『 罪からの解放①~罪とは何か 』 2012/11/04 松田健太郎牧師

先週まで、わたし達はMessy Churchというシリーズでずっとお話をしてきました。
そしてその後半には、わたし達がMessy Churchとしてちゃんと機能していくために必要な、“愛”についてお話ししてきました。
今日から、新しいシリーズに入ります。
それは、わたし達がお互いに愛し合うために必要な、自分自身を知るという事です。
わたし達はどのような存在なのか、そしてどうしてこんなにも赦しあい、愛し合う事が難しいのかという事を考えて行きたいと思います。
そのキーワードになるのは、“罪”という事、わたし達が罪人であるという事です。
今日からしばらくの間、罪とは何なのか、罪人であるわたし達はどのようにしてその呪縛から抜け出す事ができるのか、共に考えて行きましょう。

① 罪の本質
罪と聞いて、わたし達がまず最初に思い浮かぶのは何でしょうか?
多くの場合、“罪”と言ってまず思い浮かぶのは、犯罪の事ではないかと思います。
盗み、殺人、強姦、麻薬・・・。

もう少し、厳しく考える人は、犯罪行為でなくても人を傷つけるような事は“罪”だと考えるかもしれません。
イジメ、意地悪、悪口、嘘・・・

更に厳密に考える人は、例え誰かを傷つけなくても、モラルを破る事は“罪”だと考えるかもしれません。
酒、タバコ、浮気、ポルノ・・・

また、宗教的な人は、“罪”とは神の律法に背く事だと言うのではないでしょうか。
偶像崇拝、安息日を破る事、礼拝を捧げない事・・・

そう言った事は確かに罪と言えるかもしれません。
しかし、聖書が“罪”と呼んでいるものは、実はそのような犯罪行為や、人を傷つける事、またモラルに関する事や神様が決めた決まり事を守るかどうかという事ではないんです。

わたし達は、「あなたの罪は、イエス・キリストが十字架で流した血によって清められ、赦されました。イエス様の命によって罪が贖われたのです。」という事を言います。
でも、わたし達がしてしまう罪の行いが、イエス様に何の関係があるのでしょう?
わたし達は、行いの部分だけで罪を理解してしまうと、この辺りの意味がよくわからなくなってしまうのです。

まずわたし達が理解しなければならないのは、そのような行いとしての罪は、それよりずっと本質的な罪の根っこの部分が元になって表れているものだという事なのです。
その本質的な部分を、キリスト教の用語で“原罪”と呼びますが、“原罪”はこの二つの事によって言い表す事ができます。

1:わたし達が神から離れてしまっている状態
2:自分が神になろうとする事

これは創世記の中のアダムとエバが悪魔の誘惑に負けて神様に背き、善悪の知識の木から取って食べて以来、すべての人類が抱えている問題です。
わたし達が神様から離れ、自分が神になろうとしている状態だから、わたし達は罪の行いをしてしまいます。
それどころか、わたし達がこの様な状態である限り、わたし達がする事はすべて罪となってしまうのです。
それは例えば、人助けや、勉強や、自分を鍛えることなど、わたし達が良いと思っている事でさえ、罪となり得るという事です。

それではこの原罪というものがどのようなものなのか、もう少し詳しく見て行きましょう。

② 神から離れる事
創世記は、神様がこの世界を作られ、自分に似せてわたし達人間を作られた所から始まります。
最初の人であるアダムは、神様からこの様に命じられ、約束していました。

創世記 2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

その頃、アダムとエバは、神様の声を明確に聞く事ができていました。
エデンの園にあって、人と神様とは深い愛と信頼関係で結ばれ、今のわたし達のように神様の存在を信じる事ができないなんていう事は有り得ない状態だったのです。
しかし、悪魔の誘惑によって、アダムとエバは神様との約束を破ってしまいました。
それによって、それまで神様と人との間にあった深い関係は断ちきられ、人は神様から身を隠し、完全に背を向けてやがてその存在すらもわからなくなってしまったのです。
この様にして神様との関係が断ちきられた事によって、わたし達には何が起ったでしょう。

第一に、わたし達には「何が正しい事かがわからなくなって」しまいました。
神様と共にいた時の人は、神様が善悪を教えてくれていました。
しかし、神様との関係が断たれてしまった後、わたし達は自分で善悪の判断をしなければならなくなってしまったのです。

わたし達は多くの場合、自分の経験や文化的な基準によって善悪を判断しようとしているのですが、不完全な状態となったわたし達に、正しい判断が下せるはずがありません。
わたし達は時として、的外れで、見当違いな判断をしてしまう事もあります。

実はわたし達が“罪”と訳しているこの聖書の言葉、直訳すると“的外れ”という意味の言葉なのです。
神様から離れてしまったわたし達は、善悪の判断に関して、的がどこにあるのかもわからないまま、当てずっぽうに的を射ているようなものなのです。

