ガラテヤ2:15-21 『 ガラテヤ4~わたしの内にキリストが生きる 』 2013/06/02 松田健太郎牧師

ガラテヤ2:15~21
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

ここしばらくの間、わたし達はガラテヤ人への手紙を通して、恵みとはどのようなものかという事を考えてきました。
福音は、律法主義の原理ではなく、恵みの原理によるものだというのがパウロの結論でしたね。
しかし、恵みについて考える時、多くの人がふたつの事に関して疑問を持ち、恵みを受け入れる事ができなくなってしまいます。
今日は、このふたつの疑問に焦点を置きながら、ガラテヤ人への手紙を読み進めていこうと思います。

① 不公平な神
イエス様がしたたとえ話の中で、ぶどう園の話を皆さんは覚えているでしょうか?
マタイの福音書20:1~15に、この話が出てきます。
ぶどう園で働く日雇い労働者達の話で、朝一番から働いた人も、朝9時から働いた人も、昼から、午後3時からそして仕事が終わる直前の午後5時からきた人達も、同じ賃金をもらったという話しです。
「神の国とはこのようなもので、後の者が先になり、先の者が後になる」とイエス様は言いました。

これこそ恵みの原理ですね。
後から来た人は、得る資格がない一日分の賃金を、恵みによって得たのです。
しかし、朝一番で働いていた人にとってはとんでもない話ではありませんか?
自分が苦労して働いた10時間は何だったんだという事になります。
恵みの原理は、著しく不公平なのです。
「神様がこんな不公平な事をするなんて受け入れらない」と思うでしょうか?
保守的なユダヤ人クリスチャンたちも、そのように思ったのです。

ユダヤ人達は、これまで厳しく律法を守ってきました。
割礼を受け、安息日を守り、食事制限をし、いけにえを捧げ、礼拝を捧げ、定められた祭りをしてきたのです。
それなのに、何もしていないポッと出の異邦人が同じように救われて、律法を守らなくても良いなんて、そんなの不公平だと考える人達が、ユダヤ人クリスチャンたちの中にはいたという事です。
パウロもその気持ちをくんでこの様に言っています。

2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

「わたし達ユダヤ人には、確かに律法というものが与えられている。
正しい事を知っているという事において、何もしてこなかった異邦人達とは確かに違う。
でも、考えてみなさい。」と、パウロはこの様に続けているのです。

2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

わたし達はつい、自分達は朝一番で働き始めた人達のように思っているかもしれない。
でも実際は、収穫なんてろくにできていないのです。
むしろ収穫しなければならないぶどうを台無しにしてしまうのが、わたし達の罪です。
時給ではなく、出来高で給料をもらうのだとしたら、一日分の報酬をもらうどころか、弁償をするためにいくら支払わなければならなくなるでしょうか。

だから救いは、私たちに恵みによって与えられなければならないのです。
そして恵みは、全ての人に等しく与えられています。
恵みによらず救いという報酬を得る事ができる人は、どこにもいないのですから。

② 罪の助成者
続いてパウロは、この様に書いています。
2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

恵みに対してのもう一つの反対意見は、罪の誘惑に対して恵みは無力だという事です。
僕自身が、伝道する中でこういう意見を聞いた事があります。
「どんなに良い事をしてきた人でもキリストを信じなければ地獄に行き、どんな凶悪殺人犯でさえイエス・キリストを信じれば救われてしまうんですか?
だとしたら、正しい事をするなんてすごくバカバカしいじゃないですか。
自分だって好き勝手をして、凶悪犯になって、死ぬ間際に悔い改めて天国に行きますよ。」
そういう意見です。
救いの条件に行いが伴わないなら、確かに、恵みは人をもっと罪へと近づけるようにも思えます。
皆さんはどう思いますか?

