が180度変わってしまう時に“コペルニクス的転回”と言うのです。

私たちは、時としてこのような大転換を必要とします。
これまでの人生に行き詰ったり、これ以上進む事ができなくなった時、全てがひっくり返らない限りはどうにもならないと感じる事があります。
実を言うと、福音を信じるという事は全ての人にとってコペルニクス的転回が必要です。
それまでの、自分中心的な物の見方から、神様中心の見方へと変わる事だからです。

でも、このような価値観の大きな転換は、自分の力でやろうと思ってもそうそうできる事ではありません。
ほとんどの場合は、そのような転換を必要ともしないし、変わらなければならないという発想すら起らないのではないでしょうか。
コペルニクス的転回が起って人が変えられる時、そこには神様の御手が伸ばされているのです。これまで熱心なパリサイ派のユダヤ教徒だったサウロの前に、復活したイエス様が現れた時、彼の人生にはコペルニクス的転回が起りました。
それは、これまで迫害していた対象から、信仰への転回でした。
これまで持っていた宗教的な信仰から、福音的な信仰への転回でした。
善行による救いから、恵みによる救いへの転回でした。
その時、彼の価値観の全てが完全にひっくり返ってしまったと言っていいでしょう。

① サウロという器
神様はどうして、そのような大きな転回をサウロの上に起こしたのでしょうか?
サウロは多くのクリスチャンを捉えたので、彼らか恐れられ、嫌われていました。
このサウロがクリスチャンになるなんていう事を、一体だれが想像したでしょうか?
むしろ、神の裁きを受けて死んでしまえばいいのだと、クリスチャンたちからは思われていたかもしれません。
事実、目が見えなくなったサウロを癒すように命じられたアナニヤは、その命令に一瞬躊躇しています。

9:13 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。
9:14 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

「あいつは私たちを迫害しているのです。いっそ、このまま見えない方がいいのではないでしょうか?」
アナニヤがそう言いたくなる気持ちもわかります。
しかし、神様はアナニヤに、この様に答えたのです。
9:15 しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

サウロは、神様の選びの器だったのです。
どのような器でしょうか?
それは、神様の御名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ器です。
この働きは、彼の他には誰にもなしえないような働きでした。
ひとつには、人を恐れず、真理だと信じた事のためには命を賭ける、彼のまっすぐな性格のため。
そして、当時のユダヤ人としては最高峰だった、ガマリエルの元で学んだ彼の頭脳。
さらに、ローマ市民としての資格も持っていた、彼の国際的なバックグラウンド。
その全てが、神様から与えられた働きのために欠かす事の出来ない能力だったのです。

サウロは、救われるとすぐに「イエスは神の子である。」と福音を述べ伝え始めました。
それは、かつての彼の仲間たちも、またつい最近まで迫害を受けていたイエス様の弟子たちも、みんなあっけに取られるほどの変わりようであり、熱心さでした。
そしてついにユダヤ人たちの怒りを買い、彼らから命を狙われるようになっていったのです。

ご存知のように、このサウロはこの後ギリシア名であるパウロへと名前を変えて、本格的に国際的な働きへと舞台を移していきます。
彼が残した手紙は現代にいたるまで私たちの心を揺さぶり、神様がサウロという器を通して救った魂は、数える事ができないほどの数となっています。

だからこそ、神様はサウロと言う器を捕えるために、普通では考えられないようなコペルニクス的転回を起こさせたのです。

② アナニヤという器
神に選ばれた器は、何もサウロだけではありません。
サウロを救いへと導いたアナニヤもまた、神様から選ばれた特別な器でした。

この部分ではあまり描かれていませんが、後にパウロが語っているところによると、アナニヤと言う人は律法を重んじる、敬虔な人であり、ダマスコに住むユダヤ人全体の中でも評判の良い人でした。
特徴だけを見ているとまるでサウロとそっくりです。
このアナニヤがサウロを癒すために選ばれた事も、やはり偶然ではないはずです。
神様は、サウロという、優れてはいるけれど扱いづらい人物を近づけるために、このアナニヤと言う人を選んだのです。

アナニヤ自身は、サウロと似てはいても、彼と同じような働きや、目立った働きはなにひとつしませんでした。
しかし、彼の働きによってサウロは導かれたのです。

③ バルナバという器
サウロを導いて働きにつかせるために、神様が用いた物がもうひとりいました。
それは、バルナバです。
彼はしばらく前に、少しだけ名前が出てきたのを覚えているでしょうか?
やもめ達や貧しい人達を助けるために、自分の畑を売って財産を捧げた人です。

ユダヤ人達に命を狙われるようになると、サウロはそれまでいたダマスコを離れ、エルサレムへと逃れました。
しかし、エルサレムのクリスチャンたちは、最初サウロを受け入れる事ができなかったのです。

使徒 9:26 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。

そんな時、サウロを引きうけて面倒を観たのが、バルナバでした。
その御バルナバは、しばらくサウロと行動を共にして、彼をクリスチャンとして育て、他のクリスチャンたちとの関係を繋げていったのです。

使徒 9:27 ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。

アナニヤがいなければ、サウロがクリスチャンになる事がなかったのと同じように、バルナバという人の存在がなければサウロが世界的な働きをする事はなかったでしょう。
そうなると、私たちがこうして彼の書いた手紙を読む事もなかったはずです。

私たちクリスチャンにとって、神様との関係はとても大切なものです。
神様との関係において私たちは救いを得、変わっていく事ができます。
しかし、他のクリスチャンとの関係がなければ、やはりその救いに預かって、働きをする事は難しいでしょう。
私たちにも、アナニヤとバルナバが必要です。
なぜならば、私たちもまた、神様によって使命を与えられた選びの器だからです。

神様は、私たちのために必ずアナニヤとバルナバを与えてくれます。
この様な助けが、神様に与えられた働きをする私たちには、絶対に必要なものだからです。
そのような友、助け手がいないようなら、神様にぜひ、求めてみてください。
必ずそのような助けが与えられます。

そして、今度は自分自身が他の人達の友となって、働きの助け手となる事も忘れないで下さい。
また、アナニヤによって救いに入り、バルナバによって宣教活動をする事ができたサウロもまた、その後他の人達を励まし、救いに導き、力となりました。
それもまた、私たちが器として選ばれたその役割の一つだからです。

私たちの器としての働きは、サウロのように華やかなものではないかもしれません。
バルナバのように補佐役だったり、アナニヤのように全く目立たない働きかもしれません。
しかし、それがわたし達に与えられた役割であるなら、私たちを通して救われるひとりがたったひとりでも、どれだけ嬉しい喜びでしょうか?
私たちひとりひとりが、神様から与えられた器としての使命がしっかりと果たせますように。
その働きが何かを見極め、神様の導きを察知し、それに従う事ができますように。
祈りましょう。

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