第二に、わたし達は「罪を犯す事を恐れなくなって」しまいます。
好きな人の目の前で、万引きする事を想像してみて下さい。
わたし達の感覚が、どこか倒錯してしまっているのでない限り、わたし達は好きな人の前で罪だとわかっている事をしようとは思わないのではないでしょうか。

それがもし神様の御前ならなおさらです。
わたし達は時に、罪だとわかっている事をそれでもしてしまう事があります。
それは、わたし達の中に「神様が見ている」という実感がないか、神様との関係がちゃんとしていないかのどちらかなのではないでしょうか?
このように書かれています。

詩篇 36:1 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。
わたし達は、神様の臨在の中で罪を犯す事はできないはずなのです。

③ 自分が神になる事
罪の本質にあるもう一つの事は、わたし達が自分を神にしようとする事です。
アダムとエバは、このような悪魔の誘惑によって神様に背き、罪を犯す存在となってしまったのです。

創世記 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

そうは言っても、多くの人は「別に、自分が神だなんて思っていない。」と言われるかもしれません。
確かに、ごくたまにいる「オレが神だ」というような人以外は、あまりに見覚えがない事かもしれません。
しかし、わたし達はこの様な言葉を聞き、そこに共感を覚えたりした事があるのではないでしょうか?

「あきらめなければ夢はかない。」
「自分の人生は、自分が決める。」
これは、一見素晴らしい事を言っているようですが、実はこれこそ、自分で全てをコントロールして、自分を神にしようとしている価値観からきているものに他なりません。
それでは、自分を神にしようとする事がどうやって、罪に繋がっていくのでしょうか?

第一に、わたし達は「自分が正しい」と思ってしまうからです。
自分を神としている状態のわたし達は、自分が正しいと思っています。
そう考えていなければ、行動を起こす事なんてできないからです。
しかし、本当に正しいのはいつでも神様であって、わたし達ではありません。

「自分が正しい」という想いがどんどん大きくなっていくと、わたし達はすぐに“自己正当化”をしていくようになります。
そうなると、人を傷つける事も、人を不当に支配する事も、時には犯罪すらも“自分は正しい”という思いの中でやってしまうから大変です。
戦争とは、多くの場合“正義”と“正義”のぶつかり合いである事も、わたし達はわかっているのではないでしょうか。

第二に、「自分はすべてをコントロールできる」と思ってしまうからです。
人のものを自分のものにしてしまったり、人を脅したり傷つける事によって言う事を聞かせようとしたり、わたし達がお金や力や、権力というものに執着してしまうのは、すべて「コントロールしよう」とする欲求を満たすためです。

そしてうまくいっている時には傲慢になり、うまくいかないと挫折感や屈服感に打ちのめされてしまうのです。
物事が自分の思い通りに進まない時にわたし達がイライラしてしまうのは、やはりわたし達の中に、「コントロールしたい」という思いがあるからではないでしょうか。


この様にして、現在はわたし達の行動に知らずの内に影響を与え、わたし達の行いを罪へと導いて行きます。

匂い消しでどれほどそのにおいをごまかしても、匂いの元が断たれなければ問題の解決にはなりません。
たかってくるハエを、どれほど殺虫剤で殺しても、その本質が断たれるのでなければ、別のハエがやってくるだけです。
わたし達がどれほど行いの部分だけを正してみても、罪の本質を理解しなくては表面的な行いが変わるだけです。
しかし本質的な罪が解決しない限り、わたし達が罪人であり、裁きを受けなければならない事に代わりはないのです。
では、どうやってこの本質的な問題を解決したらいいのでしょうか?

そこに解決をもたらすために、イエス様はこの地上に来て下さったのです。
これまでお話ししてきたように、罪の本質は、わたし達と神様との関係が断たれた事です。
だからこそ、神様の側からわたし達にアプローチし、橋渡しをして下さる必要があったのです。
神様は、文字通りに自らを引き裂いて、わたし達に愛を示して下さいました。
それが、十字架です。
神様の側からは、できうる最善以上の事をして下さいました。
後は、わたし達の側の問題です。
わたし達が、罪の本質である神様との関係を修復したいと思うかどうか。

わたし達が罪の問題を本質的な部分から解決するためにはどうすればいいか、おわかりになったでしょうか?
そして、イエス様の十字架によって罪が贖われたという事を信じる信仰が、どうしてそんなに大切なのか、お分かりになっていただけたでしょうか?

わたし達が自分の罪に気がついて、神様に立ち返ろうとするなら、神様は放蕩息子を迎える父親のように心からわたし達を受け入れて下さいます。
しかし、兄息子がそうだったように、どれだけ正しい行いをしていても神様との関係を回復しない限りは、根本的な問題は何も解決しないままなのです。
わたし達が確かな信仰をもって、神様との関係を回復していく事ができるように、共に祈りましょう。

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