これも、先ほどのぶどう園のたとえ話を通して考える事ができます。
誰にでも同じ報酬が与えられるなら、みんな5時から働く人になってしまうでしょうという話ですよね。
すごく説得力があるような気がしませんか。
しかしこれは、たくさんの大きな勘違いからきている考え方なんです。

第一に、この考え方は罪の中にある事は素晴らしい、という勘違いから来ています。
確かに、罪は魅力的で楽しい事のように思えます。
自分の自我も一時的には満たしてくれますが、実際に罪が与えるのは、虚しさと、たくさんの痛みです。
自分自身を傷つけ、周りの人達も、わたし達にとって大切な人も、無関係な人さえもすべて傷つけてしまうのが罪の恐ろしさです。
肉体的な傷ならわかりやすいですが、それは心の傷だったり、価値に傷を与えたり、社会に傷を与えるのでなかなか認識できないのです。
多くの場合は、それがどれだけ傷を作っているかという事にさえ気付かないで深みにはまり、気付いた時には回復する事が難しいくらいの状態になっているのです。

第二に、労働は全て辛くて大変なものだという勘違いから、この考え方は来ています。
神様という雇い主の元で働く事が、どれだけ素晴らしい事か知らないのです。
学校の先生になるために勉強をしていたはずのマザー・テレサは、どうしてカルカッタという過酷な場所で貧しい人達に仕える働きの中に身を投じたのでしょうか?
アルベルト・シュバイツァーは、医者という高収入の仕事ができるのに、アフリカで無報酬で働く生活を選んだのでしょうか?
スケールは小さくなりますが、僕はどうして牧師という働きをしていると思いますか?
それは、神様に与えられたこの働きが、他の仕事にはない喜びを与えてくれるからです。

自分と周りにたくさんの不幸を振りまいて、終わり間際にやってきて天国にだけ行かせてもらう人生なんてもったいない。
こんな事を言い方は良くないですが、それは惨めでかわいそうな人生だと思います。

大変そうなのに、どうしてそんな喜びがあるのでしょうか?
その答えはここにあると、パウロは言います。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

これは、「自分を殺してキリストに従う」とかそういう話ではありません。
恵みによる救いという福音を信じた時、わたし達は律法に対して死んだのです。
それは、わたし達の肉的な性質が求める律法の世界とは完全に切り離されて、キリストによって生かされる人生が始まったという事です。

新しく生まれ変わった人生は、わたし達がイエス様とともに歩む生き方です。
イエス様がわたし達の内に生きて下さり、わたし達を支えて下さいます。
イエス様が、わたし達を愛し、罪を完全に赦し、わたし達の代わりに重荷を背負い、励まし、立て上げ、命を吹き込んで下さる。
全てが恵みによって与えられている人生では、感謝と喜び、そして神様への愛がわたし達を突き動かすのです。

③ 恵みと努力
もちろん楽な事ばかりではありません。
大変な事も山ほどあるし、努力も必要です。
しかしその大変さは、わたし達を成長に導き、素晴らしい物をもたらすために苦難です。
わたし達は努力をしますが、それは救いや幸せを勝ち取るために善行を積み上げるようなものではありません。
わたし達は、神様の愛と恵みに留まり続ける努力のために、力を費やすのです。

それは、祈りと御言葉を通して神様との関係を深め、神様の御心を求め、それに従い続けるという努力です。
わたし達の罪の性質は、放っておけば神様から離れてしまうので、神様に留まり続けるための努力が必要なのです。
しかし、わたし達が神様に留まり続ける限り、わたし達はそこに、決して尽きる事がない井戸の様に、命の水を受ける事ができるのです。

同じクリスチャンとして生きるとしても、律法主義をベースに生きようとしたらそうはいきません。
調子のいい時は傲慢になって人を裁き、神様に対しては報酬の小ささに文句を言います。
調子の悪い時は、自信を失って自分を責め、助けてくれない神様に文句を言うのです。
そんな生き方は、信仰を持たない事よりももっと酷い生き方かもしれません。

だからパウロはこう言っています。
2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
そして、こうも言いました。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

イエス様の十字架を無意味にするような、そんな生き方をしないでください。
そんな信仰を他の人に強要するような伝道なら、やめてしまいましょう。
それは自分自身を不幸にし、他人を不幸にし、神様を悲しませる事に他なりません。
神様の愛に留まり続け、恵みによって生きて欲しいのです。
それこそが、福音なのです。

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