使徒11:19-26 『 使徒⑯キリスト者と呼ばれて 』 2012/08/12 松田健太郎牧師

使徒11:19~26
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

今日読んでいただいた聖書箇所には、“キリスト者”という言葉が出てきます。
これは、英語で言うと“クリスチャン”という言葉ですね。
アンテオケ教会に集まるキリストの弟子たちに対して、この様に言う人達がでてきたわけですが、実はこの時まで、“クリスチャン”という言葉はなかったのです。
人々は、このアンテオケ教会の人々を見て、「こいつらはクリスチャンだ!」と呼び始めたのです。

クリスチャンとは何でしょうか?
クリスチャンには色々なイメージがあるだろうと思います。
でもそれは、単に善い人であるだけでクリスチャンにはなりません。
また、教会に行く人というだけでもクリスチャンではないですよね。
アンテオケ教会の人達は、一体どういう人達だったので、“クリスチャン”と呼ばれるようになったのでしょうか?(2~3分隣の人と話して考えてみましょう。)

① キリスト狂?
最初は、彼らはユダヤ教の一派だと考えられていました。
その中で彼らは、“イエスの弟子”というくらいの位置づけだったでしょう。
パリサイ派やサドカイ派と言うのと同じように、ユダヤ教イエス派と呼ばれていたかもしれません。

しかし、イエス様が十字架にかけられて殺された後、状況は変わっていきました。
彼らはスゴイ勢いで増え広がり、ユダヤ人だけでなく、異邦人達もどんどん加わって行ったのです。

11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。

この群れは宗教の枠を超え、民族の枠も超えて、イエス様が伝えた福音を述べ伝えていったのです。
そして彼らがあまりにも「キリスト、キリスト」ばかり言うので、周りの人達が「キリスト野郎」とか、「キリスト馬鹿」というような意味で“クリスチャン”と呼び始めたのです。

熱心なパリサイ派のユダヤ人だったパウロは、手紙の中でこの様にさえ言っています。

Iコリント 2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

パウロは、ローマ帝国の市民であり、ガマリエルという先生の元で学んだエリート中のエリートです。
彼はそれなりに裕福でもあったでしょうし、ユダヤ人たちの中でも大きな発言力を持っていました。
しかし、イエス様の十字架のためなら、その全てを捨てても何という事はないとパウロは言います。
彼は文字通り全てを捨てて、イエス様の福音を伝える者となったのです。

② キリストへの信仰
それでは、ただ「キリスト、キリスト」と言っていればクリスチャンになれるのかと言えば、そうではないんだという事を、実はイエス様ご自身が言っていました。

マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

この言葉は、私たちクリスチャンにとって、とてもドキッとする言葉なんじゃないかと思います。
ここでイエス様が話している人は、単に「キリスト」と言う言葉を使っている人と言うのでもありません。
イエス様に対して“主よ”と言い、イエス様の名で悪霊を追い出し、イエス様の名によって奇跡さえも行った人たちです。
それでもイエス様は、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言っているのです。

この言葉をどう理解したらいいのでしょう?
この言葉を理解するヒントは、23節の「わたしはあなたがたを全然知らない。」という言葉の中にあります。
この言葉を誰が言っているのかと言えば、神としてのイエス様ですね。
でもこれは、神様なのに知らない事があるという事ではありません。
全知全能である神様は、僕たちの事を僕たち自身以上に知って下さっているお方です。
この言葉の本当の意味は、「あなた達はわたしとは何の関係もない。」という意味の言葉なのです。

この人達は、イエス様を“主”と呼び、色々な働きをし、奇跡まで経験したけれど、イエス様との個人的関係を持つ事がなかったのです。
わたし達がどれだけキリスト教を熱心に信仰し、教会のために働いたとしても、イエス様との個人的な関係がなければ、イエス様はこの様に言うというのです。
「あなたはいつ、私の所に来たというのだ。あなたは私とは何の関係もなかったではないか。わたしはあなたを知らない。」

罪の根源とは何だったでしょうか?
罪の根源とは、私たちが神様に背を向け、その関係が断絶してしまった事にあり、その状況そのものが罪の根源であるわけです。
そして聖書は、私たちが救いを手にするために必要なのが何かと言う事を明確に示しています。
それは、善い行いではなく、働きの業績によってではなく、聖書の知識でも、伝道した数によってでもなく、ただただ神様との関係が回復しているかどうかだけです。
そのための道となっているのが、イエス様なんですよね?

この事の意味を、よく考えてみていただきたいのです。
それは、「キリスト教に、救いはない。」という事です。

救いは、 キリスト教への信仰にあるのではないんです。
もちろん、特定の神学や、教義、教理に救いがあるのでもありません。
ましてや、教会に対する信仰や、牧師に対する信仰でもありません。
わたし達はこの事を、はっきりと、明確にしておく必要があります。
そうでなければ、私たちは目に見える教会や牧師、他のクリスチャンに大して簡単に依存してしまう傾向があるからです。
救いとは、“キリスト“を信じる信仰、そしてその関係の中にあるんだという事なのです。

③ クリスチャンと行い
さてもう一度、使徒の働きの11章26節の言葉に戻りたいと思います。
ここで言われるクリスチャンとはどういう人達だったかを見てみましょう。

11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

実は、ここには大切な事が言われています。
それは、「クリスチャン」というのは、自分たちが名づけて自称し始めたのではなく、他の人達によってつけられた呼び方だという事です。
それはどういう事かと言うと、人々の中に紛れて、ひっそりと人知れず生きていたような人達なのではなく、外から見ていてすぐにわかるような人達だったという事です。

確かに、救いは信仰によって得られるものであって、行いによって得られるのではありません。
「クリスチャンらしく」ふるまう事が大切なのではないですね。
しかし、私たちが本当に信仰を持っているなら、私たちはそれに応じた行動もするという事ができるのではないかと思います。
ヤコブの手紙の中にこの様な事があります。

ヤコブ 2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

人知れず、ひっそりとキリスト信仰を持っていたという人がいないとは言いません。
しかし、その人が本当に信仰を持っているならば、それは行いとしても表れてくるだろうという事ですね。

わたし達が「わたしはクリスチャンです。」という宣伝を例えしなかったとしても、私たちが本当にイエス様への信仰の中に生きているなら、その人の行動はキリストの輝きをもってこの世界の光となり、人々の前にも明らかになっていくのではないでしょうか?
でも、そのために必要なのは間違いなく、生きたイエス・キリストとの関係なのです。

わたし達が、いつでもイエス様と対話の中で慰めと、励ましを受けているという事。
わたし達が、イエス様の愛を知り、満たされている事。
わたし達が、イエス様の導きに耳を傾け、困難だとわかっていても信頼して従い、その道を進む事。
わたし達が、自分の重荷をイエス様の元に降ろし、イエス様が負わせるくびきだけを負っている事。
わたし達が、全てを主に委ねて、平安の中で、良き羊飼いであるイエス様の後について行っている事。
そのような生きた関係の中で、私たちは内側からイエス様の光を放つようになっていくのです。

イエス様との生きた関係の中に入ってみませんか?
皆さんが、すでにクリスチャンであるかどうかに関わりなく、今日からその関係の中に生きてみませんか?
あるいは、失くしてしまったその関係を、もう一度回復してみませんか?
イエス様は、そのような関係の中に、皆さんを招いています。

黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

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