使徒14:8-20 『 使徒⑳~土台とすべきもの 』 2013/01/20 松田健太郎牧師

使徒14:8~20
14:8 ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。
14:9 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
14:10 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
14:11 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。
14:12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
14:13 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。
14:14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」
14:18 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。
14:19 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

さて先週から、パウロとバルナバによる第一回伝道旅行の話に入っています。
この話もただそこだけを読んだら、パウロとバルナバが何をしたかという歴史的事実の記述でしかありません。
しかし、福音を伝えて弟子を増やしていくという使命が単に特別な人達に与えられたものではありません。
私達全てのクリスチャンが、福音を回りの人たちに伝えていく使命を受けているんです。
わたし達は地の塩として、世の光として、いつも神様に遣わされた大使としてこの世界に出て行きます。
わたし達がそれを意識して生きるようになった時、パウロとバルナバの伝道旅行は、もっと実際的で、個人的な意味をもって読み取ることができるというのが、先週お話したことでしたね。

今日もいつものように、この聖書箇所からお話しをしていっても良かったのですが、ちょっと思いついた事がありまして、今日は少し違った観点からお話ししていく事ができないかなと思いました。
それは、いつものように「この聖書の話しはこういう事です。」というお話を僕が一方的にするのではなく、この聖書箇所から個人的なメッセージを受け取るにはどう考えて行ったらいいかという事に焦点を置いて、一緒に考えていけたらと思ったのです。

というのは、聖書は牧師だけが解釈をし、みなさんはそれを聞いていればいいんだとは思っていただきたくないからです。
皆さんが、自分自身で聖書を読み、神様の御言葉に耳を傾けつつ、そこからメッセージを受け取っていただく必要があります。
それが神様の対話をするという事であり、それによって私達クリスチャンは成長していく事ができるのです。
まぁ、早速やってみましょう。

①  考えてみよう
さて、まずは今日の聖書箇所がどんなお話だったかという事なのですが、簡単に言えば3つの事が起りました。
ひとつには、足の不自由な人がいて、パウロがそれを癒すという奇跡があったという事。
第2に、それを見た人々が、パウロとバルナバを神話の神々だと思って拝み始めたという事です。
それを見たふたりは、最初は何が起っているか分らなかったのですが、彼らは自分たちを偶像として拝んでいるのだという事がわかると、それは間違っているという事を人々に告げました。
そして、皆が唯一であり真の神様に立ち返るように勧めたのです。

ところがその後、この様な事が起ります。
第3に起った事は、ユダヤ人たちがやってきて、パウロ達を石打ちにして殺してしまうように説得しました。
結局パウロ達の宣教は身を結ばず、この町を離れる事になったというお話しです。

さて、聖書の言葉を自分自身の経験と照らし合わせながら、個人的なメッセージとして受け止めて行く事を“適用”と言ったりします。
今日のお話を、私達はどうやって適用していったら良いのでしょうか?

皆さんの中で、誰か深刻な病気に人達と出会って、祈ったらそれが癒されたという体験がある方はいらっしゃるでしょうか?
さらに、それによって周りの人達が驚き、手を合わせて拝み始めたり、お供え物を持って来たというような体験のある方はいらっしゃるでしょうか?

こういう体験をした事があるという方も、ないとは言いません。
実際、僕の神学校の先生は田舎へ奉仕に行った時、村に何やらありがたい人がやってきたらしいと大騒ぎになって、おばあさんがやってきて手を合わせて「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と拝み始めたという話も聴いた事があります。
でも、そんな体験をする人は滅多にいないのではないでしょうか?

この話を自分の体験と照らし合わせてと言っても、自分には奇跡が起って誰かが癒されたという経験もないし、神のように扱われたというような体験もないというのが実際の所でしょう。
じゃあ、ここから何を受け取ったらいいのですか?

