エペソ4:1-16 『 エペソ7~御霊の一致 』 2013/09/22 松田健太郎牧師

エペソ4:1~16
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
4:7 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。
4:8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」
4:9 ――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
4:10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

エペソ人への手紙からのメッセージは、今日で7回目になります。
エペソ人への手紙は、クリスチャンとは何か、教会とは何かというテーマで書かれている手紙です。
そのことに変わりはありませんが、ここから手紙は、もっと具体的な話に変わってきます。
言ってみれば、ここから第2部が始まるわけです。
今日は内容が盛りだくさんなので、早速本題に入っていきましょう。

① 召しにふさわしく
パウロは、クリスチャンとして、教会として生きていくためにこのようなアドバイスをしています。
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

“召された”というのは、“選ばれた”という意味ですが、わたし達は何に召されのでしょうか?
単に、天国に行くために召されたのではありません。
クリスチャンになり、教会となるために召されたのです。
教会に所属するため、ではありませんよ。
教会になるということは、キリストの体の一部になるということです。

「わたし達は、キリストの体となるために選ばれたのだから、その選びにふさわしい生き方をしましょう。」と言うのです。
それは、このように生きるという事です。

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

わたし達は、それぞれにキリストの体として召されたのです。
しかし、例えわたし達一人一人が素晴らしく洗練されていったとしても、それぞれがバラバラだったとしたら、それはうまく機能する事ができません。
わたし達の体は、それぞれが骨や筋肉や神経などで繋がり合っています。
手だけが切り離されて、勝手に活動したりすることはできません。
互いに結ばれているからこそ、その体の一部分も活きるのです。

どうすればそんな一致を保つ事ができるのでしょうか?
そのために必要なのは、わたし達が謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛を持って互いに忍び合うという必要があるという事なのです。
このひとつひとつを解説することはしませんが、ここに書かれていることは全て、自分の利益や栄光を第一とするのではなく、他の人たちを立てあげるということです。
これはつまり、互いに愛し合うということなのです。
パウロは同じ内容の事を、コロサイ人への手紙の中でもう少し具体的に書いています。

コロサイ 3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

わたし達の間に、このような愛はあるでしょうか?
わたし達が愛によって結び合わされているのでなければ、わたし達はバラバラのままです。
そして体の一部が体から切り離されたら、やがてその部分が壊死してしまうように、わたし達も愛によって繋がっているのでなければ、キリストの体として生きている事ができないのです。

② からだは一つ
でもそこには、難しい問題があります。
わたし達は、どうしても自分の価値基準に照らして他の人たちを見てしまう傾向があるので、自分の価値観と相反するものを受け入れる事が難しかったりします。
そこで気の合う者だけで集まり、自分たちと違う人たちを批判したり、攻撃的になってしまったりするんです。
それで教会は、これまでの歴史の中で何度も分裂を繰り返してきてしまいました。

それぞれが機能しやすいように分裂するのなら、それは決して悪いことではないし、時に必要なことです。
でも、互いに認め合う事ができないのであれば、それは問題なのではないでしょうか?
パウロはこう言っています。

4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

わたし達は、それぞれがあまりに違ったり、価値観が合わなかったりするので、それが自分の敵であったり、間違っている人たちであるように感じるかもしれません。
でも、教団や教派が違い、神学では一致していなくても、それは同じイエス様をかしらとする体の一部であり、同じ御霊が与えている個体差かもしれません。
だからわたし達は、キリストを通して神様との関係を回復するという同じ希望を分かち合っているはずです。
すべてはひとつ。
三位一体の神様が、父、子、聖霊という違う性質を持ちながら一体となっているように、わたし達もそれぞれに違う性質を持ちながら、神様によってひとつに結び付けられるのです。

③ キリスト者の成長
さて、わたし達がキリストの体として機能するため、それぞれに神様から与えられている特別な力や能力を、“賜物”と呼びます。
賜物には色んな種類があって、わたし達にはそれぞれ違う賜物が与えられています。
この手紙の中では、その中で教会を建て上げ成長させる、5つの賜物が紹介されています。

4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

使徒というのは、教会から教会へと巡回して、コーチングをしながらそれぞれの教会の成長を促す賜物が与えられた人たちです。
預言者というのは、神様からの言葉を預かって、人々に伝える賜物です。これは広い意味では、メッセージも含まれているでしょう。
伝道者は、まだ信じていない人たちに福音を述べ伝え、救いへと促す人たちです。
牧師というのが、聖書のここにしか出てこない言葉なので、実は一番よくわからないのですが、その名前を考えると、羊を育て、導き、ケアする人たちの事ですから、今の言葉で言うとカウンセラーと言う言葉が一番しっくりくるかもしれません。
そして教師は、聖書や教理の事を教える人たちの事を表しています。

僕はこの手紙を読みながら、現代の教会は少なくとも二つの面で見直される必要があると思うんです。
ひとつは、現代のプロテスタント教会の牧師は、この5つの全ての働きを担う事になっているという事です。
まぁ、中には5つの賜物を全て与えられ、5人分の働きをできる人もいるでしょうが、全ての牧師にそれを求められても困ります。
牧師が全てを担う事によって、僕たち牧師は皆さんの賜物が活かされる場を奪ってしまっているんじゃないかと思うのです。

もうひとつは、この5つの働きの目的です。
この5つの働きが、信徒の成長のためである事は確かだと思います。
では、現代の教会が求めているクリスチャンの成長とは何でしょうか?
それは、牧師が何を見て教会の成長を計るかを考えるとわかります。
クリスチャンの成長とは、第一によく礼拝に出席すること。
第二によく聖書を読み、キリスト教教理の知識があること。
第三によく祈ること。
第四によく奉仕をすること。
第五に収入の十分の一を献金する什一献金をしっかりすること。
そして、教会に通う人の数が増えると、教会が成長していると言うのです。
確かにわかりやすいですが、それが本当にクリスチャンの成長と呼べるのでしょうか?

僕の友人の牧師が、こんな事を言っていました。
現代の教会は、ビンに入った卓上塩のようだというんです。
イエス様は、わたし達が地の塩、世の光だと言いました。
それなのにわたし達は、地の塩を集めて、「こんなに大きいビンになった」と喜んでいる。
その結果、地からは塩がなくなってしまう。
これは皮肉なことに、むしろ悪魔の手助けをしている事にならないでしょうか。

パウロは、クリスチャンの成長についてはこのように言っています。

4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

クリスチャンの成長とは、わたし達がキリストの体として大人になる事です。
わたし達は子供の頃は、頭でっかちでからだは小さく弱いですよね。
赤ちゃんの頃には、頭が重すぎて、立ち上がることさえままならないのです。
しかしやがて成長していくと、頭の大きさに見合った体となり、しっかり立ち、行動できるようになります。
そうやって、キリストの体として、キリストの満ち満ちた姿にまで成長して行こうではありませんか。
神様が、そのような成長をさせてくださいます。
その、時わたし達は地の塩として、家庭に、職場に、学校に、近所付き合いや、友人たちとの関係の中に、神様の愛をもたらす事ができるのです。
祈りましょう。

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