エペソ4:17-24 『 エペソ8~新しい人 』 2013/10/06 松田健太郎牧師

エペソ4:17~24
4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
4:20 しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
4:21 ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

エペソ人への手紙のシリーズから、8回目のメッセージです。
これまでのメッセージで、クリスチャンであるとはどういう事か、そして教会として生きるとはどういう事かを学んできました。
それは単に救われて天国に行く人という事ではなく、単に教会に行く人たちという事でもありません。
一言で言うなら、わたし達がキリストの体として生きるという事が、クリスチャンだという事であり、教会になるという事なのです。

この何千年もの人類の歴史の中で、神様がキリストとしてわたし達の中に生きられたのはわずか3年です。
その3年間に色んな事を伝え、人々を癒し、解放しましたが、十字架にかけられて死んでしまいました。
その3日後に復活しましたが、それから40日後には、今度は天の父なる神様の元に帰って行ってしまいました。

「わたしは世の終わりまでいつでもあなた方と共にいます。(マタイ28:20)」と言っていたのに、イエス様はもうわたし達と共にいないのです。
イエス様は嘘つきだったんですか?
いいえそうではなく、今は聖霊として、わたし達共にいてくださっているんです。

イエス様が肉を持ってこの地上にいた時には、確かに人として生きる中でたくさんの人たちが神様を知る事ができましたが、一度に多くの人たちと共にいる事はできませんでした。
しかし、聖霊としてわたし達の内に来てくださったとき、主は信仰を持つわたし達全てのクリスチャンの内に、いつでも共にいる事ができるようになったのです。

わたし達がどうしてキリストの体として生きる事ができるのか?
それは、神様が聖霊としてわたし達の内に住んでいてくださるから、わたし達は聖霊によって、神様の手足として生きていく事ができるのです。
そしてわたし達はついに、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するようになるのだと、パウロは話しているのです。

① 神様を知らない生き方
それでは、わたし達クリスチャンは、本当にキリストの体として生きる事ができているのでしょうか?
現実はどうなのかという事を、わたし達は見ていく必要があります。

自分自身の事を顧みてみても、自分はキリストに似たものとなっていくなんて考えがたいなぁと思います。
わたし達の中には、相変わらず克服できない罪や問題があるし、クリスチャンになったからと言って、本質的な部分はちっとも変わらない。
ましてや、その身丈にまで達するというなんていう事は、とても現実的なことには思えません。

周りのクリスチャンを見ていたって思うじゃありませんか?
わたし達は信仰の若い頃は、みんな素晴らしいクリスチャンに見えるんですが、ある程度周りが見えて来て本性がわかると思うわけですよ。
「あいつら、あれでもクリスチャンかよ。」って・・・。
でもね、安心してください。
自分はもっとひどいですから。(笑)

わたし達はイエス様の十字架によって神様との関係が回復し、聖霊が与えられて共にいてくださるはずなのに、どうしてこのような事が起こるのでしょうか?
パウロはその事をここで話しているんです。

4:17 そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
4:19 道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

異邦人というのは、ユダヤ人じゃない人たちということではなく、ここでは神様を知らない人たちということですね。
神様を知らない人は、正しさと言うものが自分の中にあるものだと思って、自分の正義によって自分も他人を計ってきたわけです。
だから自覚なんてないままに罪を行い、自分も他人も傷つけて、そのくせ他人は批判し、見下すと言う事をしてきたわけじゃありませんか。

でもわたし達は、今神様を知っているんですから、そんな神様を知らない人のようなむなしい生き方をしていてはいけないとパウロは言っているんですよ。
なぜならば、神様から離れた生き方というのはそれそのものが滅びにいたる道だからです。
わたし達は悪い事をしていたら神様によって裁かれて滅ぼされるのではなくて、わたし達が歩んでいる神様から離れた道そのものが滅びへ至る道なんですよ。
わたし達は救われているはずなのに、どうしてそんな滅びの道を歩み続けようとするんだという事なのです。

