ルカ1:26-38 『 喜びの訪れ②~おことばどおりに 』 2012/12/02 松田健太郎牧師

ルカ1:26~38
1:26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
1:28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
1:36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

今日からアドベントに入りました。
聖書箇所を読んでいただいてお気付きになったかと思いますが、子供の話と同じ個所からのメッセージに挑戦してみようと思いました。
必然的に似たような話になってしまいますが、だからこそあえて、少し違う視点でこの部分を見て行きたいと思います。

さて、まずは先週のメッセージを振り返ってみましょう。
御使いガブリエルは、祭司ザカリヤに、長年祈り求めていた子供が与えられた事を伝えました。
しかしザカリヤは、すぐにはその話を信じる事ができませんでした。
妻のエリサベツはもう年を取り過ぎていて、子供なんてできるはずがないと思ったからです。
その不信仰によって、子供が生まれるまでの数カ月間、ザカリヤが話すことができなくされてしまいました。
「理屈などこねずに、あなたは黙って見ていなさい。」という事です。
そこまでが先週のお話しでしたね。

① 問題のただ中で働かれる神様
その話に引き続き、ガブリエルはマリヤの元に現れます。
カトリックではマリヤを神様の母として、信仰の対象であるかのように扱いますが、彼女自身がスゴイ人だったわけではありません。
マリヤは、おそらくは貧しい家庭で産まれた、ごく普通の少女でした。
そのマリヤは、大工であるヨセフと婚約していたのです。

天使ガブリエルはそんなマリヤの元に表れて、「おめでとう恵まれた方。」と告げます。
平凡なひとりの少女だった彼女が、神の御子の母として選ばれたからです。
しかし、マリヤの側の事情を考えると、実はそれほど単純に喜べる話ではありません。

まだ結婚していない、まだ男性を知らないはずの少女が妊娠してしまったのです。
現代の日本ではそれほど大きな問題にはならないかもしれませんが、ユダヤの慣習では、婚約中に妊娠するなんてとんでもない事です。
ましてや、その相手が婚約者ではないなどという事は、法律では石打ちによって死刑とされるような出来事だったのです。

いっそ、彼女が婚約する前であれば、罰せられますが死刑にはならないんです。
なのに、よりにもよってどうして今? というタイミングで、マリヤは神の御子を宿したのです。

神様は時として、とんでもない事をとんでもないタイミングで起こす事があります。
わたし達が求めるのは、問題なんて起らず、何事も平穏無事であってほしいと思ったりするものですが、神様の計画は必ずしもそうではないようです。
そこには問題が起り、事件が起ります。
しかしとんでもない状況のさ中でこそ、神様の御業も起るものなのです。
病気の中でこそ、癒しがあります。
死の中にこそ、蘇りがあります。
絶望的な戦いの中でこそ勝利があるのです。

しかしそこには、わたし達にも求められているものがあります。
それは、わたし達の信仰です。
神様の御業が起る時、そこには必ず信仰も伴う必要があるのです。
その信仰とは、マリヤのこの言葉の中に集約されています。

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
マリヤの信仰とは、一体どのようなものだったのでしょうか?

② おことばのとおりに
マリヤの信仰を考える前に、少しわたし達自身の信仰について考えてみたいと思います。
わたし達クリスチャンの信仰とはどのようなものなのでしょうか?
実はこの部分が曖昧になっていたり、全く理解できていないという事があります。
するとわたし達の信仰は、どんどん弱り果てて死んで行ってしまうのです。

まず第一に信仰とは、イエス・キリストが救い主であり、神様であると信じる事・・・ではありません。
それを信じなくていいという事ではもちろんありませんが、それで終わっていたらそれは信仰ではないのです。
実は、多くのクリスチャンの信仰が、このステージで止まってしまっています。
しかし、それだけでは信仰として十分ではないのです。

ヤコブの手紙にこの様な言葉があります。

ヤコブ 2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

同じように、悪魔、悪霊たちはイエス様が神の御子である事も信じていますし、わたし達よりももっと確かな事として知っているはずです。
では、彼らに救いはあるんでしょうか?
そうではありませんね。
悪魔、悪霊たちに救いはありません。