② 何を受け取るか?
私達は、ここで起った事とズバリ同じ経験というのはした事がないのですが、実は色んな所で似たような経験をしているのではないかと思うのです。
でも、その事に気が付いていないという事が、実は問題なのです。

考えてみていただきたいのですが、神様の御業というのはどういう所で起っているものなのですか?
今回の聖書箇所で起った事は、神様の御業としてもわかりやすい奇跡的な出来事です。
でも神様の御業というものは、実はもっと当たり前の所にも起っているものなのではないでしょうか?

例えば、今わたし達が生きて生活する事ができているという事。
私達は自分が仕事をし、自分の努力によって生きていると思っているかもしれませんが、本当にそうだと言えるのでしょうか?
聖書にはこの様に書かれています。

イザヤ 49:1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。

神様がわたし達に命を与え、この時代の、この国の、この家庭に産まれるというすべての事が神様のご計画なのだとしたら、私たちが今こうして生きている事ができるのも神様の御業です。
神様が環境を作り、能力を与え、健康を備え、条件を整え、守って下さった結果得てきたものがあります。
私達はそれを、全て自分の力や努力によってのみ得て来たと思ってしまってはいないでしょうか?
もしそうだとすれば、私達はとんでもない勘違いをしている事になります。

そんな中で、私達は称賛を受ける事もあるでしょう。
神様が与えて下さった成功や成果に対して、まるで私たちが自分の力だけで成し遂げたような評価をされる事があるのです。
そんな時、私達はどうしたらいいのでしょう?

③ どうしたらいいか?
パウロはこう言っていますよ。

14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

パウロのように、「わたしじゃなくて神様なんです。」というべき時もあるでしょう。
私たちが賞賛を受ける時、いちいちこういう風に言って、評価して下さる方たちを戒めるべきかどうかというと、それもどうかと思いますが・・・。
でも少なくとも、私達は自分自身で、それを理解している必要があると思います。
私達が関わった事の中で、何か良い事があったのだとしたら、それはたぶん私達自身の力によるのではなく、神様の憐れみによるのだという事を。
そして、私達は他の人達からの評価に一喜一憂する事に気を付ける必要があります。

評価されるのは嬉しいですよ。
努力が報われたような気もしますし、成功を祝福してもらえるのはすごく嬉しいです。
それは素直に喜んだらいいと思うし、他の人の事もどんどん褒めてあげたらいいと思います。
「それはあなたが素晴らしいんじゃなくて、神様がすごいんですよ。」なんて余計な事を言う必要はないですよね。
でも、他人の評価は、私達の土台とはなりません。
そんな賞賛は、いつまでも続くものとは限らないからです。

この時パウロ達を神様のように崇めていた人達は、ユダヤ人たちがやってきて何かを吹き込まれると、あっという間に手のひらを返して彼らを迫害しました。
石を投げて、気を失ったパウロを待ちの外に放り出してしまったのです。
人の心なんて簡単に変わります。
裏切られたとか、そういう事じゃなくて、人の評価なんてそんなものだという事です。

だから、たとえば自尊心が他の人からの評価に依存してしまうと大変な事になります。
いつも上がったり下がったり忙しい事になりますし、人の顔色ばかり伺わなければならなくなってしまう。
例えば僕が、礼拝出席とか、みなさんの食いつきの良さだけを基準にして教会を作ろうとしてしまうと、有名な人達を呼んでコンサートやイベントばかりしたり、メッセージも楽しくて耳触りのいい話ばかりになっていくでしょう。
それは一見、活気があって素晴らしい教会に見えますが、中身のない、世俗的な、神様の御心からは外れた教会となっていくのです。

私たちが土台とするべきは、神様の御心です。
神様がわたし達にどんな使命を与え、何をさせようとしているか?
人の評価ではなく、神様がわたし達をどう評価して下さるか?
それこそがわたし達の土台ではないでしょうか?

最後にイエス様のたとえ話をひとつ読んで、今日のメッセージを締めくくりたいと思います。

マタイ 7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

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