② 古い人を脱ぎ去り
そんな事が起こってしまうのは、わたし達が古い人を着たままでいるからだとパウロは言います。
そして、わたし達が古い人を脱いで新しい人を着るのでなければ、わたし達はイエス様に教えられた生き方をしていく事なんてできないと言っているのです。
わたし達は救われた。
でも、救われていない人と同じような生き方をしているんです。

IIコリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と教えられているのに、わたし達は相変わらず古い人を着ていて、ちっとも新しくなっていないというわけです。

では、古い人を脱いで、新しい人を着るというのはどういう事でしょうか?
これは、ノンクリスチャンのような振る舞いを止めて、クリスチャンらしい清く正しい振る舞いを身につける・・・という事ではないんですよ!
今更そんな、表面的な行いだけを変えればいいという話をパウロはしていないのです。

わたし達は、神様を知る前に持っていた価値観や考え方を、全部脱ぎ去ってしまう必要があるという事です。
わたし達が蝶になるためには、芋虫だった頃の皮は完全に脱ぎ捨ててしまわなければならないのです。
聖書の言っている“悔い改める”というのは、言語では“方向転換する”という意味の事ですから、本来こういう事を言っているのです。
そうでなければ、わたし達は変わる事ができません。
わたし達はせっかく救われているのに、この地上にいる間はいつまでも古い自分に縛られたままで、救いなんて全くないような生き方を続けるのです。
そんなクリスチャンを、パウロは肉に属するクリスチャンと呼びました。
イエス様は、塩気のないクリスチャンだと言いました。
イエス様は結構厳しい事を言っていますよ。

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

すでにこういう状況は起こっているような気がしますよね。
クリスチャンとか言って、戦争して人を殺しているんじゃないか。
クリスチャンとか言って、人を差別し、支配し、横領し、搾取しているじゃないか。
そう言って、多くの人たちがアンチ・キリスト教となっていくのです。
確かに、それがキリストの体なら、誰がそれに繋がりたいと思えるでしょうか?

③ 新しい人を着る
古い自分を捨てられない気持ちはわかります。
心に傷を受けているから、十分に愛されてこなかったから、今の生活を変えたくないから、悪いのは自分じゃないから、絶対に赦せない、絶対に愛せない。
確かに、それは簡単な事ではありません。
古い自分を脱ぎ捨てる事なんて、とても不可能な事であるように思える事もあるでしょう。
わたし達はそのために力が与えられるよう、心から祈り求めていく必要があります。
でもね、ほとんどの場合は、わたし達自身が変わる事を求めていないんですよ。
実は古い価値観、古い自分にしがみついていたいんです。
それが自分を苦しめる事になっていても、捨てられない。変わりたくない。
それが自分だと思い込んでいるから。
自分は罪から逃れられないという、強い信仰を私たちは持ってしまっているのです。

でもわたし達が古い自分を脱ぎ捨てるなら、神様がわたし達に新しい人を着せてくださいます。
それは、自分を殺して、我慢して人に尽くす自分、とかではありませんよ。
多くの人たちは、クリスチャンがこういう人たちだと誤解してしまっています。
でも、そんなの長続きするはずがありませんし、そんな自分にはなりたくないでしょう?

神様が着せてくださる新しい自分。
それは赦され、愛され、高価で尊い新しい自分です。
人から満たされたり、自分で自分を満たそうとしなくてもいい。
すでに十分なものを与えられているので、周りの人たちに愛や、希望や、喜びを分かち合う事ができる自分です。

そんな自分になってみたいと思いませんか?
そのために、わたし達はまずイエス様を受け入れ、救われる必要がありますね。
そうしたら、わたし達は古い自分を脱ぎ捨てて、新しい自分として、本当に救われた自分としての歩みを始める必要があるのです。
わたし達はすでに、新しくされています。新しい自分として生きようではありませんか。

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