もしわたし達の信仰が、「神様はいる。」と信じているだけで留まってしまったら、わたし達が霊的に成長する事はほとんどないでしょう。
それでは、「主のお言葉通りになりますように。」と答える事は絶対にできないのです。

宗教改革を起こしたマルティン・ルターは、この様に言っています。
「そういう人達は、海を渡らなければならないのに、怖がってその船に乗らない人達に似ている。こうして彼らは、自分がいる所に留まったままで、決して救われない。」「神様はいると信じている。」という事は、「船は浮くと信じている。」と言っているのと同じです。
その知識自体は間違いではありません。
でも問題なのは、船を浮く事を信じているかどうかではなく、船に乗る事です。
わたし達は、神様がいると信じているかどうかではなく、神様と個人的な関係を築く事。
そして、神様を心から信頼する事が求められているのです。

神は全知全能の神であり、わたし達を愛しているという事。
その神様によってもたらされる祝福は、必ず良い結果をもたらすはずだという事。
マリヤはその全てを個人的な体験の中で信じ、神様を信頼していました。
だからこそマリヤは、ガブリエルの言葉が神様の御心なのであれば、それは必ずその通りになると信じ、受け入れる事ができたのです。


わたし達にも、「おことば通りこの身になりますように。」と祈る信仰が求められています。
そのような信仰が、わたし達の内にはあるでしょうか?

わたし達は、神様によって作られたという事。
わたし達は、神様によって愛されているという事。
わたし達は、神様によって赦されているという事。
それは時として、信じがたい事かもしれません。
神様がこんなわたしを愛しているなんて、自分のあんな罪が赦されたなんて。
でも考えてみていただきたいのです。
マリヤは、自分こそ神の子を宿すに相応しい人間だと考えていたでしょうか?
いいえ、そんな事はありません。
マリヤはこう言っています。
「本当に、わたしは主のはしためです。」
「自分はそのような祝福に相応しくはない。でも、わたしは神様の御前でむにも等しい無力な者だからこそ、それが神様の御心であればきっとそうなると信じます。」
それが、マリヤの信仰だったのです。

この感じ方は、わたし達にひとつの言葉を思い出させないでしょうか?
それは、山上の説教の中で語られたこの言葉です。

マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

神様の前にあって、あなたが無に等しい、貧しい者だと感じているなら、あなたは幸いです。神の国は、あなたの内にあるからです。

わたし達も、神様に愛されるに足りるような人間ではありません。
あの罪が神様に赦されるなんてありえない。
神様の愛に相応しい人間になんて絶対になれない、罪が赦されるほどの償いなんて絶対にできない。
でも、だからこそわたし達は、主の前に貧しい者となって、神様の愛と赦しを受け取るしかないんだという事を知る事ができるのです。
「わたしはそれにふさわしい者ではありません。でも、そうぞあなたの御言葉の通り、この身になりますように。」

わたし達が神様に愛され、赦されている事を心から信じる時、わたし達の身には何が起るでしょうか?
今度はわたし達が、他の人達を愛し、他の人達を赦す事ができるようになっていくのです。
わたし達はどれだけそれが正しい事でも、規則だからと言うので、愛しにくい人を愛し、赦しがたい人を赦す事はできません。
しかし、愛にふさわしくない自分が愛されている事を知る時、赦されがたい自分の罪が赦されている事を心から実感する時、他の人達を愛し、赦す事ができるようになっていくのです。

そのような信仰なしに、わたし達がイエス様に命じられている事を実践する事はできません。
わたし達がクリスチャンとして、本当に成長していくためには、この信仰はなければならないものなのです。

今までの自分の信仰は、「神様はいると信じます。」というレベルで留まっていたという方がいるかもしれません。
もしそうであれば、今がチャンスです。
強い信仰がなければならないのでは決してありません。
わたし達にはからし種の信仰があればいいとイエス様は言っています。
その小さな信仰で神様に信頼し、身を任せればいいのです。
主の御言葉は、わたし達の内で必ず真実となるのですから。

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