ガラテヤ6:1-10 『 ガラテヤ11~キリストの律法を全うする 』 2013/08/04 松田健太郎牧師

ガラテヤ6:1~10
6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
6:6 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

ガラテヤの教会に宛てた手紙も、いよいよ最後の章、まとめの言葉へと入ってきました。

ガラテヤ人への手紙は、律法主義に陥りかけていた人々を、福音に引き戻すために書かれた手紙でした。
だから手紙の中でパウロは、恵みとして与えられている救いの素晴らしさ、そして御霊によって歩む事の大切さを教えてきたのです。
そしてパウロは最後に、御霊によって歩むクリスチャンたちに求められている生き方について、具体的に話をしています。

これももちろん全て、これまでの話から独立した話ではありません。
これまでの話を考慮に入れながら、パウロがガラテヤの教会の人々に伝えたかった事を共に考えて行きましょう。

① 誰かが過ちに陥ったとき
パウロはまず、誰かが間違いを犯した時にどうするべきかについて書いています。

6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

これを読んでいたガラテヤのクリスチャンたちは、一瞬「あれ?」と思って混乱したかもしれません。
なぜなら、誰かが過ちに陥ったときに相手を正すことが好きなのは、律法的な価値観を持った人々だからです。
律法主義的な人達は、とにかく他の人達が間違った事をしていないか常に目を見張って、「正してあげる」時を待ちかまえていますよね。
それは、「正してあげる」時こそが、自分の正しさを証明する事ができる瞬間だからです。

しかし、手紙の全体像を把握する中で、注意深く読み進めるなら、パウロはここでそのような事を言おうとしているのではない事がわかります。
パウロは「柔和な心」でその人を正し、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」と忠告しているのです。

どういう誘惑に陥らないよう忠告されているのかと言えば、「自分は正しい」という思いの中で、「相手を裁く」誘惑なのではないでしょうか?
わたし達は、このような場面でそういう誘惑に駆られるものなのです。

パウロはこのようにも忠告しています。

6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

わたし達は、誰も正しくなんてありません。
自分の方が正しいから、相手の間違いを指摘して正しさが証明されるのではないのです。
わたし達もたくさんの過ちを犯し、悪いところが実はたくさんあります。
それは、牧師や長老のような立場の人たちも同じです。

でもわたし達は、「だから他の人たちの過ちは見過ごした方がいい」のではなくて、「それでも人の過ちを正してあげる必要があるのだ」とパウロは言っているのです。
それは、それによってキリストの律法が全うされるためなのです。

② キリストの律法
パウロは、このように書いています。

6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

ここで語られている“キリストの律法”とは何でしょうか?
“モーセの律法”に従おうとすることは間違いだけれど、“キリストの律法”には従わなければならないという事でしょうか?
わたし達はこの言葉の意味をよく理解する必要があります。

キリストの律法とは、つまりこの事です。

ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

“キリストの律法”とはつまり、神様があなたを「愛した」ようにあなたも神と他の人を「愛しなさい」という戒めのことなのです。

わたし達の中にある律法主義的な価値観は、何が正しく、何が間違っているかという価値を基準にして、相手を裁き、正し、その事によって自分の“義(正しさ)”を主張しようとしてしまいます。
しかし、わたし達に求められているのは、愛によって判断し、愛によって行動するというキリストの律法による原理です。
なぜなら、それこそが御霊の働きによってもたらされるものだからです。

相手を正すことが、どうして相手を愛することになるのでしょうか?
それは、神様の御心から外れた事には必ず痛みが伴うからです。
その行いが神様の御心から外れている事を、知っていても、知っていなくてもそこに伴う痛みは変わりません。
それが罪である事を知っていてもあえてその道を進んでしまうのは、その人の自業自得の部分もあります。
しかし、神様の御心から外れている事に気がつかない人たちが、そのままその道を進んで痛い経験をするのを見過ごすことは、あまりにも不親切な事ではないでしょうか?

わたし達は、それが神様の御心から外れている事を知らない人が、その痛みを経験しなくても済むために「そこから離れなさい」と忠告してあげるのです。
それは、決して余計なお世話なのではなく、相手を思う愛と親切から来る行動です。

これは、実はとても勇気のいる事ではないかとも思います。
こうする事によって、相手にムッとされることも少なくないからです。
相手との信頼関係がちゃんと出来上がる前に忠告したところで、聞いてもらう事すらできないかもしれません。

相手が耳を傾けないこともあるでしょう。
そういう時にわたし達は、「せっかく忠告してやっているのにこのやろう。」なんて思う必要はありません。
そのような怒りが起こるなら、そもそも動機の部分から間違えていたのだと思います。
忠告に耳を貸すかどうかはどの人自身の問題ですから、その時は好きなようにさせてあげればいいのです。
痛みの中からしか、学ぶことができない事もあります。
わたし達がやるべき事をやったなら、それで十分なのです。

③ 種まきと刈り取り
最後に、もうひとつパウロが付け足している事があります。
それは、救いが恵みとして与えられるからといって、わたし達は自分の行動に関して無責任であっていいということではないという話です。
パウロはこのように言っています。

6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

これは、どういう事でしょうか?
良い事をすればよい結果があり、悪い事をしたら悪い結果になるという話ですか?
だったら、これまで話してきた恵みの話はどうなってしまったんですか?
この価値観の元で、わたし達が受けるものはすべて悪いものです。
わたし達はみんな神様から離れ、“罪人”となってしまったのですから。
わたし達は、良いものを受ける価値がなかったのに、神様の恵みによって良いものを受けたんだというのが、わたし達にとっての福音であるはずです。
という事は、パウロは因果応報とか、カルマのような話をしているわけではない事がわかります。

ここでパウロが話しているのは、わたし達がどこに力を傾けるかという部分の話です。
わたし達が良いことに力を傾ければ、その部分が成長します。
逆に、悪いことに力を傾ければ、悪い部分が大きくなってしまうということです。

救いが自分の行いの結果によらないという恵みの話になると、どうしても「じゃあどんな悪い事をしても良いし、神様のために何もしなくていいんだ。」という考え方が出てきてしまいます。
でも、そんなものではない、とパウロは言っているのです。

肉の働きに力を注げば、わたし達の肉の部分が成長する事になります。
御霊によって歩み続けるなら、わたし達はより御霊によって歩むようになり、より多くの御霊の実を結ぶようになっていくのです。
肉の働きがどのようなものをもたらすか、御霊の実がどのようなものかは、先週のメッセージの中で見ましたよね。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制というようなものです。
わたし達のうちには、そのような御霊の実がもっともっと多く成長していってほしいものです。

パウロは、この手紙の全体を通して、恵みの重要性について話してきました。
恵みの発想は、わたし達の中には普通にはない発想ですから、多くの人たちに誤解をもたらす考え方でもあります。
だからこそ、わたし達も学ぶ必要のある教えであり、未だにたくさんの人たちが誤解している部分でもあるのです。
皆さんの中で、恵みによる救いと、福音の信仰は確かなものとして根付いてきているでしょうか?
頭による理解が本当に自分のものとなるまでには、もっと時間もかかるものと思います。
また、わかったつもりでもすぐにずれてしまうのがわたし達です。
わたし達は繰り返し、この恵みの信仰へと戻っていく必要があります。
希望は、福音とともにあるのですから。

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